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シーシャ

「誰にあたるか分からない『側』にイシを投げたら危ないです」
甘い香りが立ち込める店内で、丸眼鏡の香川さんはそう言った。

香川さんは職場の後輩で、手の込んだナチュラルメイク、お団子ヘアの似合う女性だった。いつも暖色系のワンピースにゆったりとしたブレザーを羽織ってる。職場清純派代表と名高い彼女は今、私の目の前で水煙草をふかしている。
 
「誰も彼も、主語が大きいんですよね」「善人面して、分断してるんですよ。それも無自覚に」「邪悪はいつもスマイルです」「偽善者の自覚が無い善人ほど危険な人はいません」「善意が何もかもを正当化するんです」「大人になれば悪意の自覚なしに本当の善行は無い筈です」「先輩もそう思いますよね?」
 
私はこの店に来て、まだ殆ど口を開いていない。「なんでシーシャバー何ですか?」とか「水煙草ってはじめてなんですけど、どうすればいいんです?」とか聞きたいことは沢山あるのだけど、今日の私の発言権は彼女が持っているらしい。その突然の譲渡に、私は混乱した。
 
「疲れますよね…」
 
神妙な顔をして、頷くことにした。どうやら正解だったらしく、彼女はその後も怒涛に話し続けた。とにかく彼女は怒っていて、その具体的な怒りの根源は要領を得なかった。
 
店内にはAlice Jemimaの可愛い洋楽が流れている。彼女は持ち込んだハイネケンをしこたま飲んで、水煙草を燻らせている。おおよそ言いたい事を言い終えたらしい彼女は何故か落ち込んでいた。
 
「一方的にすみません。時々どうしても。なんだか」
「いえいえ、分かります…」
 
実際何も分かっていなかったが、それが良い加減の返事だと思った。その後順序だった話を聞くと、彼女の怒りの原因はSNS疲れにあるらしかった。誰かの攻撃的な文面が、全て自分を揶揄してるように思えてしまう。そんなストレスが怒りに転化して、どうにも誰かに発露したかったらしい。その感覚は私にも分かる。
 
「話してくれてありがとう」
 
と伝えて、二人で店を後にした。何故シーシャバーだったのか聞きそびれたが、彼女の知らない一面を知れたこと、それを彼女の方から開示してくれたことを、ポジティブに捉える事にした。
 
水煙草は色々なフレーバーが着香されている。SNSの文面にもそんな香り付けが出来たらいいのに。取り留めも無くそう思ったが、それがどういった効果を齎すのかは良く分からない。甘い香りの衣服を脱いで、湯水を浴びたら、今日一日の事はすっかり忘れて、ぬくぬくと布団に潜った。

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