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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー 終

第1話
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第7話
第8話
第9話(前回)

 湯船に身をゆだねているような、陽だまりが満ちた部屋でまどろんでいるような。そんな穏やかな安心感が、名前を呼ぶ声で遮られた。
 死体が起きたわけでもないのに大げさに驚く兄の姿で視界が埋まる。いつのまにか寝ていたみたいだ。

 講義を受ける学生のようにひしめく木々の輪郭を目でなぞり、そのまま視線を兄に戻すが、焦点はまだ定まらない。

「来たんだ、本当に」
「無視はできないだろ。救急車を呼ばなきゃいけねえのかと焦ったぞ」

 ずいぶん寝ていた気もするが、実家から公園は徒歩圏内だ。時計の長針は真下から半周、今日の月に似た半円を描けるほどしか動いていなかった。

「おい馬鹿、帰るぞ」
「“おい”でも“馬鹿”でもありませんー」
「……帰るぞ、ツグミ」
「立てない」

 着古したコートのポケットへ手を入れたまま、兄は半目で私を見下ろした。

「おまえの酒癖はどうにかならねえのか。なにがあったんだ」
「うっさいな、見りゃわかるでしょ」
「わからねえから聞いたんだよ」
「先生と別れたんだよ文句あるか!」

 私の勢いに気圧されたのか、兄は地雷原を進むような足取りでベンチへ近づき、尻の片方がずり落ちるほど端に座った。黙ってレジ袋を漁り始める。

「あの……水、買ってきましたので」
「急に低姿勢にならないで」
「帰りてえ。メグの野郎、言っておけよ」

 数分のあいだ居心地の悪い沈黙が続き、再び眠気がおとずれたので兄の肩を支えに上体を起こした。渡された水を喉に流し込む。一口ごとにペットボトルはべこりと音を立てひしゃげ、体はスポンジにでもなったのか、いつまでも水分を欲した。

 一分もかからず中身の三分の一を失ったボトルに、ウイスキーを注ぎ足して口づける。何をやっているのだ、と無言で問いかけてくる兄を睨んだ。

「みっともない飲み方だな」
「うるさい。負けを認めるために飲んでるの、みっともなくて結構」

 ときに正気を保ったままでは過ごせない夜もある。
 今夜は星明りさえ目に染みて、鼻腔が凍りそうなほど空気は冴えていた。

「良かったじゃねえか、あんなクズと縁が切れて」
「お兄が先生の何を知ってるの」
「何も知らないから適当を言ってるんだよ」

 もっともらしい発言をして「まあ、終わった話だろ」と興味なさげに締めた。始まってすらいなかったのだと返すと、きしむような痛みが蘇ってくる。

「どうして」

 何に対する疑問だろう。自分でもわからなかった。どうして。どうして。稚拙な言葉を重ねるほど、胸の奥で閉じていた扉がこじ開けられていく。

 ずっと――、先生とゆかりさんを前にしたときから、喫茶店でコーヒーの波紋を追いながら、そろった二枚の紙幣を見つめながら。いや、本当は、変わってしまった先生の苗字を知った、あの桜ほころぶ季節から、ずっと。
 私は泣きたかったのかもしれない。

 自覚をしたら視界は滲み、薄暗い空に散る星々が歪んだ。進化の末に得たものが感情の涙なら、人類は弱体化していないだろうか。
 独りよがりなセンチメンタルに身をうずめ、頬を伝う雫を重力にまかせておいた。

「親同士が結婚話を持ってくるなんて、今時ないでしょ。まぬけな名前になって何が処世術だ、ばーか」
「おいツグ、声がでかい」
「ずっと付き合ってくれる気がしてたって、そんなおめでたい健気な奴がいるなら見てみたいね。傷つけられたみたいな顔してなんなの。本当に、なんなの……? あんな顔をするくらいなら、私を」

 一気に吸った空気を数秒肺へ溜め、抱えた膝の中へありったけの悪態に変えて吐いた。胃からこみ上げた酸っぱさも思わず戻しかけ、慌てて水で押し返す。
 酔いと酸欠でおぼつかない頭に、兄の手のひらが降ってきた。

「叩かないでしょ普通」
「いい年こいてこんな所でぎゃあぎゃあ騒がないんだよ、普通は。ったく、小学三年生か」

 私の頭頂部に乗せた手を、今度は子供をあやすごとく兄は二回動かした。

「ツグは平気で人の飯を取るようなことはしても、誰かの不幸の上に幸せを築けるほどの度胸はねえんだよ」

 和らいだ語調に安堵したら負ける気がして、鼻を啜って声を尖らせる。

「お兄こそ、いい年して頭なでたら女が喜ぶと思ってるの?」

 舌打ちと共に私の頭をもう一度叩いて、しかし大きな手のひらは懲りずに髪の毛を軽く乱した。

「……自分から手放したって思っておけよ。奪われたとか失ったとかじゃなくて、投げ出してやったんだってくらい開き直っちまえ。そうしたら、今度は別のものが掴めるだろ? 空いたその手で」

 鳴りだした除夜の鐘が、潤滑油となって鈍い頭を回してくれた。

「今年が終わらないと、来年が来ないみたいに?」
「ああ、そうだな」

 終わらないと始まらないこともある。そう考えれば、今の感傷に意味が生まれる。気休めだと笑い飛ばせばそれまでだ。けれど砂漠が雨の一滴に貪欲なように、乾いた心にはさりげない言葉も染みわたってしまう。

 柄にもない慰めがおかしくて、
「それならお兄にもあるの」
 思わず心からの疑問が漏れた。

「掴みたい、別のものが」

 着実に出世していく仕事。周りがうらやむ容姿端麗な妻。家は子供はと両親にせっつかれ、曖昧に答えながら頭を掻いている後ろ姿は、ありふれた幸福の中にいる人間のものに見えた。
 しかしそんな半生で得た多くを手放し、うっかり命すら捨てかねない顔をして、空っぽな手を伸ばしたいものが、この兄にあるのだろうか。

「お兄にはさ、どうして離婚したの」

 後ろめたさを隠すように視線を逸らした兄の胸倉を引き寄せ、顔を覗き込む。

「ねえ。なんで」

 鬱陶しげに眉をひそめたのは一瞬で、諦めたのか長い手足だらりと自由にした。

「これだけ酔ってりゃ明日には忘れてるか」

 空を仰ぐさまは、星を見る犬とどこか似ていた。

「大学のころ、大晦日に……ちょうどこの場所だったな。昔の彼女と二年参りに行って、カップ麺の蕎麦を食ってたんだよ。もう年は変わっていて、蕎麦は冷めてぐずぐずで、寒さで口も回らなくて。久しぶりに会う彼女は髪が伸びて、達磨みたいに着ぶくれていたのは、ありゃ笑えたな。馬鹿でかいリュックを背負ってると思ったら、土産だって伊勢海老せんべいを出してきてさ、中にそれしか入れてねえんだよ」

 長い時間をかけて深呼吸をしたあと、ちらりと目線を北へ向けた。

「月は出てなかったけど、あの星は変わらずあそこにあった」
「……酔ってるの?」
「茶化すなよ」

 兄の女性関係など興味もないので、それなりにはあったのかもしれないが、私が知っているのは二人だけだ。ひと時だけ家族になった元妻と、高校時代から数年続いた初めての彼女。

「そういう全部をひとつだって過去にできなかったくせに、忘れたふりだけは得意になっていくんだよな」
「まさか、その人とやり直すために戻って来たわけ?」
「今さら無理だろ」

 辛うじて声の形を保った白い息は、達観の色を含みながらも空に祈るような切実さがあった。

「疲れたんだよ、ただ。自分をごまかしてるって気づいたら、そんな生活を続けるのも、誰かを付き合わせているのにも。もう、耐えきれなくなった」

 何と返せばいいのか。何度か舐めた唇は動くより先に夜気で冷たくなった。

「いつか折り合いをつけて、過去は過去のまま終わらせて。本当はそういう生き方が正しいんだろうな。でも」

 どうしてもできなかった。

 呟いた表情は悲しみであり怒りであり、自嘲であり、どうしようもないやるせなさであり。そのどれもであり、どれでもないあらゆる矛盾をはらんだもので、懺悔じみた告白のためだけに生み出された顔に思えた。

 許しを請うように、兄はまだ遠い星を眺めている。
 人類は星々の今の姿を知らない。輝きがすでに失われていても、知るすべはないのだ。それでも過去のまばゆさに心を捧げているこの肉親の愚かさを、私は心からわかってあげたい。

「なにそれ。本当に……本当に、ただの馬鹿じゃん」

 許してあげたい。
 だよな、と流星のように目を細める兄の笑い方を、私は久しぶりに見た。

「あのさ、お兄」

 照れくさい感謝の声は、公園内の視線を一斉に集めた響きに打ち消された。

「ツグ、間に合ったよ!」
「メグ?」

 後半戦の除夜の鐘にも負けず劣らず、むしろ押し気味で、女三人分を上回る姦しさを一身に担った大女が走ってくる。
 今年もあと十分。ブザービートを決めた時に似た高揚感が胸に広がりつつあった。

「本当に帰って来れちゃった」

 メグミは勢いのままスニーカーで地面を抉り、私の前で仁王立ちをした。
 長野では心もとないカーキーのラップコートから覗くのは、ハイウエストのワイドパンツに覆われた脚。色は漆黒。これ以上脚を長く見せてどうするのだろう。しかし、そんな感想はひどくナルシズム的だ。

 歯の隙間からは不釣り合いな”かみなり三代”のストローが飛び出し、笑い声が漏れるたび、紙パックがゼンマイ仕掛けのおもちゃのように上下へ動いた。

「お兄も酔っ払いの相手、ご苦労さん。助けに来たよ」
「酔っ払いが増えただけじゃねえか」

 兄の苦言もいなして、メグミは早口にまくしたてる。

「タクシーのお兄さんのドライブテク、名古屋で鍛えただけあってすごいのなんのって。テンション上がって名刺もらったけど、よく考えたらいらないからツグにあげる」
「いらないよ……」

 個人タクシーらしい簡素な名刺を私に投げて、メグミはその手を躍らせた。

「あ、そうそう。五万円ね」
「え?」
「え、じゃないでしょ。深夜料金で五万五千と百七十円。端数と電車代分は私が払うとして、五万円ね。宿もなくなったから四万五千でいいか」
「タクシーで帰って来たのか。いいご身分だな」
「ツグが払うって言ったんだよ。ほら、もらってきた領収書。それより見て、タクシーの領収書で印紙!」

 爆笑する要素があるのかは不明だが、何度見返しても領収書には五から始まる五桁の数字が並んでいた。現実という海に投げ込まれ、過去の自分を殴りつけたくなる。

「嘘……二万くらいかと思ってた」
「名古屋ってどこにあるか知ってる?」

 ポケットをまさぐって出てきたのは皺の寄った万札が二枚。叩いたところで増えるわけもなく、財布を開けば諭吉は家出中だ。樋口と野口を一体ずつ召喚して財布を閉じる。乾いた笑い声が出た。

「笑ってごまかさない。明日ちょうだいよ?」

 自他関係なく金に細かいメグミは、やっぱり車で行けば良かったとぼやいてベンチに座る。

「お兄そっち詰めてよ、っていうか邪魔なんだけど」

 小さいベンチは大柄な三人が並ぶと窮屈で、メグミに押された兄の脚が触れた。
 邪魔、とその太ももに膝頭をぶつける。

「なんなんだよ、おまえらは」

 頭を抱えて腰を折った兄の背に右肘を乗せると、同じタイミングでメグミも左肘を兄の背へ預けた。自然と目が合う。
 ひらめいて、ショートサイズのコーラ缶を取り出した。兄の目を盗んで小刻みに振ってみせると、察したメグミは目を三日月にして声を殺して笑った。きっと私たちは今、同じ顔をしている。

「重いからどいてくれよ」

 何も知らない兄だけが、二重の肘の下で足元を見つめていた。ふと脳裏をよぎったのは、彼女たちと過ごした幼き日々。

 こうしてありふれた日常を重ねた先に、明日が来る。新しい年の自分は生まれ変わった別人ではなく、ただ数分だけ年を取った、今の延長線上を生きる自分だ。心のすべてを引き継いで、消えないくすぶりを抱いたままの私だ。そうして過ぎゆく時間の中で、何を手放し何を得ていくのだろう。

 夜空に手をかざした。女にしたら節々の太い手のひらの隙間から、月明りが漏れる。こんなにも大きな手のひらを持っていても、まだ何も掴めない。水を掬う日々を生きている。
 もしかするとそれは隣の兄や妹も同じで、大切なものは手のひらをじっと見つめるのをやめたある日、気づけば種も仕掛けもないままに手中へと飛び込んでくるのかもしれない。
 驚くほど唐突に酔いが醒めはじめた頭で空想した。

「ねえ、もうすぐだよ」

 メグミの声で、遠くから響いてくるカウントダウンに気づく。私は兄の背から肘をどけた。

「乾杯しようよ。お兄もさ、コーラあげるから」
「おう、サンキュー……じゃなかった。ツグはもう飲むんじゃねえぞ」
「はいはい」

 兄を挟んだ向かい側で、ロングチューハイを開けたメグミがいたずらに成功した顔を作った。
 十、九と数を刻む誰かの声を耳に、お茶のプルタブに指をかける。同じ動作をした兄の叫びと私たちの甲高い笑い声が、一瞬だけ公園内のすべてを支配した。

 どんな心を抱えていても、数秒後に変化のない自分と世界の姿を知っていても。今だけは浮かれた道化になって、無垢な子供に戻って、大げさにふざけてやろう。無理やりにでも、涙が滲むほどに笑ってみせよう。
 それがやがて、わずかな力に変わる。

 まばらな拍手と百八つ目の鐘の音に合わせて、私は小さく呟いた。
 ハッピー・ニュー・イヤー。



最後までお読みくださった方、感想をくださった方、本当にありがとうございました。
そして構想のきっかけとなった、デニーズでテストの採点をしていた名も知らぬ教師のお二方に感謝を。笑


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