2023年のTwitterと信長と

僕がTwitterを好きだったのは、文字で遊んでいる限りは自分が「ここじゃないどこか」にいられるからで、もちろん今だってある程度好きではあるけど、やっぱりその盛りは過ぎていると思う。

自分の使い方的にもそうだし、なんせ2010年代も後半になるにつれてTwitterは急速に「社会」になっていった。そいつがXになろうと何だろうと、少なくとも青い鳥の記憶は美しいものとして僕の中に刻まれる。だからひとまずはありがとう、と言いたい。

さて。ここじゃないどこかはどこだろう。わくわくするものはどこだろう。

中高生のときに聴いていた音楽なんかをたまに聴くと、やっぱり今でもわくわくする。現実との繋がりがどうのこうのじゃなく、演奏スキルだとか音楽業界だとかカルチャー批評が云々ってことでもなく、とにかく今ここにいる自分のことなんてどうでもよくなる。それがイコール「わくわくする」、という感覚。僕にとっては。

それは時に視線のドラマが繰り広げられるバーカウンターであり、時に雲を切り裂いた向こう側のどこかであり、時に夜明けを待ち望んで雨に濡れる誰かの部屋であり、時にマイケルジャクソンが現世に舞い降りて踊り狂ういかれた空間でもあった。

最近の世にはこういう、「よくわからんが無条件にわくわくするもの」が少ない。僕が大人になったからか? それもあるだろうけど、でもそうじゃない側面もある、ってのは確かに言える。

たとえば去年ベストハンドレッド2022という企画で文章を書いたときには、それは「超越性のなさ」というような表現をした。オープンワールドなのに妙にこじんまりして現実の似姿になったようなゲームの世界観。我々がほどよく「こっち側の世界」に戻ってきちゃえるくらいのインスタントな作品群。

で、近頃の極めつけはというと『どうする家康』の織田信長ですよ。V6の岡田くんの。

僕は今年の大河ドラマ好きだし、べつに否定的な評価をするわけじゃないですよ。ただ「そういう時代なんだなあ」と思っただけ。というのは前提。

家康、家康、、と信長がふらふら呟きながら炎に包まれる本能寺の変はたいへん斬新だった。このドラマの信長はつまり「心のうちでは家康だけを友だと思い、殺されるなら家康がよかった」という人物になっている。思えば2020年『麒麟がくる』の信長は、主人公明智光秀が本能寺に攻めてきたと知るや「是非も無し」と笑みを浮かべたのだった。

つまりこの2作品の信長、どちらも徹底的に「キャラの関係性の中を生きている」点で似ているわけです。キャラの関係性やその裏にある思い、がめちゃくちゃ作り込まれているというか。そりゃ熱心なファン的には深掘りのし甲斐はある。それに実際おもしろい。

ただ、昔の信長(信長は昔の奴に決まってるので字面的にはおかしいわけだが)ってもっと「よくわからないけど佇まいがすごい」とか、「勇ましいロマンのなかで死んでいく」とか、そういうイメージがあったような気がする。だから最近の信長像もひとつ、「超越性のないもの」に数えていいと思う。

現実問題として、人間は関係性のなかを生きている。人間は社会のことを考えないといけない。けれど、繰り返し言おう、それじゃ「ここじゃないどこか」は今どこにある?

いわゆる理系的な知の進歩に合わせて、人類は世界のいろんなことが「わかるようになった」と思っている。すべては最適化され、管理され、なるべく合理的な構造が作られていく。

何もそんな大きな流れに反旗を翻したいわけじゃなく、ただ単に、やっぱり隅っこでちぢこまって空想に遊ぶだけのスキマはとっといてほしい、それすら無駄だなんて言わないで。と思う夜でした。そろそろ寝ようか。

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