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【オリジナル小説】ハギノさん家のハッピー・ニュー・イヤー⑦

第1話
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第3話
第4話
第5話
第6話(前回)

「同僚の……」

 そこまで口にしたのに、動揺のあまり私の苗字が記憶の底に沈んだのか、先生は尻切れした言葉を打ち切った。女性へ手のひらを向けて私を一瞥し、”カミサン”とだけ短く呟く。

「ゆかりです」

 名前なんて知りたくはなかった。そしてまた、私も明かしたくはない。
 しかし、先に名乗られてしまえば自分だけが濁すわけにもいかず、調子を合わせて頭を下げた。

「同僚の、萩乃です」
「主人がいつもお世話になっています」
「いえ。こちらこそ」

 できるだけ機械的に同じ挨拶を返した。この場から逃げられるなら財布どころか全財産をも捧げたいくらいだが、定型文を交わし「ではさようなら」とするには、勝手が悪すぎた。

「萩乃さんも担当は国語?」
「え? あ、はい。そうですよ」

 腹をくくり唾をのみ込んだ。
 十分に潤っているはずの喉が、声を人質にして水分を欲している。
 押し出したように吐いた返事は低く、不愛想に思えたかもしれない。震えてしまっていないだろうか。目は不自然に泳いでいないだろうか。テストの採点をするように自分の所作ひとつひとつに意識を向けると、何もかもが誤りだらけに感じて呼吸は浅く、身体の感覚が薄れていく気がした。

 先生は牛乳瓶を唇に当てたまま眼を閉じており、助け船どころか自身が沈没寸前だ。
 むしろ空気と化して逃げようとしているのか。だとしたらずるくないか、そんなのは。

「国語の先生はお風呂で本を読むものなんですねえ」

 的外れの感嘆を漏らす彼女――ゆかりさんだけが、目尻を下げて屈託ない笑みを浮かべていた。

「ねえ、萩乃さんもさっきお風呂で本を読んでいたの」

 南の空に虹でも見たかのような目で、ゆかりさんが先生の腕を突く。

「さすがに俺は温泉じゃあ読まん、アホか」
「ちょっと」

 ゆかりさんの窘めにも、ふうんと、ほう、のハーフみたいな返事しかしない先生に頼っていたら、一生この空間に閉じ込められる錯覚がした。
 心拍の落ち着いてきた胸から手を放し、会釈をする。

「あの、すみません。私、失礼しますね。良いお年をお迎えください」

 先生の方は見なかった。少々強引過ぎただろうか。
 先生には、愛想のない奴だとか気の利かない奴だとか、陰口を叩いて繕ってほしいものだ。

 けれど、下駄箱で振り返ると、ふたりの間にはもう自然な空気が流れ始めていた。

「たっくん、また髪濡れたままでしょ。外、寒いからね」
「そのうち乾くよ」
「ちゃんと乾かないから言ってるの」

 全身から噴き出た汗は、今さら自分たちの過ちに気づいたらしく、慌てて私から離れようとしていた。炎天下から冷房の効いた部屋に入ったときのように、身体から急速に熱を奪って。

 はじまりこそ親の仲介だったとはいえ、ふたりの関係にこころがないわけではなかったのだ。そんなこと、当然理解していたというのに。

 家へ着く頃になって震えたスマートフォンには、先生からのメッセージが表示されていた。駅前の思い入れもない喫茶店名が記されており、一言「今から来れるか?」。あんたの方が来られるの。疑問は省いて、短く肯定文を送る。
 

「先生は馬鹿なんじゃないですか」

 指定の喫茶店で待つこと十五分。優しげなドアベルを鳴らした先生は、ようやく乾きかけた髪を空風に揉まれ、崩壊寸前のタンブルウィードみたいにして現れた。どこでもらったのか、蜘蛛の巣にかかった虫のような綿羽も絡めて、切れた息を整えている。

 季節外れにも白い渚のブルースが流れる店内に、椅子を引く甲高い音が響いた。それを気に留めたり不快に感じたりする人はいない。客は私たちふたりだけだった。

「寿命が三年くらい縮みましたよ」
「俺は今日が命日になるかと思ったぞ」
「それで、何て言って来たんですか」
「時計を忘れたって」
「先生は馬鹿なんじゃないですか。勘繰られますよ、そんな見え透いた嘘」
「でも、風呂から出たあと時計はポケットへ入れたままだったんだよ」

 見当違いな答えをしながら、先生はブラックレザーをいじって時計をはめ直す。

「奥さんは」
「家だよ。お義母さんとまだおせちを作るんだとさ。まあ、大丈夫だろ。あいつ、あれでいて頭はいいんだけど、どこか抜けていて鈍いところもあるから」
「先生は馬鹿なんじゃ」
「わかった。馬鹿でもいいからもうよせ」

 最後の発言がもっとも愚かしいことを、先生は自覚しているのだろうか。

「ああいう人は気づいていても知らないふりをしますよ」
「……まさか」

 蔵を改築した、窓のない、外から様子が窺えない店を選ぶ配慮はできても、女性の機微には疎いらしい。私が黙ったまま睨むと、もう一度まさか、とたじろいだ。

「というか、カウンターに誰も出てこないんですけど、大丈夫ですか。この店」

 水を置いたきりマスターは一度も姿を見せず、代わりに奥からバラエティー番組らしい下品な笑い声が聞こえる。
 十畳ほどの店内にはテーブルが三つ、カウンター席が四つ。私たちが向い合う席以外は無人だ。年末だからか、それとは無関係か。

「ここの店主、常連が来るとずっと駄弁ってるけど、そうじゃなけりゃ全然出てこないんだよ。おーい、マスター」

 張った声を途端ひそめて、先生が耳打ちをした。

「ここ、アメリカン以外はやめておいた方がいいぞ。濃厚な泥水だ」
「はあ……」

 なぜそんな場所に呼び出したのだろう。

「で、わざわざ何の用があったんですか? たっくん」
「やめろ」

 普段は滑るように軽口を叩く先生が、コーヒーが来て二口三口と飲んだあとも、歯切れ悪く口ごもった。

「もしかして、私が傷ついているとか思ったんですか」

 目を合わせて否定をしなければ、それは肯定と受け取る。

「そんなメンタルならとっくにやめてますよ、こんなこと」

 心が動じていないと言えば嘘になる。だが今は自分の感情をショーウィンドウ越しに眺めている距離感で、平静を保てていた。私の不敵さに先生はわかりやすく胸をなでおろした。

「変なところで優しいんですね」
「優しい、か」

 卑屈そうに笑う。

 しかしそれだけで、先生は再び黙り込んでしまった。
 わざわざリスクを犯してまで直接会いたがった先生の真意を、私は見抜いている。けれど、逆に先生は私を測りかねているのか、コーヒーに口づけては目を伏せたり上目を使ったりとちらちら私を盗み見て、珍しく顔色を窺っていた。

 そんな煮え切らない態度に呆れにも似た苛立ちが募っていく。
 時間は永遠ではない。早く帰らなければ怪しまれる。そうなれば私が――私たちがすり減らした一年分の神経が無駄になるのだ。

 軽やかな苦みと酸味を一気に喉へ通し、ふた呼吸。覚悟を決めた。ちょうど音楽の切り替わりで店内には静寂が訪れる。

「どっちなんですか」

 カップのコーヒーの揺らぎが収まる前に、唇が渇いてしまう前に、早口に言い終えてしまいたかった。それなのに声が震えて詰まる。それが先生のいうところの傷心だと、今になって気がついた。

「性別、そろそろ分かる頃ですよね」

 私の声に顔を跳ね上げた先生を見て、こんな表情もするのかという新たな発見だけが、わずかにこころを救った。家への帰り道を忘れた幼子のような瞳は、きっと私の方が相応しいはずなのに。
 女の子だとさ、と先生の薄い唇がぽつり零す。

「気づいたんだな」
「そりゃあ、服着てなければ目立ちますから。奥さん、小柄な方でしたし」

 縄でもかけてくれとばかりに両肘をテーブルに投げ出して、先生は盛大にため息をついて見せた。

「俺が父親になるなんて世も末だよ」
「勝手に世界を巻き込まないでくださいよ。というか、隠し通せないことを隠そうとしないでください」

 いずれ必ず知るときがくる。恋人以前に、私たちは同僚なのだから。
 先生が円満な家庭を築いていることは、初めから想像ができた。皺のないYシャツに、当たり前のように食べていた手作りの弁当。休日に会ったことは一度もなかった。
 秋口からコンビニ弁当や総菜パンの昼が増えたので、私は小走りになる気持ちを隠して「お弁当、作りましょうか」なんて提案を冗談っぽく持ちかけてみたりした。隠れて弁当箱を渡した浮き立つ気分を思い返すと、羞恥心に体を引き裂かれそうになる。

 腕時計と重ね付けをしたネックレスの光も惨めな色に見えてきて、私はコートの袖を手の甲までそっと引っ張った。本来の使い方をしていないせいか、先生はまったく気づいてなさそうだ。

 なぜ言わなかったのか。今日のことがなければどうするつもりでいたのか。
 先生の行動はいくらでも責め立てられる。けれど、叱られる寸前の男児のごとく眉を下げている男を前に、すべての言葉は浜辺の砂の城よりもあっけなく崩れていく。

 傷つけないようにすることだけが優しさではないのに。昔は知らなかった情けない不器用さすら愛しくなってしまう私の、負けなのだ。
 言わなかったのではなく言えなかった。今の私と同じ決断をしていても、やはり切り出せなかった。そういう人だとわかり始めていた。

 コーヒーの黒と、その中で泳ぐ照明の白に目を落とす。

「別れましょうか、そろそろ」

 想像よりも楽に出た言葉は、アメリカンの軽さに似ていた。

【続き↓:第8話】

【第1話】


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