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自己紹介⑥~shige3の大学生時代~

・久しぶりに続き書きました。
・まだまだ自己紹介編です。うつ病発症したのが36歳だったので18歳頃だと、ちょうど折り返し地点でもありますし、一方でまだ半分か?とも思いますが、もう少しお付き合い下さい。
・幼少期から高校生時代までで、だいぶ人格の基礎部分は出来上がってきました。ただ小6~高3まで卓球漬けな毎日を過ごしてきたshige3が、大学では卓球部に仮入部したもののやっぱり入るのを辞め、普通の大学生になる道を選びました。果たして青春を謳歌できるのでしょうか?
・うつ病の原因を紐解く上で、自分史を整理して振り返るのもおすすめです!私も実際、Excelで自分史を作り、生まれてから1年毎の出来事や環境、学校名や部活、就職してからの配属先など、年表みたいに全部書き出して並べてみて自己分析などに使用しました。
・自分の性格傾向はどうして出来上がったのか?などを知るのも大事ですし、書き出すことで客観的に眺めることができるので、捉え方も変わり、思わぬ気づきが得られるかも知れません。
・そんな視点で読んでみて下さい。


1.大学生時代

(1) 初めての身内との死別

  • 毒父はマスオさん状態だったので、ものごころついた頃から母方の祖父母の家に住んでいましたが、祖父は私が1歳の頃に亡くなってしまっていたので、実質は祖母と両親、妹と私の5人での生活が長かったです。

  • 祖母は昭和の理想的な主婦像みたいな人で、つつましやかな振る舞いで立派な人だったので尊敬してました。

  • 余計なことは一切言わず黙々と家事をこなし、いつも姿勢は正しく、上品で、ダラダラした姿も見たことがない、そんな人でした。

  • 祖母はプロ野球の巨人ファンで一緒にテレビの野球中継観たり、たまに祖母の部屋へ行って布団並べて一緒に寝たりで、私は結構おばあちゃん子でした。

  • ただ祖母は若いころから酒・タバコが好きだったみたいで、台所に酒を隠して食事作りながら飲んだりしてたこともあったり、子供達にはそういう姿を見せたくなかったみたいで、自室でこっそりタバコ吸ったりしていたみたいです。

  • 私が高3の頃、案の定祖母に肺にガンが見つかり、その時はすでにあちこち転移もしてたみたいで手遅れな状態だったようです。

  • 一方その頃、毒父が何を思ってか長年住んでいた母屋を立て替えました。毒父が言うには祖母が死ぬ前に新しい家に住まわせてあげたいという名目でしたが、きっと祖母はそんなことは望んでおらず、住み慣れた家を最後に旅立ちたかったはずだったと思います。結局祖母も入院生活が長く、実際新居ではほとんど過ごしてません。しかも祖母が亡くなれば遺産相続でその土地も家も手放さなければならなくなることは、高校生の私でも容易に想像できました。毒父が(マスオさんのくせに母方の親の土地なのに)自分の家を建てたいという欲望とステータスを満たす、ただそれだけの愚行でした。
    ※結局、その新築の家はわずか4年で取り壊す羽目になりました。

  • 大学一年の時、祖母は入院先で亡くなりました。夜中に電話があり、母がすぐ病院に駆け付けましたが、もうすでに息を引き取っていたそうです。

  • 看護師さんの話では、いつも祖母はトイレに起きる時も看護師さんが手伝おうとすると手を払って必ず自分の力で起きていたそうです。

  • 亡くなった時も夜中に看護師さんを呼ばず1人でトイレに起きた後、ベッドに這い上がろうとしてたところで力尽きていたのを看護師さんが発見したそうです。あとで看護師さんもそういう姿勢を見習わないといけないと話していたと聞きました。

  • 最後まで人の手を借りず自分の力で生きようとした祖母は今でも尊敬してます。

  • 病院の母から家に電話があり、亡くなったと説明があり、妹にも話しました。妹は部屋に戻り泣いていたようですが、私は不思議と涙は出ませんでした。

  • ちなみにこの頃毒父は海外に転勤で単身赴任していたため不在でした。

  • 母もずっと気丈に振舞っていて涙も見せてませんでしたが、葬儀の最後、出棺の時になって生まれて初めて母が涙を流す姿を見て、私も急に涙が溢れてきて止まらなくなりました。

  • それ以来、まだ身内との別れは経験していません。

  • 祖母が亡くなり、しばらくすると遺産相続問題が勃発しました。母方3兄弟に毒父が割って入り、話し合いをしたようですが母方の長男が仲良く1/3で…と切り出したところ、毒父が祖母の面倒を見ていたのはうちだから、うちが1/2だと(自分は何も世話してなく逆に住まわせてもらって世話になってただけなのに…)覆して最後には喧嘩別れになったそうです。

  • それ以来、母方の兄弟、いとこ達とは一度も会ってません。ちなみに後の私の結婚式にも母方の親戚は誰一人呼べませんでした。

  • もっと言うと、その後引っ越して中古(と言っても築数年)の戸建てに引っ越しましたが、立地は以前よりかなり良いとこで、後から聴いたら億は軽く越えてました。しかも、ほとんど母方の相続金の恩恵によるものでした。これも後から聴いたのですが、母が将来のために安めのマンションにでも引っ越して、老後の蓄えもしておこうと提言してたのに、聞く耳は持たず毒父の愚かな判断でそこに決まったそうです。

  • この更なる愚行の転居が大きなしっぺ返しとして、すぐに返ってきました。バブルが崩壊したのです。その家は12年後に売ることになりましたが、中古で購入した頃の半値以下でようやく売却できたらしく、手元資金は早くも底を尽きていたようです。

  • まださらに言うとこの間にも愚行がありました。毒父は当時入社した会社の子会社の代表取締役まで務めてたのに、55歳で残留せずにスパっと退職してしまったのです。独立して自分で本を出版したり講演会とか開いて稼いでみたいという建前でしたが、要は会社に居場所がなかったようです。毒父は一家の大黒柱で母親は専業主婦で、まだ妹はこれから大学生というタイミングなのに、自分の理想のことしか考えずに安易に辞めたのです。

  • のちに私が結婚する時にも結納金すら払えず、援助もほぼゼロ…でした。カッコつけてスパっと辞めたはずが、肝心な時に見栄もはれずカッコ悪いことになってました。私もカミさんのご両親にのみ支援してもらっちゃって恥ずかしかったです。

(2) 遊びが苦手?真面目な性格との葛藤

  • 一方話は変わって、本題の大学生活はキラキラしたキャンパスライフをエンジョイできたのでしょうか?

  • 小学校までは大人しくて根暗とイジメられ、中学~高校は卓球に出会って一変したものの毎日卓球漬けだったため、あまり遊ぶということをやってこなかった人生だったので、大学の卓球部に入るのを辞めた瞬間から、急に暇になって遊ぶ時間ができたものの、どうやって過ごしていけばいいのか?まったくわかりませんでした…

  • ただ、運良く付属高校から大学に進学したこともあり、すでに知ってる友達はいたので、そいつら中心に友達の友達が増えていく感じでした。

  • またこれは今考えても自分らしい決断だなと思いますけど、大学入学当時、就職するには体育会系の部活か、サークルは遊びなので、あとはゼミに入ってないと就職に不利なんて言われてて、その体育会系の卓球部に入らなかった私は、残るはゼミに入るしかありませんでしたが、友達に「shige3、ゼミ何取るの?」って聞かれたときに「俺はゼミ取らねぇ~!、就職活動では小学校からずっと卓球やってたってアピールすれば十分だから、わざわざ就職のためにゼミなんて取るなんてセコイことしなくてもいいや」なんて言い放ってたけど、これも今思えば、どうせその後真面目に講義も受けてたし、ゼミでも入って新たな人間関係構築や経験積んでおけば良かったな~と後悔してます。

  • 高校時代、卓球漬けで勉強ほとんどやらず、部活引退してから間に合わせで何とか大学進学したこともあって、真面目な私は大の苦手だった英語を少しでも克服したいと空いてる時間に英会話でも習おうかな?と思い立ち、友達も誘って渋谷にあるECCに通い始めました。

  • 当然ですけど、一番レベルの低いクラスに入りましたが、年下の高校生から、社会人や主婦の方まで多様な人達の集まりですごく刺激になりました(レッスンに付いてくのは大変でしたが笑)。
    ※これが後の新婚旅行では意外と役立ちました。

  • あと、大学の講義の合間に図書館で勉強したり、講義はほとんど出席しましたし、どこかに劣等感があり、周りから見たらかなり真面目なヤツに写ってたんだろうな~と自分でも思います。

  • お陰で成績は4年間、優と良しかなかった(可と不可はゼロだった)ので良い方だったと思いますし、社会人になってからも意外と役に立つ場面もあったので、あの時勉強しといて良かったな~とは思ってます。

  • 高校の部活引退後に行ったスキーが功を奏して、大学時代も大学の友達や英会話のメンバー、地元の友達などでスキーに行くことができて楽しい大学生活は送れました。

  • あとは、カラオケとボーリングにもハマって良く行きましたね。カラオケはボックスがまだ流行りだした頃だったので、カラオケスナックで知らない人達大勢の前で歌ったりすることも多かったですね笑

  • 卓球もまったく辞めちゃった訳ではなく、地元の社会人のクラブチームに入れてもらって、趣味程度に続けてましたが、そこでも大学生時代から社会人と接する機会ができたのは今思えば良い経験できてたんだな~と改めて感じます。

  • あと、卓球のコーチのアルバイトを紹介してもらってやってましたが、2時間おばちゃん達を教えるというか相手して上げるだけで6千円も貰えたので、卓球頑張って良かったな~と思いましたね。

  • でも、大学のサークルに入ったり、街でナンパして遊んだりといったキラキラした大学生活ではなく、やっぱり真面目だったな~と思いますし、当時はそういう自分がどこか好きではなかったです。

  • 合コンとかは参加したことありましたが、奥手でしたし、デートはしても特に彼女もできずというか作らず?、さみしい大学生活でもありました。 
    ※多分、今思えばチャンスは結構あったはずだけど、積極的ではなかったので、できなかったんだと思います(これも後悔のひとつ)。

  • 特に良かったな~と思うのは、免許取って車に乗れるようになったことですね。取ったのは20歳頃で周りより遅かったですけど、行動範囲が広がってホントあちこち遠出もしました。良い経験ができたと思ってます。

  • このあとに書く就職活動が終わって、卒業旅行で友達とヨーロッパに海外旅行に行けたのもその後の人生にとってかなりプラスになりました。一度日本を出て、全く違う言葉、文化があることを知り、外から日本を眺めることができたのは良かったと思います。

(3) 何となく決めてしまった就職先

  • 今でも後悔してますが、私は今で言う大学のキャリアセンター、当時は就職相談室だったかと思いますが、一度も利用したことはありませんでした。

  • また、当時はインターネットも普及しておらず、かと言って本屋さんに就活本みたいなわかりやすい就活の指南書もありませんでしたし、どんな職業や就職先があるのか?どんな仕事があるのか?も全くわかってませんでした。
    ※当時就活という略語もなく、就職活動とそのまま呼んでました。

  • また第一子ということもあり、上の兄弟からの情報なんてこともなく、常に石橋を叩きながらの手探り状態で、大学構内の掲示板にあったOBの説明会などに参加する程度でした。

  • そもそも、もっと根本的な問題は、今思うと毒親育ちの典型ですが、当時自分がどういうことが好きなのか?何をしたいのか?全くわからなかったので、就活に全然身が入りませんでした。

  • 何で右も左もわからないような状況で、情報も少ない中、身近に就職相談室とかあったにもかかわらず、どうしてそこに頼って相談したりしなかったのかな~?というのが、今でもめちゃくちゃ後悔してます。

  • もしその時就職相談室に行っていたら、まずは自己分析のやり方とか、自分にあった仕事の見つけ方とか、就職先の探し方も色々教えてもらえていただろうに…

  • ただ、その背景として当然毒父に相談する選択肢はありませんでしたし、母親も箱入り娘で世間知らずだったので、相談できませんでした。そういう人に相談できない環境でずっと育ってきたから、大学でも誰にも相談できなかったというか相談の仕方もわからなかったというのもあったと思います。

  • いつだったか忘れましたが、毒父にふと「どういうところに就職したいんだ」と聞かれ「わからない」と答えたら毒父が「俺は今の仕事の他に旅行業界にも興味があったんだけど、代わりにそっちに目指してみてもらえないかな~?」って言われて、こいつホントに自分本位なヤツだな~!普通、息子がどういう仕事が向いてそうかとか、どんなことに興味があるかを聞き出すのが先だろう?何で俺が毒父の果たせなかった夢を引き継がなきゃならないんだ?コイツには絶対相談しねぇ~!って強く思ったこともありました。
    ※他にもこのような出来事は多々ありましたが…

  • また、これも後悔してますが過去に卓球の恩師が就職は大企業に入ると優秀な人が大勢いて埋もれてしまって自分のやりたいことができないから中小企業に入った方が面白いよって言葉を鵜吞みにして、6月からの大手企業の就職活動も試験も面接も1社も受けませんでした。その時受けてて落ちて諦めたならまだしも、受けもしなかった、経験すらしなかったのは勿体なかったな~と思ってます。

  • 結局、DMで届いた中小企業の合同就職説明会みたいのに2回ほど参加して、その中から2社面接受けて、両社とも順調に2次面接まで進んだので1社断って、すぐ残りの1社に決めてしまったので、あっさり終わってしまいました。

(4) まとめ

  • 祖母との死別から、親戚関係までギスギスして、ますます孤立した機能不全家族になってしまった。毒父→母との主従関係も祖母の監視の目がなくなり悪化しました。

  • 大学生生活自体は、今振り返っても真面目なりにまあまあ楽しめたと自分では思ってるし、行動範囲も広がって、そこそこの経験も積めたし、総じていえば良い大学生活を送れたとは思ってます。

  • 機能不全家族で育つと、自分を殺して家族の調和を保つことばかりに気がいって、自分の気持ちに蓋をし続けてきた結果、自分が本当は何がしたいのか?何に興味があるのか?全くわからないまま大人になってしまった。

  • 相談できない、相談しても無駄だという思いが強かったため、誰にも相談しないまま、さらに今みたいにネットや就職サイトで簡単に情報も得られないのに、ろくに調べもせず、何となく就職してしまったことがあとあとうつ病で苦しむことになるとはこの頃は全く予想もしてませんでした。

2.この先の記事にする予定のコンテンツ

  1. 自己紹介関連
    ・shige3の、育った環境、生い立ち、自分史 ←イマココ
    ・shige3の「性格傾向」病前性格
    ・shige3の「環境要因」うつになった要因(きっかけ)
    ・shige3が、あとから気づいた要因
    ・shige3が、考えるうつ病とは

  2. 闘病生活

  3. リハビリ

  4. 寛解~復職

  5. ・・・
    などなど、不定期だったり途中寄り道もするかも知れませんが、今うつ病や精神疾患で苦しんでいる方、パートナーや家族・友人がうつ病という方の役に立ちそうな視点で、気がついたことやヒントになりそうなことなど、これまでの経験、学んできたこと、膨大な記録の中からnoteの記事に順次書き起こしていきたいと思いますので、良かったらスキとフォローよろしくお願いします

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※闘病に関係ないくだらないこともつぶやいてますがご容赦ください笑
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