【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー⑤
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「おーい、体育館そろそろ閉めるぞー」
高校三年生の頃。私とメグミは、琢磨先生の緩んだ声を合図に部活の自主練習を終えていた。
あの日もそうだった。例年より早い木枯らし一号が吹いたと天気予報士が告げた日の放課後、県予選を控えた私は、体育館でひとりゴールへ向かっていた。メグミは進路指導室へ呼ばれていた気がする。
後輩は私たちほど熱意がないらしく、帰り支度をする動きの方が機敏だった。好かれてもいれば可愛がってもいる。けれど、自主練習までするかは別問題らしい。私とメグミ以外の三年生は、夏の大会で引退した。半端な実績とはいえ進学校だ。強豪でもない部活動に、冬までしがみつくメリットはなかった。
「おー、ツグにしては珍しく姿勢が不安定だな」
声に振り返ると、入り口に立つ先生が鍵の紐を指先で回した。派手な音を立て、直前に放ったボールがリングに弾かれる。ボールは無視して先生に一礼した。
しなびた大根を彷彿とさせるYシャツに、道端で力尽きたミミズみたいなネクタイをぶら下げて、ズボンだけは上質なジャガードスラックス。けれどそこから覗く足元は、ワンコインで買えそうな便所サンダル。新手のファッションを疑うちぐはぐな格好と、へらりとした笑みは出会った春から変わらない。
「ツグだけか? メグはどこ行った」
視線をボールへと戻す途中に、メグミが置いていったリュックと丸めたウインドブレーカーがちらついた。どうしてそんなことを考えたのか。今となってはよく覚えていない。
私はメグミの上着を掴んで袖を通しながら、
「やだなあ先生。あたしがメグミですよ?」
わずかに声の調子を上げた。
教師やクラスメイトはもちろん、ときに両親や兄ですら騙された演技だ。
「おう、悪い悪い……って、いや、違うだろ?」
しかし不思議と、顧問の男性教諭は私たちを間違えたことがなかった。「メグミです」と言い張る私を怪訝そうに見て首を傾げたあと、しぶしぶ受け入れたらしい。
「じゃあツグはどこに行ったんだ?」
「トイレですよ」
「ふうん、そうか。なら戻って来てから片付けるか」
先生は私が外したボールを拾ってゴール下に立つと、正面を指しながら「シュート練な」と短く呟いた。
「シュートレンジまでにしよう」
直後、素早いパスが手元に届く。ほとんど反射的にゴール下へ入り、踵を浮かせてシュートを放った。風切り音だけを立て、ネットが静かに揺れる。床に着くより先に、先生の手がボールを弾き返した。
私は半歩下がりながら腰位置で受け取った球を、先ほどと同じ動作で宙に上げた。常にゴールの正面に立ち、シュートが高確率で入る限界範囲まで打ち続けていく。テンポが重要だ。ゴールを決めるまでは後ろへ下がれない。シンプルながら空き時間によく繰り返した練習だった。
バックボードに当たって入った球を「もう一度」と先生が投げる。ボードに当てるバンクショットを使わないのがルールだ。
「どうしたツグ、今日は体調でも悪いのか?」
「だからメグミですって」
「あー、はいはい。まだ続いてるのな、その設定は」
先生は子供の遊びに付き合うように取り合わず、リングでバウンドしたボールを私へと返した。暖簾どころか風を手で押す気分にさせられる。
全身で口笛を吹いているような人。出会ったときに抱いた先生への印象は、半年経っても変わってはいなかった。
「先生は高校の頃、総体で部活を引退したんですよね」
けれど『経験者だから押し付けられた』とあけすけな物言いとは裏腹、指導は的確でまっとうだ。
「なんだ急に? ああ、そうだぞ」
「どうしてですか」
「どうしてって……部活は夏までだって、そういうものだと思ってたからだよ。夏休みは受験勉強に集中したかったしなあ。逆におまえらが残ったことに驚きだ」
その通りだった。なぜ私たちは残ったのだろう。少なくともうだる夏の頃は、出られる試合を放棄する選択肢は存在すらしていなかった。
迷いはなかったはずだ。「あたしたち浪人するんじゃね?」と隣で笑えもしないジョークを飛ばしていたメグミが、ちゃっかり指定校推薦の枠で、進路を固めていると知るまでは。
レシピに集中して家を燃やしそうなツグミと、消火器を置いて火遊びをするメグミ。それが私たちに対する両親の見方だった。つまるところ私は不用意で、気づけばコンパスもないまま航路を漂っていた。
「……メグが羨ましいって、最近思うんです」
半端に伸びた腕に送られたボールは、バネが外れた機械のように力なくゴール前へ落ちた。
「おいおい、今日は本当にどうしたんだ。で、ということは、おまえはツグでいいんだよな?」
先生はボールを小脇に抱えたまま訊ねる。手持ち無沙汰になった私は、フリースローラインを跨いだまま立ち尽くして頷いた。
「あの子、器用じゃないですか。大学だってほぼ決まってるんですよ」
勉強もスポーツも、何においても拮抗した実力だが、その実メグミにはどことない余力があった。手を抜いているのとは違う。能天気で軽々しくて、けれどおいしいものの食べ頃を見抜き、取捨する賢さがある。これから大人になるにつれ、私たちの差異はどんどんと開いていく、そんな予感があった。
ようやく私の思考が見えてきたのか、先生は顎に手を添えて頷いた。
「ああ、推薦って言ってたな。ツグは一般だよな」
「はい。でも志望校はまだ決まってなくて。とりあえず書いた大学もD判です」
「まずいなあ、そりゃ。でも俺もそんなもんだったかなー」
クラスの男子のようにおどけて笑う先生は、変に導いてやろうという驕りも、理解がある風を装う欺瞞もなく、まして聖職者などとはほど遠い。まだ学生気分が抜けきっていないきらいがあった。だからこそ良くも悪くも、同じ目線に立つ人間に思えた。
「部活、私は残らない方が良かったんでしょうか」
「どうしてそう思う」
穏やかな声と表情。同時にその裏には私の迷いを許さない威圧があり、私は初めて年の差と立場の違いを垣間見た。
先生も自分も納得させられる理由を持たない私は、下唇を噛んだまま俯く。もどかしさに任せて擦れたシューズで床を蹴ると、不釣り合いに愉快な音が体育館に響いた。
「ウチの女バスがこんなに強かったことなんて、今までないぞ? 名誉じゃないか。一浪や二浪がなんだなんだ」
「えっ」
予想外の言い草に顔を上げた。
「っていうのは冗談にしても……あ、今のは言うなよ? 怒られるから。斎藤先生とか冗談通じねえんだよ、あの人。大学は十九だろうがハタチだろうが、百歳になっても受けられるけど、高校の試合はこれが本当に最後だからなあ」
それに、と続ける。
「誰だって出られるわけでもない」
細めた目で指の上のボールを眺めている先生は、いわくボール回しなら誰よりも上手かったとのこと。そんな先生が自分の引退試合をベンチ外で見守ったという話は、自嘲的な表情も相まってよく覚えている。
「いいか? あのときこうすれば良かったって後悔に、意味はないんだよ。迷っても悩んでも、過去に時間は流れないんだから。それとも、今から部活辞めるか?」
「いえ、それは」
「だろう? だから今のツグは、もうやりきるしかないってことだ」
さあ続きをやるか、と緩やかなパスが出される。
昔見たアニメのオープニング曲みたいなセリフだ。変に思考が逸れると脱力した。かえってそれくらい力が抜けた方がいいのかもしれない。少し長めに息をつく。膝から腹筋、肩、腕と徐々に力を移していきながら、いつもより慎重に右手でボールを押し出した。スウィッシュ、の声を耳に一歩後ろへ下がる。
「メグが前に言ってたな。ここぞって大勝負のときはツグに任せたいって。どうマークを外してフリーにするか考えるってな。あいつ曰く、覚悟を決めたときのツグは最強らしいぞ」
先生の声に耳を傾けながらも、意識は驚くほどボールに集中していた。
兄が通っていたミニバスの練習に初めて参加したのは八つの頃。それから十年間、呼吸をするように繰り返してきた動作だ。
出されたパスを受け取りながら一歩下がると、つま先の数センチ先にスリーポイントラインが現れる。
「最後だ。上半身、意識しろよー」
いつもと同じ間延びた声が、耳心地良かった。自然と背筋が伸びる。柔らかい力で地を蹴り両足を浮かせた。最高到達点で指からボールが離れ、淀みなく大きな軌道を描いていく。目に見えない力が足の裏から全身を流れ、ボールにまで伝わり導いてくれるような感覚が、ときどきあった。そんなときは行く末を見守るまでもなく得点を確信でき、これだからバスケは辞められないと思ってしまう。
「よし、ナイス」
床で二、三弾むボールを置き去りに近づいてきた先生が、ひらりと手を振った。それがハイタッチの合図だと気づくまでに数秒かかり、肘を曲げながら右手を上げると、乾いた音が空気を裂いて体育館の隅から跳ね返った。
「……あの。めっちゃ痛いです」
俺も痛い、なんて手を赤くするならやらなければいいのに。
「正直なところツグはまあ、器用ではないな。猪みたいというか視野が狭くなりがちで、ちょっと柔軟性に欠けるときもある」
赤くなった自分の手のひらと私の右手を交互に見ながら、ゆっくりと何度も瞬きを繰り返した。
「でも、やると言ったことは必ずやってくるし、当たり前のことを確実に積み重ねて、それを当然だと思えるところがあるだろう? そういうのは案外な、大人になっても誰もができるわけじゃないんだよ」
飄々とした笑顔をなくした先生は、一本一本糸を撚るように、一語さえも選んでいた。
「だから大丈夫だ。ツグみたいな奴は、必ず最後には決められるもんなんだ」
そう感じたのは、地植えをしたら平気で庭を占拠しだした観葉植物さながらにふてぶてしい先生が、このときはただの青年に見えたからだ。自分の言葉を私がどう受け取るか、自信なさげに気にしているらしかった。
もちろん教師として、けれど大人らしさをまとう余裕を忘れるくらいには、ありのままに向き合ってくれたのかもしれない。
「……ありがとうございます」
私の声をかき消すように、体育館の扉が重厚な音を立てて開いた。
「お待たせー。あれ、先生じゃん。今日はもう閉めますか?」
ジャージ姿のメグミが、何も知らないのんきな彼女が、A4の茶封筒を手にシューズも履かず入ってきた。
「なんだメグ、随分長いトイレだったなあ。うんこか」
「はあ? それセクハラですけど? というか面接の練習してたんですけど。ツグ、適当なこと言わないでよ」
「ごめんって」
「いいからさっさと片付けて帰れよー。俺ぁ、まだ仕事があるんだ」
先生がいつもの調子に戻っても、熱はまだ痛みという形で手のひらに残っていた。和らぐどころか、徐々に全身へ巡っていく感覚すらある。その日初めて、自分よりも背の低い先生の手が、一回りも大きかったのだと知った。
県予選の二回戦。それが私たちの引退試合になった。一〇二対四十二の敗退劇は、観客のほとんどが見ていられなかっただろう。迫りくる終わりの予感を意識しながら、しがみつく以外の道はないのだという思いが、最後のブザーが鳴り響くまで脚を動かした。
その後、勉強一色に染まった生活は、頭を働かせることだけが不明瞭な明日に道を作るようだった。
「だから大丈夫だ」
ともすれば鼻白むその言葉を、幾度繰り返しただろう。ありふれた、無責任にも聞こえる一押しが、けれどあのときの私には必要だったのだ。
先生は教師として当たり前の発言でひとりの生徒を励ましたに過ぎない。勝手に救われた気になった私が、感謝と敬意と恋情とを区別できなくなってしまっただけ。
授業中に教科書であくびを隠す姿。昼休みの校舎裏で煙草をふかす横顔。呆けているようで、実は全員を追いかけている部活中のまなざし。目が合うとバツが悪そうにふいと視線を逸らし、万年の寝ぐせか天然パーマか、宿り木の子供のような髪をかく仕草に口元が緩んだ。
***
「あー、冷た……」
泥と雪で濡れた手を見つめ、私は小さくため息をついた。社会人になってバスケから距離を置いたのは、青春と呼べていた日々を思い出したくないからなのかもしれない。自分自身の手で過去を汚した気分にさせられる。
子供じみた脳内の花畑は、ドライフラワーにでもして心に飾っておけば良かったのだ。そうしたら永遠に美しく咲いていたに違いない。無理に現実なんかに引き出そうとしたから、傷つき色あせ、やがて修復が効かないほどに崩れ去るときがくるのだろう。
もしも時間を巻き戻せるのなら、あの頃からやり直せるとしたら、私はどうするだろうか。
「最後には決められる、か」
新しい年を前に私はどうしたいのか。すべての思考はまとまりがないまま、白い息とともにあやふやに散った。
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