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「奈良マラソン」を走って終わろう♪

 2023年12月10日に行われる「奈良マラソン」にエントリーをしています。61歳の私はフルマラソンの大会に出るのはこれを最後にしようと決めています。

 なぜ、マラソンを?とよく聞かれます。もともと大学時代はアメリカンフットボールをやっていたのですが、大学を出てからもずっとスポーツは続けていたいなと思っていました。社会人になってまもない頃、先輩と飲んだ帰りに電車で寝過ごしてしまいました。折り返しの電車はなく、しかたなく走って帰ることにしました。革靴を履いていましたが何とか帰宅できました。あとで距離を調べてみると10キロ以上ありました。ここで変な自信をつけてしまって「堺シティマラソン(10キロ)」に出ることにしました。市民マラソンの楽しさを知りました。それから、大学時代に夏合宿でお世話になっていた民宿に泊まって、「神鍋高原ハーフマラソン」に出て走りきることができ、次はフルマラソンに出たいと思うようになりました。

 29歳の時、泉州国際マラソンの前身である「千亀利(ちきり)マラソン」の最後の大会に出場することにしました。間寛平さんもフルマラソンを走り始めた頃で、この大会にも参加されていました。しかし制限時間はなんと4時間。当時はそれがどんなにたいへんなことかもわからず、小雨の中、がむしゃらに走りました。湾岸の工場地帯を走っていてひどい睡魔に襲われたのをよく覚えています。どんどんランナーに追い越されていき、最終関門をぎりぎりで通過した時は最終ランナー3人の集団となりました。すぐ後ろに信太山陸上自衛隊のジープがせまり、背中を押されるように、3人でフラフラになりながら最終ランナーとして岸和田中央公園にゴールすると、会場から大きな拍手が沸き起こりました。初マラソンで震えるほどの感動をさせていただきました。最終関門をクリアしたということでゴールさせてもらいましたが、記録は4時間9分でした。マラソンには4時間という大きな壁があることを知りました。

 それから61歳の今年まで、毎年1回はフルマラソンに出ることを目標に走ってきました。実際には2,3年出場しなかった年もありましたが、逆に年間4回出場した年もありましたから、おそらく40回くらいフルマラソンを走ったと思います。フル以上の距離を走ったのは「高野龍神ウルトラマラソン」50キロです。ウルトラマラソン100キロにはあこがれはありましたが、挑戦する勇気はなく、参加したことはありません。DNS(出場棄権)やDNF(途中棄権)がなく、それぞれの大会の制限時間内で、すべてのレースを完走してこれたのは本当に運もよかったのだと思います。

 4時間の壁は私には非常に高く、3時間台で走ることができたのは、あとにも先にもたった1回だけ。3時間45分くらいで走ったのは、第何回の大会だったかは忘れましたが、中山選手も走った「泉州国際マラソン」でした。大雪の降った次の日のレースでした。おそらく私もまだ30代だったと思います。

 今年の2月に第30回大会が行われた「泉州国際マラソン」は、関空連絡橋を渡るコースで行われた第1回大会から出場し、ほとんど出場してきました。それ以外では、「大阪マラソン」3回のほか、京都、福知山、淀川、福岡、長居公園でもフルマラソンを走りました。「高野龍神ウルトラ」は700メートルの高低差のある50キロを7時間以内で走るレースでしたが、6時間57分で泣きながらゴールしたのは今でも忘れることができません。

 ここまで走ってこれたのは家族の応援があったからですが、同時にものすごく心配もかけてきました。若い頃、「泉州国際マラソン」のゴールが泉南市だったレースで、走り終わってから家族とうまく落ち合えずに探し回っていると、たまたま救急車が走るのを幼い娘が見て、大泣きしてしまったことがありました。それからも、10キロやハーフではなく、フルを走るとなると毎回家族をヒヤヒヤさせてきました。

 そして今回の「神戸マラソン」に参加しました。前回2月に走った「大阪マラソン」は何とか完走できたものの5時間をきれなかったという悔しさもあり、今年は夏からしっかり走り込んできました。準備も体調も万全でのぞめた大会でした。20キロ地点で応援に来てくれていた妻や息子家族に手をふって応えたあたりまでは順調でした。ところがそれからしばらく走って登りにさしかかったところでシューズの底がアスファルトにひっかかり、転倒してしまったのです。すぐに起き上がったのですが、手のひら、肘、膝をすりむき、しばらく呆然として立ち止まってしまいました。一気にエネルギーを使い果たしてしまった感じでした。

 そのあとしばらく歩きました。だんだん意識がしっかりしてきたので再び走り始めましたが、前半のスピードはがた落ちでした。それでもたくさんの沿道の声援もあって何とかゴールすることができました。記録は4時間51分。5時間きることが目標でしたから、自分としては上出来でした。ハプニングがあったにもかかわらずこのタイムで走れたのは、やはりここ数年では今年が一番走り込んできたからだと思いました。

 ところが…

 それはゴール後に起きました。全身がつりそうになるのをこらえながら、とにかく急いで着替えて、応援に来てくれていた妻と合流するためにポートライナーの駅に向かいました。ごったがえす駅の中でようやく妻と合流できたあたりから、お腹のあたりが気持ち悪くなってきました。フルマラソンのあと、今までも何度も経験のあることだったので、しばらくするとおさまるだろうと思っていたのですが、妻と一緒に乗車の列に並んでいると、目の前がまぶしくなり、かすんできて、次の瞬間気を失って倒れていたのです。

 気がついて目をあけると、妻が目の前で私に叫んでおり、多くの乗客に取り囲まれていました。深く眠ったあとのような感覚で、一瞬なにがどうなっているかわからないまま、無意識に「大丈夫大丈夫」と言っていたのを覚えています。まわりの人たちに抱えられるようにしてベンチに座りこみました。妻、駆けつけた駅員、見知らぬ男性がそばに付き添ってくれ、冷や汗がどんどん出てくるのタオルでぬぐいながらしばらく下をむいていました。

 しばらくそうしていると、少しおさまったように感じたのでふたたび立ち上がろうとしました。でも全身に力が少しも入らず、また意識が遠くなっていくのがわかりました。妻に抱きかかえられて座った時は、ものすごい睡魔に襲われて、半ばまた気を失いかけていました。

 駅員が119番通報をし、救急搬送されました。それから6時間、1.5リットルの点滴注射を受け、ようやく回復をしました。脱水症状による急激な血圧低下でした。血圧は90を下回っていました。

 病院のベッドでいろいろなことを考えました。今回はさすがに妻をとことん心配させてしまったととても申し訳ない気持ちになりました。2月の「大阪マラソン」をゴールした時に「もう、これでフルマラソンはやめようかな。」と私が言っていたのを妻はそのまま受け取っていました。しかし、単身赴任による一人暮らしをはじめてから、やはり諦めきれず、こっそりと「神戸マラソン」と「奈良マラソン」にエントリーをしてしたのでした。

 数日たって妻と食事をしながら、フルマラソンは次の「奈良マラソン」で最後にすると約束しました。「奈良マラソン」をDNSにして、神戸を最後にすることも考えたけれど、長い間走ってきたしめくくりが「病院送り」という苦い思い出で終わりたくないと思いました。絶対に無理をせず、たとえDNFになったとしても、楽しいフルマラソンの挑戦だったと言える最終マラソンにしたいと思うのです。これからも健康維持のために走ることをやめるつもりはありません。だから引退ではありません。

 2023年12月10日、縁あって生活を始めることになったこの奈良の地で、フルマラソン人生の最終戦「奈良マラソン」42.195キロにのぞみたいと思います。笑顔でしめくくって家族に感謝の気持ちを伝えたいと思います。

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