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平和という言葉に絡まる陰影を、綾をほどく。


日本に帰国して感じた平和

2021年2月1日。ミャンマーでクーデターが起きた日。僕はヤンゴンで家族と暮らしていた。次第に変わっていく景色。奪われていく平和な日常。何もできないまま、僕は避難のために日本に帰国した。

先日、メンバーと一緒にYouTube Liveをして、「平和とは何か」の議論になった。

果たして、日本は平和なのか。
私がミャンマーから帰国して最初に感じたのは、日本は間違いなく平和だということだった。自分の主義を主張して連行され殺されたりすることがない。外で遊んでいて撃たれることもない。学校で勉強していて空爆に遭うこともない。明日も平和な毎日が続くと思える。

クーデター以前のヤンゴン川(Photo by Shigeo)

国民全員に義務教育を受ける権利があり、識字率も高く、経済大国でもある。健康保険があり、わざわざ国外に出なくても、近隣で安く先進医療を受けることができて、コンビニのおにぎりでお腹を壊すことがなく、頻繁に人がマンホールに落ちて死ぬとか、大雨が降って上水道に下水が混入して疫病が流行るとか、そんなことは絶対にない。けれど、決して皆が幸せなわけではない。高齢社会、相対的貧困、格差•••、ニュースを見ていても、生き辛さを抱える人がとても多い社会だと感じる。

メンバーの一人が、運動をして夢中になっている時、平和を感じると言った。すごく素敵な感覚だと思う。でもそれは平和ではなく個人の幸せなのではないかと思った。

平和でない時代にも人は幸せを感じる

僕の感覚では、平和と幸せとは違う。平和と幸せとは、似ても似つかないものなのである。幸せとは、ある意味、独断的なものである。一人ひとりが幸せかどうか。実は、それは平和とはあまり関係がないように思える。
貧困な国に生きていても幸せな人がいる。貧しくても、信仰のために祈り、人々に仕える人々がいる。そして、反対に日本のような比較的豊かな国でも不幸だと感じる人もいて、現に日本の自殺率は他国に比べても高い。
人とは、なんだかあまのじゃくな存在だ。
平和な時代にはありとあらゆることが当たり前に感じて、何も気に留めず、戦禍、どん底に落とされた時でさえ、ユーモアや、隣人愛を思い出す。平和でない時代にも、人は幸せを感じるのである。

私たちは真に平和な社会を見たことがあるのか

では、平和とは何か。
僕が考える平和とは、人の尊厳と基本的人権が尊重され、保障されていることだ。全ての人々が、平等に、自分は誰になるのかを決定する自由が与えられ、階級的身分などによって個人の才能が妨げられることがない。そしてその自由を人々が守ることで、理想的で平和的な社会は、連鎖していくのだろう。このような自由は日本において、私たちが思い出そうとしない日常の中にある。

とはいえ、私は、自分の平和の定義に納得が行っていない。ちっぽけな自分の中にすっぽりはまった意識の中で考えてみても、自分の考えには矛盾があると感じるし、人と意見を交換するたび、それを一層強く感じる。私が考える平和は、机上の空論に過ぎないように感じる。過去も、現在も、戦争や紛争が絶えない世界に生き、私たちは真に平和な社会を見たことがないのだから。

まだ見ぬ平和を描く

僕の意見の後に、ある人が、それなら平和のために自分の幸せを我慢する必要があるのかと聞いた。
幸せを追い求める時、誰かの幸せを奪うこともある。行き過ぎた欲望は、平和を乱す。それが国家なら戦争に発展する。調整は政府の役目だ。平和は調整と緊張の中にあるのかもしれず、幸せの積み重ねの上に成立するものではなさそうだ。

けれど、私たちはこうして、平和の似顔絵を描く。同じものを描いても違うものが出来上がるのに、想像上のものを描いたら、もちろん、皆違う作品が出来上がる。しかし、平和を描くとき、誰もがそこに共通点を見る。平和には普遍的な何かがあるのだと思う。

今回、議論する場を与えられ、自分の中に虫眼鏡で覗いても見えないような小さな矛盾と、まだ疑問にもなりきらない何か、が芽吹いた気がする。そしてなぜではなく、どのように、と私はいつも自分に問う。こうして、どうにもならない議論を続け、その場で足踏みをしながら、私たちは確かに前に進んでいる。


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