《週末アート》 5人の妻、しかし奔放というより真摯な画家、藤田嗣治
《週末アート》マガジン
いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。
藤田嗣治
名前:藤田 嗣治(ふじた つぐはる)
誕生:1886年11月27日(日本、東京府牛込区、現在の東京都新宿区)
死去:1968年1月29日(スイス、チューリヒ)
死没年:81歳
日本生まれのフランスの画家・彫刻家。フランスに帰化後の洗礼名(一部のキリスト教徒が洗礼を受けるときにつけられる名前)はレオナール・ツグハル・フジタ(Léonard Tsugouharu Foujita)。
第一次世界大戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(フランス語: École de Paris, 英語・School of Paris:「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す)の代表的な画家です。
生涯
家柄
1886年(明治19年)、東京府牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。
父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854 - 1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外(1862-1922/日本の明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、教育者、陸軍軍医、官僚)の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。
祖父の藤田嗣服は元田中藩士(駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた譜代大名の藩)。曽祖母は、江戸時代の文人画家春木南湖(はるき なんこ/1759-1839)の血筋である。兄の嗣雄(1885 - 1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。
パリに至るまで
藤田は子供の頃から絵を描き始める。父の転勤に伴い7歳から11歳まで熊本市で過ごした。小学校は熊本県師範学校附属小学校(現在の熊本大教育学部附属小)に通った。
1900年(14歳)、高等師範附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を、1905年(19歳)に高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。その頃には、画家としてフランスへ留学したいと希望するようになる。
1905年(19歳)、森鷗外の薦めもあって東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学する。しかし当時の日本画壇はフランス留学から帰国した黒田清輝(くろだ せいき)らのグループにより性急な改革の真っ最中で、いわゆる印象派や光にあふれた写実主義がもてはやされており、藤田の作風は不評で成績は中の下でした。
表面的な技法ばかりの授業に失望した藤田は、それ以外の部分で精力的に活動し、観劇や旅行、同級生らと授業を抜け出しては吉原遊廓に通いつめるなどしていた。
1910年(24歳)に同校を卒業。卒業に際して製作した『自画像』(東京芸術大学所蔵)は、黒田が忌み嫌った黒を多用しており、挑発的な表情が描かれています。なお精力的に展覧会などに出品したが、当時黒田清輝らの勢力が支配的であった文展などでは全て落選しています。
1911年(25歳)、長野県の木曽へ旅行し、『木曽の馬市』や『木曽山』の作品を描き、また薮原の極楽寺(木祖村)の天井画を描いた(現存)。
この頃女学校の美術教師であった鴇田登美子(鴇田とみ)と出会って、2年後の1912年(26歳)に結婚。鴇田とともに榛名湖(群馬県)などを訪れた際に描いたと思われる油彩画『榛名湖』が2017年(31歳)、鴇田の生家(千葉県市原市)の解体中の蔵から発見されている。
新宿百人町にアトリエを構えるが、フランス行きを決意した藤田は妻を残して単身パリへ渡航。最初の結婚は1年余りで破綻する。
パリでの出会い
1913年(27歳)に渡仏し、パリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地に過ぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く暮らしていました。
藤田は、隣の部屋に住んでいて後に「親友」と呼んだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、モイズ・キスリング、ジャン・コクトーらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。
また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた、大富豪の薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。
パリでは既にキュビズムやシュールレアリズム、素朴派など、新しい20世紀の絵画が登場しており、日本で「黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画」だと教えられてきた藤田は大きな衝撃を受ける。この絵画の自由さ、奔放さに魅せられ、藤田氏は今までの作風を全て放棄することを決意しました。「家に帰って先ず黒田清輝先生ご指定の絵の具箱を叩き付けました」と藤田は自身の著書で語っています。
第一次世界大戦
1914年(28歳)、パリでの生活を始めてわずか1年後に第一次世界大戦が勃発。日本からの送金が途絶え、生活は貧窮しました。
戦時下のパリでは絵が売れず、食事にも困り、寒さのあまりに描いた絵を燃やして暖を取ったこともありました。そんな生活が2年ほど続き、フランス領内に侵攻していたドイツ軍が守勢に転じて大戦が終局に向かい出した1917年3月、カフェで出会ったフランス人モデルのフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey)と2度目の結婚をしました。
この頃に初めて藤田の絵が売れた。最初の収入は、わずか7フランであったが、その後少しずつ絵は売れ始め、3か月後には初めての個展を開くまでになりました。
シェロン画廊で開催されたこの最初の個展では、著名な美術評論家であったアンドレ・サルモン (André Salmon)が序文を書き、良い評価を受けて、すぐに絵も高値で売れるようになりました。翌1918年(32歳)に第一次世界大戦が終結。戦後の好景気に合わせて多くのパトロンがパリに集まって来ており、この状況が藤田に追い風となりました。
パリの寵児
面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃に確立。以後、サロンに出す度に黒山の人だかりができた。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙され、急速に藤田の名声は高まった。
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯の出るバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやって来てはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれています。彼女は藤田のためにヌードとなりましたが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouym)』と題される作品は、1922年(36歳)のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられました。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬ者はいないほどの人気を得ていました。1925年(39歳)にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られました。
南アメリカへ
2人目の妻、フェルナンドとは急激な環境の変化に伴う不倫関係の末に離婚し、藤田自身が「お雪」と名づけたフランス人女性リュシー・バドゥ(Youki Desnos-Foujita)と結婚。リュシーは教養のある美しい女性でしたが、酒癖が悪く、夫公認で詩人のロベール・デスノスと愛人関係にあり、その後離婚します。
1931年(45歳)には、新しい愛人マドレーヌ(Madeleine Lequeux 1910 - 1936)を連れて個展開催のため、南北アメリカへに向かいました。ヨーロッパと文化、歴史的に地続きで、藤田の名声も高かった南アメリカで初めて開かれた個展は大きな賞賛で迎えられ、アルゼンチンのブエノスアイレスでは6万人が個展に訪れ、1万人がサインのために列に並んだといわれています。
マドレーヌは戸塚の家で脳溢血で急死しました。
日本への帰国
その後、1933年(47歳)に南アメリカから日本に帰国。
1935年(49歳)に25歳年下の君代(1911年 - 2009年)と出会い、一目惚れして翌年5度目の結婚をして、終生連れ添いました。
1936年(50歳)、旧友ジャン・コクトー(Jean Cocteau)が世界一周の旅で日本に滞在した際は、藤田と再会し詩人の堀口大學らと共に相撲観戦や夜の歓楽街の散策を供にしました。
その時、藤田の案内で学生絵画グループ「表現」が銀座の紀伊国屋画廊で開催していた展覧会を訪れ、ジャン・コクトーが大塚耕二の作品を称賛しています。
1938年(52歳)からは1年間、小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年(53歳)に日本に帰国しました。
その後再びパリへ戻りましたが、1939年9月には第二次世界大戦が勃発。
1940年5月23日(53歳)、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、同年7月7日、再度日本に帰国しました。
その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会(太平洋戦争中に陸軍の外郭団体として発足した美術団体) 理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛けました。
南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を描きました。
このような振る舞いは、終戦後の占領期では「戦争協力者」と批判されることもありました。また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともありました。
また1945年11月頃(59歳)からGHQの命令に近い形で、戦争画の収集作業に協力させられています。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年(63歳)に日本を去ります。
フランスに帰化
傷心の藤田がフランスに戻った時には、既に多くの親友の画家たちがこの世を去るか亡命しており、フランスのマスコミからも「亡霊」呼ばわりされるという有様でした。しかしその後もいくつもの作品を残しています。そのような中で再会を果たしたパブロ・ピカソとの交友は晩年まで続きました。
1955年(69歳)にフランス国籍を取得(その後、日本国籍を抹消)。1957年(71歳)、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られました。
晩年
1959年(73歳)にはランスのノートルダム大聖堂でカトリックの洗礼を受け、シャンパン「G.H.マム」の社主のルネ・ラルーと、「テタンジェ」のフランソワ・テタンジェから「レオナール」と名付けてもらい、レオナール・フジタとなりました。
またその後、ランスにあるマムの敷地内に建てられた「フジタ礼拝堂」の設計と内装のデザインを行いました。1968年1月29日にスイスのチューリヒにおいて、ガンのため死去しました。遺体は「フジタ礼拝堂」に埋葬されました。81歳没。
死後
藤田の最期を看取った君代氏は、自身が没するまで藤田旧蔵作品を守り続けました。パリ郊外のヴィリエ・ル・バクルに旧宅を「メゾン・アトリエ・フジタ」として開館に向け尽力。
晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行いました。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開されました。藤田の死去から40年余りを経た2009年4月2日に、君代氏は、東京にて98歳で没しました。遺言により遺骨は夫嗣治と共にランスの「フジタ礼拝堂」に埋葬されました。
藤田作品の多くはポーラ美術館とランス美術館(フジタ礼拝堂がこの美術館の建物の一部)に収蔵されています。
2015年、日本・フランス合作の伝記映画『FOUJITA』(小栗康平監督、オダギリジョー主演)が公開され、2018年には『没後50年 藤田嗣治展』が東京と京都で開催されました。
戦争画
日中戦争勃発後に日本に戻っていた藤田には、陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請がありました。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて描き上げた絵は100号、200号の大作で、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出しており、一般に求められた戦争画の枠には当てはまらないものでした。同時に自身は、クリスチャンとしての思想を戦争画に取り入れ表現しています。
1945年8月の終戦で戦争画を描くことはなくなりましたが、終戦後の連合国軍の占領下で、日本美術会の書記長で同時期に日本共産党に入党した内田巌などにより、半ばスケープゴートに近い形で「戦争協力者」と非難されました。
しかし、内田巌近年出版された富田芳和『なぜ日本はフジタを捨てたのか?』によると藤田と内田の関係は従来から言われてきたような単純なものではなかったことが明かされています。
内田巌は先輩として藤田を尊敬しており、そんな内田を藤田も可愛がっていたそうです。
占領下の日本で、画壇も戦争責任がGHQから追及される恐れが出てきて、内田は断腸の思いで藤田が全責任を負ってくれるよう頭を下げ、これを受けて藤田はフランスに出国することになったのが真相であるとされています。
しかし、ある種のスケープゴートだったため、藤田は失意と嫌悪の中で、かねてより藤田嗣治のファンであった占領軍GHQ所属出版・印刷担当者のフランク・E・シャーマンの助けを借りて、失意の中アメリカに渡り、フランスへ戻った後に帰化。
後年に至るまで「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」と語っています。
その後も、「国のために戦う一兵卒と同じ心境で描いたのになぜ非難されなければならないか」と手記の中でも嘆いています。とりわけ藤田は陸軍関連者の多い家柄にあるため軍関係者には知己(ちき)が多く、また戦後日本を占領する連合国軍において美術担当に当たったアメリカ人担当者とも友人であったがゆえに、戦後に「戦争協力者」のリストを作る際の窓口となるといった点などで槍玉にあげられる要素がありました。
藤田嗣治は、パリでの成功後も、第二次大戦後も、存命中に日本では然るべき評価は得られませんでした。また君代夫人も夫の没後は「日本近代洋画シリーズ」や「近代日本画家作品集」などの、他の画家達と並ぶ形での画集収録は断っていました。
藤田嗣治の戦争画を見られる唯一の美術館は東京国立近代美術館。
乳白色の肌の秘密
藤田は絵の特徴であった『乳白色の肌』の秘密については一切語らることはありませんでした。
しかし近年、絵画が修復された際にその実態が明らかにされました。
藤田は、硫酸バリウムを下地に用い、その上に炭酸カルシウムと鉛白(えんぱく)を1:3の割合で混ぜた絵具を塗っていました。
炭酸カルシウムは油と混ざるとほんのわずかに黄色を帯びます。さらに絵画の下地表層からはタルクが検出されており、その正体は和光堂のシッカロールだったことが2011年に発表されました。
タルク(化学名は含水珪酸マグネシウム)の働きによって半光沢の滑らかなマティエール(MATIERE:材料、材質、素材を意味する語で、作品自体の表面の平滑さとかごつごつした感じなど素材の選択、用法によって創り出した肌合い、あるいは、絵画作品の場合には絵肌を意味する場合もある。テクスチャー(TEXTURE、材質感)と混合されて用いられるが、テクスチャーは、その物質が備えている表面的な肌の感覚を示すもので、マティエールでは、技術的に創り出されたという面が強調されています)が得られ、面相筆(めんそうふで:眉など顔のごく細い線を引くための、穂が細い日本画の筆)で輪郭線を描く際に墨の定着や運筆のし易さが向上し、膠(にかわ:動物の皮、腱(けん)、骨、結合組織などを水で煮沸し、溶液を濃縮・冷却・凝固してつくった低品質のゼラチン)での箔置き(金、銀、銅、錫、真鍮、プラチナ、アルミなどの金属をたたいて、紙のように薄く延ばした箔を用いて、装飾する方法のひとつ)も可能。
この事実は、藤田が唯一製作時の撮影を許した土門拳(どもん けん)による1942年の写真から判明しました。以上が藤田の絵の秘密であったと考えられています。ただし、藤田が画面表面にタルクを用いているのは、弟子の岡鹿之助(おか しかのすけ)が以前から報告していました。
しかし、藤田のこの技法は脆弱で経年劣化しやすい。水に反応し、絵肌は割れやすく、広い範囲に及ぶ網目状の亀裂の発生が度々観察されています。
また、多くの藤田作品には地塗り表面に特徴的な気泡の穴が多数散見され(贋作にはこの気泡は無いという)、これは油絵の具に混ぜた炭酸カルシウムと油が反応して発生したガスの穴だと考えられています。
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藤田嗣治の作品
藤田の作品は、日本国内では東京のブリヂストン美術館、東京国立近代美術館、国立西洋美術館、箱根のポーラ美術館、秋田市の平野政吉美術館、軽井沢の軽井沢安東美術館(安東泰志設立、2022年秋に開館)で見ることができます。安東美術館は、藤田の作品のみを収蔵・常設展示する日本初の美術館です(後述)。
藤田は挿画本作家としても独自の地位を得ていました。ピエール・ロティ、ラビンドラナート・タゴール、ギヨーム・アポリネール、ポール・クローデル、ピエール・ルイス、ジャン・ジロドゥ、キク・ヤマタ、ジャン・コクトー等、大作家の著作に木版や銅版の版画を寄せ、出版社も多数にのぼっています。
挿画本は、絵と文に共通するテーマを設定し、それぞれの立場から表現する事を目指す共作であり競作です。
藤田は装画本のこうした特性をよく理解し、文を理解しつつもこれに負けない独自の表現を追求しています。
中でも、パリのフォーブール・サン=トノレ通りの歴史風俗を描いたド・ヴィルフォスの『魅せられた河』(1951年)は石版による傑作。
多くのエッセイを書き残し、没後に出版されています。死の直前までノートに書かれたモノローグの一つに「みちづれもなき一人旅 わが思いをのこる妻に残して。1966年9月28日」があります。
藤田は当時の男性としては珍しく、裁縫や木工など身の回りの様々な物を手作りしていました。藤田本人は「デパートなどで売っているのは全て商品に過ぎないという主張で、芸術家は宜しく芸術品を身に纏うべし」と言い、自身をアーティストではなくアルチザンであると語っていました。製作した物は自分が着用する服や帽子、自分の絵に使う額縁、象嵌(ぞうがん)細工を施した机や小箱など多岐にわたります。象嵌細工の机は目黒区美術館が所蔵する物の他に同一デザインのものが5点ほど存在しています。
エコール・ド・パリ(パリ派)
エコール・ド・パリ(フランス語: École de Paris, 英語・School of Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトル(Montmartre)やモンパルナス(Montparnasse)に集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称。
モンマルトル(Montmartre)の位置
モンパルナス(Montparnasse)の位置
歴史
1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれる。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。
パブロ・ピカソとアンリ・マティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されていました。
狭義のエコール・ド・パリは、パリのセーヌ川左岸のモンパルナス(詩人の山)につくられた共同アトリエ「ラ・リューシュ(蜂の巣)」に集った画家たちを指しています。
一方、セーヌ河右岸のモンマルトルには、ピカソが住んでいた「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」があり、キュビスムの画家が多くいました。
狭義のエコール・ド・パリはキュビスムなどの理論に収まらない画家たちのことでしたが、広義のエコール・ド・パリは、キュビストも含めてこの時代のパリで活躍した外国人画家(異邦人的なフランス人画家も含む)すべてを指しています。
外国人画家の中でも、モディリアーニ、シャガール、スーティン、パスキン、キスリングなど、国籍は違えどもユダヤ系の画家が多い点も指摘され、「エコール・ド・ジュイフ(ユダヤ人派)」と呼ばれることもあります。また、それぞれの作風は個性的であったが、モディリアーニをはじめ、後の世代の画家たちへの影響は大きい。
日中戦争
日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年7月7日から1945年8月15日まで、大日本帝国と蔣介石率いる中華民国国民政府の間で行われた戦争。支那事変(しなじへん)、日華事変(にっかじへん)、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれています。
陸軍美術協会
太平洋戦争中に陸軍の外郭団体として発足した美術団体です。1939年4月、大日本陸軍従軍画家協会に所属する美術家が200人を超えたのを機に同会が発展解消するかたちで組織されました。
会長は陸軍大将松井石根(まつい いわね)、副会長は藤島武二(ふじしま たけじ)で、43年の藤島の没後は藤田嗣治が後任となりました。
活動目標は、陸軍情報部の指導のもと、美術に関するすべての問題に即応し、作戦目的遂行に協力することと定められていました。展覧会の開催は数多く、「聖戦美術展」(1939、41)、「大東亜戦争美術展」(1942、43)、「陸軍美術展」(1943-45)、「国民総力決戦美術展」(1943)、ほかに南方での従軍取材を披露する展覧会(1942、2回)がありました。
また、展覧会に伴い、数多くの出版物を発行しましたが、なかでも当時としては豪華な図録、絵はがき、冊子、従軍画家による文集、そして靖国神社の春と秋の大祭時に編集された、戦争遺族向けのカラーの画帖『靖国之絵巻』(1939-44)が知られています。
その絵巻には、藤田嗣治、宮本三郎、中村研一、鶴田吾郎ら洋画家による戦争画を挿絵風に描いたもの、横山大観、鏑木清方、川合玉堂などによる日本画家による国威発揚のための清澄(せいちょう:澄みきっていて清らかなこと。また、そのさま。「—な山の空気」)な挿絵が掲載されました。展覧会と出版の両面から戦争画の制作と普及の実態を担っていた組織でした。
レジオン・ドヌール勲章
レジオン・ドヌール勲章(レジオンドヌールくんしょう、仏: Ordre national de la Légion d'honneur)は、ナポレオン・ボナパルトにより1802年に制定されたフランスの栄典(えいてん:栄誉をあらわすために授与される位階や勲章)。
藤田嗣治の妻たち
一人目
鴇田登美子(ときたとみこ:女学校の美術教師)
1905年に東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)西洋画科に入学。卒業後、芸術の中心と言われたフランスへの留学を目指すも、学業成績があまり良くなかったために官費で留学することができず、3年ほど日本でくすぶります。
この間に、女学校の美術教師であった鴇田登美子(ときたとみこ)と大恋愛をして、1912年に正式に結婚しました。しかし、フランス留学の夢が捨てられなかった藤田は、父親に頼んで学費を工面してもらい、1913年に3年間だけの約束で渡仏します。当時は留学費用が高額だったため、夫人同伴とはいかず、単身での留学となりました。しかし藤田のパリでの生活は3年では終わらず、結婚はそのまま破綻してしまいます。
1916年、父親との約束であった3年間の留学期間を終えた30歳の藤田は、しかし、パリで画家として認められないうちは帰国できないと思い、留学を継続するむねを父に手紙で書き送ります。そのための条件として、生活費を自分で稼ぐことも伝えました。
このことは登美子との約束も破ることになり、結局、二人は離婚することになりました。画家として成功するまでは日本に帰らないと決心した藤田は、妻よりも絵を選んだのです。
後に離婚になったとはいえ、藤田と登美子との間には深い愛情がありました。登美子の生家には、藤田が3年間のフランス留学の間に登美子に送った179通の手紙や葉書が今もなお残されています。平均すると月に5通もの手紙を妻に書いて送っていました。
渡仏前に新婚の藤田の描いた風景画が、登美子の生家で見つかったことが2019年2月にニュースになったほどに、登美子の家には今もまだ藤田の痕跡が残っています。
二人目
フェルナンド・バレエ(フランス人モデル)
日本に残した妻と離婚した藤田は、現地で公私に渡るパートナーを見つけます。それが2番目の妻となるフランス人モデルのフェルナンド・バレエでした。
フェルナンドという現地人の協力者を得たことで、藤田はシェロン画廊と契約を結ぶことができ、初めての個展も開催されます。この個展は、著名な評論家の賛辞を受けたこともあり、好評のうちに終わりました。そして、藤田の絵は徐々に売れ始めるようになりました。
藤田の成功の背景として、フランス人妻フェルナンドの存在を抜かすことはできません。この頃、藤田はマティスらの始めたサロン・ドートンヌに毎年数多くの作品を出品しています。1919年には6点の出品すべてが入選し、旋風を巻き起こしました。
当時、パリには多数の外国人画家がいましたが、若くして流行画家となったという意味で藤田にかなうものはいないでしょう。
しかし、画家としての成功に反して、藤田とフェルナンドとの仲は冷えていきました。貧乏画家だった時代を支えたフェルナンドは、成功した藤田と考え方が合わなくなってきたのです。藤田は外で他の女性と交際するようになり、フェルナンドも他の画家と浮気をして、結婚生活は破局します。
三人目
リュシー・バドゥ(お雪(ユキ))
1924年、38歳の藤田は、お雪(ユキ)と名づけた21歳のリュシー・バドゥと暮らし始めます。このユキは、1929年に藤田が日本に凱旋帰国したときに連れて帰った3人目の妻です。
しかしユキとの暮らしも長くは続きませんでした。ユキが、シュールレアリスムの詩人ロベール・デスノスと付き合うようになったからです。この不倫は、藤田も公認のものだったようで、藤田自身も新たな恋人マドレーヌと付き合うようになりました。
四人目
マドレーヌ・ルクー
1931年、45歳の藤田は21歳の赤毛の踊り子マドレーヌ・ルクーを連れて、南米へ旅行に出かけます。2年間かけて夫婦で南米を旅した藤田ですが、旅費がなくなったので、お金を作るために、1933年に再び日本に帰国します。
その後は1939年まで6年間、アトリエを建てて日本で暮らしました。マドレーヌは日本でシャンソン歌手として売り出されたそうです。
しかし、日本はマドレーヌにとってまったくの異国でした。日本に来てから2年後の1935年、ホームシックにかかったマドレーヌはパリに帰国し、それから1年もの間、二人は分かれて暮らしました。
翌1936年、ようやく再来日したマドレーヌでしたが、3か月後に麻薬の過剰摂取で急死します。藤田がマドレーヌと正式に結婚していたかどうかはわかりません。
五人目
堀内君代
マドレーヌが亡くなった年の暮れ、50歳になった藤田は25歳の堀内君代と結婚しました。これが藤田の5番目にして最後の妻です。
文化の同じ日本人の妻を得て、藤田はようやく平穏な私生活を送れるようになります。君代夫人との生活は、1968年に藤田が81歳で亡くなるまで、31年間続きました。
君代夫人は、藤田が日本を捨ててフランスに移住したときもついていきました。晩年の藤田は、自分の死後も君代夫人が生活に困らないようにと、売却のしやすい小さな絵をたくさん制作していました。それらの絵は現在「君代コレクション」と呼ばれています。
藤田から日本画壇の冷たさを聞いていた君代夫人は、藤田の死後も日本美術界と距離を取り続けました。
君代夫人は2009年に98歳で亡くなりました。
(妻に関してはこちらのウェブサイトからの引用です)
藤田嗣治の作品が見られる美術館
軽井沢安東美術館
藤田嗣治の作品しか展示されていない軽井沢の美術館。
ポーラ美術館
日本で最大の規模の所蔵数、208点のコレクション。
コレクション:
巴里城門(1914)(28歳)
キュビズム風静物(1914)(28歳)
姉妹(1950)(64歳)
校庭(1956)(70歳)
自画像1929(1929)(43歳)
ラ・フォンテーヌ頌(1949)(63歳)
誕生(1958)(72歳)
連作「ちいさな職人たち」(1959)(73歳)
神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285
秋田県立美術館
平野政吉コレクション6点を所蔵。
北海道立近代美術館
東京国立近代美術館
藤田の戦争画がみられる唯一の美術館。
石橋財団アーティゾン美術館
24点所蔵。
ひろしま美術館
9点所蔵。
豊田市美術館
3点所蔵
京都国立近代美術館
ポンピドゥーセンター フランス国立美術館
パリ市立近代美術館
パリ国際大学都市 日本館
メゾン=アトリエ・フジタ
パリ郊外の村にある藤田氏の終の棲家。
ノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂(フジタ礼拝堂)
藤田氏が80歳を目前に、初めて挑んだフレスコ画。藤田氏と君代夫人が埋葬されている。
まとめ
藤田嗣治にとても興味があります。アートの知識としてというよりは、興味深い個体とその個体が目にしたもの、感じたもの、表出したものに、興味がわきます。
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参照
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