本能寺の変の明智光秀と細川藤孝 玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと
本能寺の変の明智光秀と細川藤孝
玉の三戸野への幽閉・小侍徒のこと
本能寺の変後の明智一族の行動
1582年(天正10)六月二日早朝、明智光秀は本能寺において織田信長・信忠父子を殺害した。当日午前中光秀は「京都・洛中」を鎮めて、細川藤孝が元いた青龍城に明智勝兵衛を残して、午後にはいったん自分の城である坂本城に戻っている。五日、信長の居城・安土城に入っている。その後、琵琶湖の秀吉の居城・長浜や佐和山に乱入して近江一国を平定して十日には坂本に帰っている。
安土城では本能寺で信長・信忠父子が討たれた報が入ると、信長配下の美濃,尾張の家臣たちは妻子を引き連れて自分の領地に急ぎ戻っている。蒲生氏郷の妻は信長の娘・冬姫である。父蒲生賢秀は安土城の二の丸を守備していたので、氏郷に「御上臈衆、御子様達」(信長の側室と子女)を護衛して自分の領地である日野城まで遁れさせ明智軍の侵攻に備えた。
「氏郷記」に、安土城逃避の折、信長の女房衆から、安土城に火を懸けて財宝を持ち出すように進言があったが、主君信長の構築した美しい城郭に火を懸けるのは「冥加モ恐シ」(神仏の加護から見放される)と断り、「宝物ヲ取候ハバ欲ニ耽」けった者と非難されるので、信長が残した財宝には一切手を付けずに城から出たと記してある。光秀からは、多賀豊後守や布施忠兵衛が派遣されて、近江半国を遣わすので味方するようにと好条件での誘いがあった。しかし実直な蒲生賢秀はその誘いを断っている。
光秀が頼みにした細川藤孝と筒井順慶
光秀は配下の細川藤孝・忠興父子と筒井順慶に再三手紙を出して、自分に組みするように催促している。光秀が今まで共に戦ってきた細川藤孝と筒井順慶を味方にしようとしていた。光秀の戦いにおいて細川軍と筒井軍は常に強力な両翼の戦力であった。この二つの軍の協力があったからこそ、丹波丹後に於いての今までの戦いで勝利を得ることができたことは光秀が一番よく知っていた。
また光秀にとって細川藤孝は無二の親友で同盟者でもあり、細川家が一番頼りにできる戦力を有していた。藤孝の息子・忠興には光秀は三女・玉を嫁がせていたので親族であり、細川家が裏切ることはないと確信していた。細川家・藤孝は信長時代には光秀を上司として、信長が命ずる丹後丹波平定戦に共に参戦してきたからである。
光秀の誤算は、光秀が織田信長を撃った後、共に戦ってきた細川藤孝も筒井順慶も自分に同調するであろうと考えていたことにある。この誤算は光秀にとって致命的な結果をもたらすことになった。
光秀の加担要請に迷った筒井順慶
筒井順慶の養子定次は信長の娘を妻にしていたので、細川家同様、筒井順慶も事態の推移を見守る姿勢を貫き、明智光秀の誘いを断り同調しなかった。しかし光秀に加担するかどうかの意思決定まで順慶の中に大いなる迷いがあった。筒井順慶にも細川軍と同調して中国で戦っている羽柴秀吉の援軍として参加するように、織田信長より命令が下っていた。
本能寺の変の当日六月二日、順慶は、秀吉の援軍として大和の部隊を率いて上京しているが、本能寺の事件の報せを受けて大和に撤退している。また四日には再度軍勢を出したが、翌五日には撤退させている。この間光秀からの誘いがあったものと思われる。一時は光秀と共に河内出陣を考えていた順慶だった。十日には、光秀は京都と大坂の境になる洞ヶ峠に布陣して、再度順慶のもとに協力を要請するために藤田伝五を遣わしたが拒絶された。しかし順慶は使いの藤田伝五を呼び戻している。それだけ順慶は自分の去就に迷っていることを示している。
その後、秀吉より筒井順慶のもとに秀吉軍の行動の確かな情報と勧誘があった。筒井順慶は秀吉に誓書を送っている。また順慶は六月十三日付けの織田信孝の書状を受け取っている。信孝の軍は、明日十四日西岡に進発するので上山口に軍を出すように要請してきた(古文書雑纂)。そして秀吉からは丹羽長秀と連署で添え状を発給している(名張藤堂家文書)
秀吉は信長の息子(織田信孝)を担ぎ出して、秀吉の軍事行動が信長の正統な弔い合戦であることを示した。これで筒井順慶の態度が決まった。筒井順慶の不参加で、光秀の秀吉軍への大坂での先制攻撃という戦略が大きく狂い、光秀は洞ヶ峠の陣を退き、下鳥羽に帰陣することになった。
光秀の要請を拒否した細川藤孝・忠興父子
細川藤孝、忠興父子が本能寺の変報に接したのは六月三日と記されている。本能寺の変が勃発したのは二日未明であるから、丸一日後の事である。細川記には時刻は書いていない。
それよりも興味深いのは、愛宕山の下坊・福寿院の幸朝(こうちょう)が遣わした早田道鬼斎が、藤孝・忠興のいる宮津に危急を知らせたことである。
幸朝という僧侶は、当時藤孝から和歌の使者として信長のもとに遣わされていた米田求政(ひでまさ)と共に、求政の次男・藤十郎を京都建仁寺の塔頭・十口院の英甫永雄の元へ入学させるために、私邸のある今出川の相国寺門前に到着した時、事変の騒動を耳にした。そこで直ちに幸朝は求政と相談して早田道鬼斎を飛脚として遣わした。早田道鬼斎は健脚の山伏で十六里(64㎞)を三時(六時間)で走破すると言われていた。道鬼斎が求政に随行していたことを考えたら緊急時に備えた連絡役を担っていたと考えられる。光秀は事変を起こすに備えて京の都の通路は総て遮断していたから、道鬼斎は山伏しか知らない山岳修験道を通って京都を抜け出して丹後宮津へ向かった。
六月三日、細川家では、織田信長の中国攻めへの動員司令の命令が四月二十四日附けで発令されていた。その命令に従い、備中髙松在陣の羽柴秀吉の救援のために忠興を大将としてすでに先鋒軍が出発していた。重臣の松井康之、有吉立行の二人が先鋒を勤めていた。
この二人の軍は細川家に於いて最も戦闘能力の高い部隊である。宮津城より半道ばかり進み、犬の堂と呼ばれるところまで行ったとき、早田道鬼斎が進軍する横を宮津城へと駆け抜けていった。松井と有吉は、顔を知っている道鬼斎の異様な気配から、両人とも異常な状況を感じ取った。松井と有吉は進軍を中止して、状況を把握するために全軍を宮津城へ戻している。
宮津城へ到着した道鬼斎は、宮津城内の広間に泥足のまま上がり文箱を差し出した。そこには「作二日,明智殿の人数が俄かに襲い来り、信長父子は本能寺と二条御所とで切腹された」との注進文が書かれてあった。
藤孝は急ぎすでに出発していた忠興の先鋒隊の松井、有吉を呼び戻して忠興に言った。『我は信長公の御恩深く蒙りたれば剃髪して多年の恩を謝すべし。其の方事光秀とは聟婿の間なれば彼(光秀)に与すべきや、心に任せらるべし』と。
*『綿考輯禄」第2巻 忠興公(上)巻9 21頁
忠興も突然の信長の横死に落涙した。忠興は信長の小姓として仕えていた時に大変可愛がってもらっていたからである。藤孝・忠興父子は、もたらされた信長の訃報に接して、直ちに信長の菩提を弔うため剃髪して喪に服した。剃髪した藤孝は事後を忠興に委ね「幽斎玄旨」と号して家督を忠興に譲った。
細川家の新しい当主となった忠興は、すぐに宮津城において、重臣を集めて前後の対策を協議している。情報の収集と分析、今後いかに対処するかを決めたと思われる。宮津城を中心に各城がそれぞれに臨戦態勢を敷いている。藤孝・忠興父子にとって、主君信長の本能寺での死はまさに青天の霹靂だった。
本能寺の変の直後、光秀は藤孝の妻・麝香(沼田光兼の娘)の親戚筋に当たる沼田光友を使者として、宮津城にいる藤孝・忠興父子の自軍への勧誘と説得に当たらせている。
光秀の書状には「信長はわがままな振る舞いが多く、たびたび面目を潰された。目に余るものがあったので父子共に討ち果たした。軍を連れて早々に上洛願いたい。幸いにも摂津の国が闕國となっているので、まずはこの国を新しい領地として差し上げる。」と記されている。
細川父子の決断は早かった。光秀の女婿であり、忠興には義兄にあたる明智秀満へ使いを送り、これ以後の明智家との交渉を絶つ旨、書状を送っている。同時に藤孝は信長の三男・信孝へ書状を送りに、細川家は織田家に対して二心の無い立場を明確に表明している。また毛利と和睦して東上中の羽柴秀吉にも「光秀に組みしない」旨を伝えている。
ことに秀吉には重臣の松井康之を特別に派遣した。かねてから秀吉は松井康之を高く評価していて、秀吉から大名に取り立てるという誘いも受けていた。松井康之は賀古川(加古川)で秀吉の舟に会ったが、秀吉は目尻を釣り上げて、松井をにらみ「汝等は明智の徒か」と大声で叱った。物慣れた松井は少しも騒がず、刀を後ろに投げ置き秀吉の舟に乗り込み「父子共に逆徒に与し申さず」と言って、藤孝・忠興からの手紙を秀吉に渡した。
忠興と同じ立場にあったもう一人の人物に織田(津田)信澄がいる。忠興は光秀の三女・玉を妻としていたが、織田信澄は光秀の五女を妻としていた。
信澄は信長の弟・信行の息子で、織田一族の中で最も将来を嘱望されていた。信長の甥にあたる。信澄の父信行は二度までも兄・信長を殺害しようと画策して失敗して信長により1557年(弘治3)、尾張平定過程の時に殺害されていた。信澄三歳の時である。信澄は柴田勝家に預けられて養育され、柴田勝家のもとで戦に参加して武将としての才覚を現した。信長は、弟信行の息子・信澄を可愛がり目をかけていた。信長の最も信頼する家臣・明智光秀の娘と結婚させたのも信長であった。
織田信澄の殺害
織田信長の四国平定戦構想に従い、四国への渡海のために堺に在陣していた織田信孝(織田信長の三男)と丹羽長秀は、本能寺の変の報せを聞くと、光秀の女婿である織田信澄を大坂城千貫櫓に攻めて自害させている。織田信長の甥である信澄でさえ、光秀の女婿であると言う理由で、四国平定戦の大将を任されていた信澄は明智一族と見なされて殺害されている。信澄は光秀より密命を受けていて、大坂で行動を共にしている丹羽長秀と織田信孝を殺害して、その軍勢を率いて光秀軍に合流するつもりだったと疑われていた。そのことを事前に察知した丹羽長秀と織田信孝が先手を取り信澄を自害に追い込み攻め滅ぼした。
当然、光秀の娘・玉を嫁にもらっている忠興にも疑いの目が向けられた。過去において細川家は明智光秀と戦いにおいても常に行動を共にしていたからある。光秀に味方した諸将からは、当然細川家は明智光秀に同調すると考えられていた。また、信長恩顧の諸将からも、光秀の娘婿である忠興は、光秀と共に行動すると思われていた。この時、両陣営から見た細川家の立場は、光秀の同調者として見られていたことになる。どちらにしても細川家は難しい決断を迫られていた。細川家は非常に微妙な立場にあった。
明智光秀の細川家に援助を求める書状
本能寺の変のわずか六日後に明智光秀が丹後にいる藤孝・忠興父子に差し出した三カ条の「覚え」がある。
*「明智光秀覚条々」天正10年(1582)六月九日付け(国指定重要文化財)「細川家文書」永青文庫所蔵
覚
一、御父子もとゆい音払候由、尤無余儀候
一旦我等も腹立候へ共、思案候程かように
あるへきと存候,雖然此上者、大身を被出候て
御入魂所希候事、
一、国之事、内々摂津を存当候て、御のほりを
相待候つる、但若之儀思召寄候ハ、是以同前ニ候、
指合きと可申付之事、
一、我等不慮之儀存立候事、忠興なと取立
可申とての儀ニ候,更無別条候、五十日百日之
内ニハ近国之儀可相堅候間,其以後者十五郎・
与一郎殿なと引渡申候て、何事も存間
敷候、委細両人可被申候事、
以上
六月九日 光秀(花押)
本能寺の変のわずか六日後に明智光秀が丹後にいる細川藤孝・忠興父子に差し出した三カ条の「覚え」である。
第一条では、自分の謀反による織田信長の死亡に際して、藤孝・忠興父子が「元結」を切ったことに、当初は「腹立」を覚えたが、思い直したので今後「入魂」を願うとある。
第二,第三条では、光秀の描いている将来の構想に関する内容が書かれてある。
「藤孝・忠興父子が上洛して自分に味方してくれるなら、丹後の外に摂津を与え、希望するなら若狭の支配権を分与する。自分が起こした行動は、息子十五郎や忠興などを取り立てるためであり、五十日か百日以内に畿内の情勢が安定したら、自分の息子や忠興の世代に畿内の支配権を引き渡す所存であり、決して別儀はない」と書いてある。
この「覚え」では、光秀が藤孝・忠興と筒井順慶を含む、共に戦ってきた畿内の諸領主たちに、今まで通りの光秀の軍事編成に留まることを要請している。この事は光秀が自分の配下で共に戦ってきた諸将が、信長殺害の謀反後も、同調して共に戦ってくれると言う構想を抱いたうえで、信長殺害に動いたことを示している。
光秀の書状による懇願にもかかわらず藤孝・忠興父子は宮津を動こうとはせずに、まずは諸藩の動向、および、織田家諸将の動向を静思することになった。
玉の三戸野への幽閉
細川藤孝・忠興が、玉の三戸野(味土野)への幽閉を決めたのは、光秀からの二度目の書状を受け取った後だと『細川家記』に記されている。忠興は玉に「御身の父光秀は主君(信長)の敵なれば、同室叶うへからす」と述べ「かかる無道之者の子を妻とし難し」とある。
玉の三戸野への幽閉に関して、同じ光秀の妻の姪を妻としていた細川家家臣・米田是政(米田監物是季の父)は「光秀逆意以前の御縁組であるから、そこまで知っていたわけではなく、此の上は愈々自己の道を守るほかなし」と述べている。夫婦の絆を大切に守ろうとする米田是政に対して、若い忠興は信長との主従関係を重視して、玉との夫婦の縁を表面上は断っている。
この時代から忠興と米田是政との関係が明智家から共に嫁をもらっている婚姻関係もあり非常に密で、細川家においても特別な主従関係であったことが判る。次の子供の代になっても興秋と米田監物是季の関係として主従関係は継続している。
玉は忠興の命令を聞くと「此上ハ」と述べて髪を下した。玉の侍女である小侍徒も玉と共に髪を切っている。藤孝や忠興のように剃髪したのではなく、髪を短くすると言う形だけの剃髪と思われる。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)巻9 22頁
明智光秀の起こした本能寺の変に関して、玉に罪はないことは明白な事実であるが、玉が明智光秀の娘であると言う事実は、織田家の全ての諸侯にあらぬ疑いを招く。実際玉の姉妹を娶っていた織田(津田)信澄は、光秀に味方をするのではないかとの嫌疑をかけられて本能寺の変の後、大坂城に於いて殺害されていた。
三戸野が幽閉地として選ばれた理由
三戸野がある竹野郡は一色氏の知行地であり細川領ではなかった。「明智軍記」には三戸野には明智家の茶屋があったとも書いてある。明智光秀は細川家とは丹波・丹後平定に協力した関係から、丹後にも明智家の所領が飛地として幾つかあったと考えられる。その一つが三戸野だった。「三戸野に惟任の茶屋あり」と「綿考輯禄 巻九」にも書いてある。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)巻9 22頁
当時の細川氏は丹後一円を支配していたわけではなく、丹後国内には一色氏や矢野氏の在来領主の所領に加え、細川藤孝と共に丹後侵攻と支配を共同してきた明智光秀の所領が混在していた。その所領のひとつが明智領である三戸野だった。
イエズス会のルイス・フロイス(Luís Fróis)の記録にも「奥方(玉)は父(明智光秀)の遺産として,かの(丹後の)国の所領を得ていた」と書いてあり、本能寺の変の後、光秀の死後に明智領の一部は玉の所領として継承されたと記されている。
*完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ 第2部106章 224頁
明智家の所領なら、名目上、玉は離別されて実家明智家の所領に戻されたことになる。三戸野なら離婚の名目も立ち、宮津からさほど遠くなく、寒村地であるので人眼にもつかず幽閉するには格好の場所であった。三戸野ならば忠興の実弟・興元の守備する峰山城からもさほど遠くはなく、峰山城から三戸野へは抜け道を通って食料や物資の運搬も困難ではなかった。玉の護衛は峰山城主・実弟の興元が担っていた。
結果的に、このような所領の混在を、藤孝・忠興父子はうまく利用して、丹後の国内の明智領に玉を置くことで、離婚(離縁)という形にして、玉の身柄を保護し玉を害そうとする敵より守っている。それは玉がすでに細川家の嫡男・忠隆を生んでいること、また長女・長の母であり、二人の子供を産んでくれていること。それに現在玉は第3子(興秋)を妊娠していることもあった。
細川家の将来を掛けた選択
玉の三戸野での幽閉は二年に及んだが、一方ではこれからの政局がどのようになるかわからない現状では、細川家の動向さえ決められない日々が続く中で、細川家の生き残りをかけての政局の変化に対応しての状況判断と細川家存続の舵取りをしながら、玉を生存させる道はこれしかなく、二つを同時に進行させなくてはならない藤孝と忠興父子の究極の選択肢だった。
玉の三戸野への幽閉が決められた時に、玉自身も、父光秀の起こした謀反という行動の責任が自分にまで及ぶことに驚いた。藤孝と忠興にとっても、盟友光秀の突然の謀反による主君信長の本能寺での殺害はまさに青天の霹靂だった。それは玉においても同様であった。
自分の結婚を決めた主君信長が殺されようとは思いも及ばなかったし、ましてその謀反を起こしたのが実の父光秀であると言う事実はいかんともしがたいことであった。
玉の心は激しく動揺した。細川家において、長女・長、嫡子・忠隆の二人の子供に恵まれ、なに不自由なく生活していた日々と、今三人目の子(興秋)を授かった身重の自分の身に、突然に降り掛かってきた父光秀の謀反により、細川家での玉の幸せの全てが奪われてしまった。余りにもすべてが突然に玉の身に振りかかってきた。
玉には考える余裕すらなかったのではないだろうか。命じられるままに三戸野行が決まられ、あわただしく支度がなされ、愛する二人の娘と息子から引き離されて、三戸野への幽閉に急かされる様に連れて行かれた。その半面、玉に付きつけられたこの厳しい現実を武家の娘として育った玉は甘んじて受け入れる覚悟はあった。
三戸野に従って行った人々
玉が三戸野に幽閉された時、玉に付き従って三戸野へ行った家臣たち、侍女たちの名前が書かれている。『細川家記』には「一色宗右衛門」と「小侍従と言う侍女此二人計を付け』と書かれ「綿考輯禄」には小侍徒の外二人の侍女となっている。「綿考輯禄」に清原いとの名前は記載されてないので、三戸野に清原いとは同行していない。
「明智軍記」には「一式宗右衛門、池田兵衛、窪田次左衛門」この三人は「坂本(明智の居城)より付来りける」と記されている。
玉の三戸野への幽閉に付き従ったのは、玉の婚礼の時、玉に付いて明智家から細川家へ移った家臣、侍女たちだった事が判る。対外的に、細川家より明智家からの人々を排除したことを示すことが重要だった。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)巻9 22頁
忠興の家臣、米田是政家の記録には「小侍従」と「河喜多一成、池田六兵衛、一色宗右衛門、久保田治左衛門」と「米田家人・木崎大炊とその妻、小川権六」の名前が書かれている。
米田是政の妻は光秀の妻の姪と言われている。玉の世話のために三戸野へ行った人々は、玉の婚礼に従い明智家から細川家に移ってきた家臣たちで、青龍寺城時代に既に玉に仕え、次いで宮津城時代にも引き続き玉の身の回りの世話をしていた人々であった。
主家であった明智家の謀反のために、形の上で細川家より暇を出されて「浪人」となり追放という形にして、三戸野に幽閉追放になった玉の護衛のために遣わされた人々であったことが判る。後日、一色宗右衛門が、玉の幽閉の三戸野時代の奉公により細川家から恩賞を下されていることを見ても、実質上は幽閉という形式にした保護であった。それも明智家時代から玉に仕えた人々によって玉は守られていた。
三戸野へ玉が幽閉された時、清原いとが付き従ったか否かという問題が論じられている。清原いとは確かにこの時期には細川家に仕えているが三戸野には玉と一緒に行ってない。
三戸野へ玉に付き従った人々の人選は、明智家から玉の婚礼の時に一緒に細川家に移った家臣と玉に付き添った侍女たちによって構成されているので、細川家に仕えている清原いとには、玉と共に三戸野にはいく理由が見つからない。清原いとは細川家の奥を取り仕切るために宮津城内に留まっていたと考えている。
同じ問題で、小笠原少斎が三戸野へ付き従ったと書いてある本もあるが、小笠原少斎は藤孝へ仕える「お伽集」で500石を拝領している。藤孝の側近である小笠原少斎が、三戸野へ行く理由が見つからない。
確かに、後日、宮津城から大坂の玉造に細川邸が出来た時から、小笠原少斎は、藤孝より命じられて、玉の護衛隊長の任に付いたと考えられる。玉が大坂の細川邸で監禁生活を強いられていた時期に、小笠原少斎は細川邸の護衛隊長として玉に仕えている。それゆえ、ガラシャの介錯も小笠原少斎が行っている。
小侍徒のこと
小侍従は父明智光秀が玉に付けた侍女である。おそらく玉が忠興と婚礼の時、1578年(天正6)8月、明智家から玉と共に細川家に来た。それ以前の明智家時代から小侍従は玉の世話をしていたと考えられる。玉の細川家へ嫁に来た時も玉付きの女房となり、三戸野にも付き従った。『細川家記』では、玉が三戸野に赴く際に剃髪したが、小侍従も同じく剃髪している。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上)巻9 22頁
三戸野(味土野)の名称に関しては現在の地名「味土野」が使用されているが、当時の細川家の記録では「三戸野」と書かれている。「綿考輯禄」の元になった細川家代々の当主の記録にはすでに「三戸野」と書かれているので、下記の本の成立順以前の、細川家史料が最初の「三戸野」の記録である。
成立順では「太閤記」丹後三戸野、「忠興公譜」丹後三戸野、「明智軍記」丹波三戸野、「綿考輯禄」丹波三戸野一書、丹後国上戸村の名、と記されている。
小侍従は後日忠興の命令で、松本因幡の妻になり、松本因幡との間に娘「やや」が生まれている。松本因幡守は近江佐々木氏の一族であり、初め平田氏を名乗っていた。主家滅亡後、細川忠興に嫡子彦三と共に召し抱えられた。1600年(慶長5)田辺城籠城の時に幽斎に仕えて戦っている。その時の功により、翌年松本と改姓した。350石。平田家は嫡子彦三が継いだ。因幡の死後、小侍従は剃髪して尼になり名前を「妙寿尼」と言った。娘「やや」には夫の甥にあたる彦之進を婿養子に迎えた。松本家は甥の彦之進が継いだ。
小侍従の正式な名前は不明、生年月日も不明。
現在、現存していて確認されている玉の手紙十七通は、国立国会図書館(松本文書)10通、永青文庫4通、東京国立博物館1通(細川忠興宛て)、熊本県立美術館(三宅文書)1通(三宅藤兵衛重利宛)、小侍徒の子孫である松本家1通、の計17通が確認されている。
これらの玉が書いた書状の大半が小侍従宛であり、小侍従が松本因幡の妻になってからも、二人は頻繁に互いの近況を知らせ合っている。書状の文面からも小侍従に対するガラシャの深い信頼がうかがえる。内容も多岐にわたり豊富で、ガラシャが置かれていた細川家の正室として、上方への贈答品に関して、節句の準備の指示、夫忠興に対する気遣い、使用人への扱い等が,細やかに綴られている。
『松もとのこしゝう』「松本の小侍従」宛の玉の手紙から、小侍従が結婚後も玉と密な交流をしていたことが判る。『此月ハ御出候ハんとまち申候』『かならす、かならすまち申候』と、小侍従が嫁ぎ先の丹後の田辺から訪ねてくることを切望して心待ちにしていること、玉が小侍従を頼りにしている様子が判る手紙もある。玉は手紙の最後に「た」としか書いて無く、これは玉自身の名を「た」と略して書いている。玉の書状の大半は、玉の「た」としての署名であるが、キリシタンになってからの玉は自分の署名を『ガラシャ』の「か」と署名している書状もいくつか見られる。これらの書状は、玉がキリシタンになり「ガラシャ」を名乗った1587年(天正15)以後の書状である。
玉の洗礼について
玉が洗礼を受けてキリシタンになった1587年(天正15)以前に、小侍徒は玉の代わりに教会に通い、教理を学び、洗礼を受けて、玉よりも一足先にキリシタンになっていた。玉がキリスト教会と連絡を付けるために、最も信頼のおける小侍徒が先に洗礼を受け、玉のためにキリスト教会の教義を学び、それを玉に詳しく説明して、玉は小侍徒から教義と信仰を獲得するための学びを深めていった。
当時に「侍女頭」として玉に仕えていた「清原いと」も、玉の手助けをするために、同じくキリスト教の教義を学び、信仰を受け入れて玉よりの先に洗礼を受けキリシタンになった。
清原いとの父・清原枝賢は盲目の修道士ロレンソ了斎より1563年(永禄6)春に洗礼を受けていたキリシタンであり、いとはキリシタンであった枝賢より、幼いころからキリシタンの教理を教えてもらっていて、キリシタンになることに抵抗はなかったと考えている。いとにとってキリスト教は父枝賢の信じる信仰でもあった。いとは洗礼名「マリア」を授かっている。また清原いとが、玉の侍女頭を勤めていたので、司祭に変わり玉に洗礼を授ける栄誉に浴したと考えられる。いとは玉の侍女の中でも侍女頭という高い地位が与えられていた。
清原マリアいとは玉ガラシャの外交的政治的な案件を処理する外交的係であり、侍女の小侍徒は玉ガラシャの身の回りの世話をする内輪の係として、二人はそれぞれに与えられた地位でガラシャに仕え支えていた。
この二人がいつガラシャの元を去ったのか明確な時期的判断がつかないが、おそらく忠興が興秋の幼児洗礼を知った段階1587年(天正15)で、興秋の乳母の鼻と耳をそぎ、キリシタンの侍女二人の髪を剃髪して追い出した後に、ガラシャに最も近く影響力のあった二人を強制的に解雇したと考えられる。ガラシャの身の回りに世話は、小侍徒に変わり『霜とおく』が務めている。
玉が小侍徒に対して書状を書き始めた時期は、忠興により小侍徒が玉(ガラシャ・伽羅奢)の元を追放された後からであるので、おそらく1587年(天正15)頃以後と考えている。
ガラシャの書状には年月日が書かれていないので、書状に書かれている内容からしか判断ができないが、ガラシャの小侍徒宛の書状はおおむね1587年(天正15)以後のものである。
イエズス会日本報告集に『(玉は)家の中では尊敬され知恵のある身分の高いある女性(清原いと)を仲介者にして事を運ぼうと決心した。その女性(清原いと)は、彼女の執事であり、彼女を大いに愛しており、また彼女もその女性を深く信頼していた。この女性も依然彼女といっしょに我らの教会に来た人で、説教を聴き、また我らの教えに傾いていて、キリシタンの掟の教えが良く判らなかったのでは誠に残念なので、聞いたことについて生じたすべての疑問について質問したいと彼女に言っていた。奥方のほうはもう外出できないので、その女性がふたたび司祭たちのところへ行って話し、奥方に代わってこちらから質問し、説教の残りの部分を聴いて,後で彼女に話してもらいたいと言った。この武家出の女性は、奥方の命じたとおりにし、また思慮深く才能があったので、説教を聴きに行っただけでなく、聴いたことを納得し引き込まれていったので、キリシタンになる決心をし、この望みを奥方(奥方の方がより大きく動かされキリシタンになる大きな願いを持った)に話した。奥方は彼女の決心を称賛し、また自分の心の内も明らかにした。この武家出の邸の中で重きをなしている女性は洗礼を受けマリアと称し、奥方と同様彼女も他の婦人たちに語りかけて心を動かし、その邸の十七人も主な婦人たちが徐々に説教を聴いてキリシタンとなり、残るは奥方のみとなった。』と、清原マリアいとについて述べられている。
他には玉が洗礼を受けてキリシタンになった1587年(天正15)以後の、小侍従・松本内儀宛の書状に、ガラシャがキリシタンとしての心の悩みを書いている。文面には『我身もはやはやひまあき申し候まま、やかてふんこへくたり候ハんまま』とあり「宣教師が西国へ去ったので自分も豊後へ行きたい」と言う希望を書いている。
この書状には、ガラシャが大坂の細川邸での生活よりも一人のキリシタンとして信仰に生きることを強く望んでいる心の内面がよく表れている。書状の内容から、小侍徒は、ガラシャが受洗した後、忠興との離婚を考えだした時期には、忠興からガラシャの元を解任させられて平田因幡へ嫁がされていることが判る。
この書状には「か」と玉は自分の名前を省略して書いているが、この「か」が、玉の洗礼名のガラシャの「か」であることは明白である。ガラシャが小侍徒に、キリシタンとして宣教師たちと共に豊後(西国・長崎)へ行きたいと考えていたこと、小侍徒もキリシタンとしてガラシャの悩みを聞いていたし相談を受けていたことをこの書状より推測することができる。
ガラシャが夫忠興に送った書状の署名に「からしや」(ガラシャ・伽羅奢)とあり、洗礼名を明確に使用とした唯一の書状も存在する。この忠興宛ての書状は、ガラシャが忠興に自分の信仰を告白してからキリシタンとして生活することを許された1595年(文禄4)後、家庭的にも心に平安を取り戻した時期の書状と考えられる。キリシタンになる前の玉は『たびたび鬱病に悩まされ、時には一日中室内に閉じ籠って外出せず、自分の子供の顔さえ見ようとしないことがあった。』
しかし玉(ガラシャ)がキリシタンになってからは『顔に喜びを湛え、家人に対しても快活さを示した。怒りやすかったのが忍耐強く、かつ人格者となり、気位が高かったのが謙遜で温順となって、彼女の側近者たちも、そのような異常な変貌に接して驚くほどであった』と、ガラシャのキリシタンになってからの人格の変化に言及している。
*完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ
第62章(第2部106章)238~239頁
大坂のキリスト教会があった場所について
フロイスの「日本史」の注の『耶蘇征伐記』に『大坂では天満橋のほとり、豪から一町西,久宝寺橋・安堂寺橋の間、是より一町西に耶蘇の寺が建つ」と記されている。「高台に上がって川を一望に収め得る我らの修道院から、日々石材を満載して入って来る無数の船舶を目撃した」と記されている。
現在の天満橋京町二丁目付近。当時の古文書には「此の西方一帯は中古以来大坂における水上交通の拠点として繁盛したところで江戸時代は三十石船の発着所として知られていた」
「我らの神父(オルガンティーノ・Soldo Oegantino)に与えられた土地は、大坂でも最良の場所のひとつで、多くの殿がそれを所望していたが、(秀吉は)誰にも与えたくはなかった。高台にあって、一方は川に面し、他三方は崖のように切り立っている、それほど堅固なのでそこから入ることも登ることもできない。城のようになっている。上からの大坂の眺めは美しく、空気は非常に澄んでいる。」
*Frois,”Historia”vol IV, cap. 4. P.36
大坂の教会が建築されたのは1583年(天正11)の事である。河内の岡山、結城ジョアンの領地には立派な教会の建物があったが、秀吉が結城に別な土地を与えたので、その建物がキリシタンでない領主の手に落ちる危険があった。他方、秀吉は、宣教師に大坂にも家を建てるように望んでいたが、彼らはその時、その仕事には何ら経済的な可能性がないとは知らなかった。
髙山右近は、秀吉の許可があれば、岡山から教会を移す工事を喜んで引き受けたいと言ったので、オルガンティーノ(Soldo Oegantino)神父は右近と相談の末、ロレンソ了斎と共に大坂に行き、秀吉との面会を願った。秀吉は彼らを厚遇し、通常の会合に使われる部屋ではなく、秀吉個人の休息のために引き下がる奥座敷に招いた。オルガンティーノ神父とロレンソ了斎と共に秀吉の秘書シモン安威と会計のジョウチン隆佐だけが入った。
話の初めに(秀吉は)オルガンティーノに、遠方から来日したことに感謝した後、ふさわしい場所を教会のために与え、そして岡山にある教会の建物の移動を許可した。話し合いが終わると秀吉は提供したい場所に自ら出向き、そこのロレンソ了斎を呼び寄せて、その土地を与えた。(秀吉は)自分の寄付の行為を褒めて、ロレンソ了斎に、このような広い敷地を与えるのは、そこに多くの木々を植えるためである、と付け加えた。
*結城了悟著『平戸の琵琶法師 ロレンソ了斎』116~117頁 長崎文献社
高台に立てられた大坂の教会からは見晴らしがとてもよく、特に関白のために作られた特別な部屋からの眺望は格別だった。生涯に一度だけ教会を訪問できた玉は、修道士コスメ髙井が帰って来るまで、この特別な部屋へ案内されて寛いでいる。その時の玉の受けた部屋の印象、部屋からの眺望について詳しく述べてある。
「その部屋は非常に清々しく清潔で、他日関白が思い立って我らの修道院にくつろぎに来るようなことがある場合に備えて、わざわざ設置されたところであった。それらの部屋は極めて清潔で立派な構造である上に、大坂におけるもっとも優美な眺望のひとつを備えていたので、彼女はその部屋を見たことをこよなく喜んだ。」
*完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ
第62章(第2部106章)220~240頁
丹後の国の貴婦人にして明智(光秀)の娘であり、異教徒(細川)越中殿(忠興)の奥方なるガラシャの改宗について
神が備えた福音の好機・初めての教会訪問(224~226頁)
「教会に着くと、幸運にもその日はちょうど復活祭にあたり、折から正午過ぎであった。奥方は教会を眺め、とりわけ彼女の眼に美しく映じた救世主の新しい肖像を喜んだ。室内の装飾,祭壇の造作と清潔さ、教会の地所なども彼女を非常に満足させた。彼女はしばらくそれらのものを眺めた後、内部に取次ぎを請うた。そこには説教を聞きたがっている数人の婦人たちがいた。(このように、説教を聞くため、ごく普通の男女の異教徒たちが、我らの修道院に来ていた)。教会の内部からは、説教係の修道士が外出していて不在であるが、もしお急ぎでなければ別室で待たれるがよい、との返事がもたらされた。その部屋は非常に清々しく清潔で、他日関白が思い立って我らの修道院にくつろぎに来るようなことがある場合に備えて、わざわざ設置されたところであった。それらの部屋は極めて清潔で立派な構造である上に、大坂におけるもっとも優美な眺望のひとつを備えていたので、彼女はその部屋を見たことをこよなく喜んだ。」
*細川護貞氏『細川家の人々』新・熊本の歴史5 8~11頁 昭和55年
「国会図書館にあるガラシャの書状を調べて、最初に上野の図書館に寄付されたことが判った。そこから松本さんに連絡を取り、松本さんが所蔵の一通をもって私に家に来てくれた。
松本さんが十一通の書状を寄付された時、松本さんの親戚で平田さんが50通くらいの書状を持っていることが判った。そこで平田さんに書状について尋ねたところ、先祖から「これは大事なものだから」と言われた包みがある。その包みの中に、ガラシャの書状と細川三斎(忠興)の書状が20通ほど出てきた。さらに小侍徒が太閤秀吉から拝領した打掛が見つかった。その外に大きな杉の箱に中に「三斎公、ガラシャ夫人御食器」と書いてあった。ひとつひとつ包みを開いてみると、当時の細川三斎と玉が使っていた食器が20数点、それに箸は二通出てきた。杯には九曜唐草の紋がついていて、その中にもう一つ小さな半円形がついていてこれがクロス、十字になっている。これはガラシャ夫人がキリスト教に関心を持っていたので、自分の杯にだけクロスを付けたと思われる。打掛については、桃山時代の物に間違いなく、またこの打掛は男物であるので、間違いなく太閤秀吉が小侍徒に与えたものに間違いはないということになった。」
一色義定の謀殺
玉の実父・明智光秀が起こした本能寺の変は、細川家に緊急な重要決断を迫った。藤孝は迅速かつ明確に細川家の立場を決めて行った。
藤孝・忠興父子は、もたらされた信長の訃報に接して、直ちに信長の菩提を弔うため剃髪して喪に服した。剃髪した藤孝は事後を忠興に委ね,「幽斎玄旨」と号して家督を忠興に譲った。細川家の新しい当主となった忠興は、すぐに宮津城において、重臣を集めて前後の対策を協議している。情報の収集と分析、今後いかに対処するかを決めたと思われる。宮津城を中心に各城がそれぞれに臨戦態勢を敷いている。幽斎(藤孝)・忠興父子にとって、主君信長の本能寺での死は、まさに青天の霹靂だった。
細川父子の決断は早かった。光秀の女婿であり、忠興には義兄にあたる明智秀満へ使いを送り、これ以後の明智家との交渉を絶つ旨、書状を送っている。同時に藤孝は信長の三男・信孝へ書状を送りに、細川家は織田家に対して二心の無い立場を明確に表明している。また毛利と和睦して東上中の羽柴秀吉にも「光秀に組みしない」旨を伝えている。
細川幽斎(藤孝)・忠興が、玉の三戸野(味土野)への幽閉を決めたのは、光秀からの二度目の書状を受け取った後だと『細川家記』に記されている。忠興は玉に「御身の父光秀は主君(信長)の敵なれば、同室叶うへからす」と述べ「かかる無道之者の子を妻とし難し」とある。
明智光秀と羽柴秀吉との山崎の合戦は一日で勝敗が付いた。明智家の全員が坂本城において自決して「本能寺の変」の後11日で明智家は滅亡した。
6月18日には尾張の清州城において清須会議が開かれ秀吉が以後の主導権を獲得した。7月11日付けで、秀吉から細川忠興に対して「丹後国の宛行状」が発給されている。
それまで細川家の当主だった藤孝は、織田信長の本能寺の変での急死を知った時、剃髪して幽斎と号し、家督も嫡子の忠興に譲った。秀吉は新しい細川家の当主になった忠興に対して「公儀」に対して比類なき覚悟を示したとして、秀吉軍に参戦したことを褒め、丹波を支配していた明智支配の領分、細川家の領土安堵、丹後において手に入れた矢野氏の所領を含めて「一識支配」を安堵している。
一色義定の謀殺
本能寺の変は丹後の国衆たちにも光秀に味方して、細川氏の丹後支配を排除しようという考えを生み出し、一色氏と矢野氏は光秀方との協調に動き始めた。この報せをいち早く羽柴秀吉より受け取った幽斎と忠興は、同年九月、娘婿の一色義定を宮津城へ饗宴に招いた時に謀殺した.義定は家老・日置主殿助等の家臣を連れて来ていたが皆殺害された。その後一色義定の居城・弓木城は忠興に奪われている。
*『綿考輯禄』第2巻 忠興公(上) 33~48頁に詳しく、忠興の一色義定の
謀殺記録が書かれている。
明智光秀が仲介にたち、細川藤孝の娘・妹伊也を「一色五郎義有(義定)」に嫁がすことで一色氏との和睦が両者の間に成立した。『細川記』にはこの婚礼を1581年(天正9)5月と記している。藤孝の長女・伊也は1568年(永禄11)生まれで、婚姻時は14歳である。
伊也と一色義有との間に「五郎」という男子が同年12月に生まれている。祖父になる藤孝は初孫の誕生をたいそう喜んだと記されている。婚姻により細川氏と一色氏との和平が成立した。
1582年(天正10)9月、忠興の一色義定の謀殺により、忠興の妹「伊也」の幸せが壊されてしまった。1年4ヵ月の幸せな家庭を壊されて、10ヶ月の乳の身子を抱えて実家細川家に戻り忠興と対面した時、義定の妻伊也は脇差を抜いて兄忠興に斬りかかり、忠興は顔面に傷を負った。伊也は夫への「不義」を計った兄忠興を許すことはできなかった。伊也はその後、親戚の吉田社祠官・吉田(ト部)兼治に再婚させられて、多くの子供に恵まれた。
*1593年(文禄2)2月4日附け、吉田兼見卿記
『侍従女房衆、与一郎内義へ昨日見舞い、今夕帰宅、雁一給之了』とある。吉田兼見の息子・兼治の妻伊也が大坂の細川邸に義理の姉ガラシャを訪ねたことを示す記述である。
*『吉田文書』天理大学付属天理図書館所蔵
伊也は藤孝の長女、忠興の5歳下の妹で、ガラシャの義理の妹になる。
京都で暮らしていた忠興の妹・伊也は、吉田家において幸せな生活を送っていて、義理姉であるガラシャをたびたび大坂に尋ねている。
一色義定と伊也の長子「五郎」は剃髪して京都愛宕神社の下院・福寿院の僧侶となり、幸能法印と名乗ったが25歳で亡くなっている。これにより丹後の名家一色家は断絶した。
細川一族の分散居住
家督を忠興に譲り隠居した藤孝は幽斎と号して、田辺城(舞鶴市)を隠居城と定めて宮津城より移った。幽斎は1600年(慶長5)忠興が家康に従い上杉討伐のために北上するまで田辺城に住んでいた。
1583年(天正11)忠興は宮津城に正室玉と二人の子供たち、側室藤と共に、山城の国の青龍寺城より移り住んだ。
忠興の弟興元は峰山城代として、重臣・松井康之は久美浜城代として、それぞれに城を預かった。丹後という領国を得た代わりに、一族家臣はそれぞれの責任を分担するために、分散して暮らすることになり、細川家は一党中央集権としての組織力の分散を余儀なくされている。
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