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内観研究所 5回目を終えて。進展のない私達と「ありがたい」に含まれる罠

先月の2月17日(土)に内観研究所に参加していました。
いま内観ゼミでは意図をもって発言する、ということをトレーニング中です.
と、前回の振り返りの時にも記事に書きました。

意図というのは、記事そのものの終着点というよりも、もっと遠くの目的に向かって放つ矢のようなもの。という風に感じています。それは自分の心の中にはあるけれども、誰にも告げない旅の目的地のようなものかもしれません。前にもつい条件反射的に言葉を口に出してしまうと書きましたが、それはnoteでの投稿だったりFacebookでの記事を顧みても同様です。
それをもっと私の意思のある言葉にする為に、日夜トライしています。

実は第5回目の冒頭で主宰のお二人に
「この期の人たちは進展が遅い気がしますね」と言われました。
せっかく参加するならば、何かの進展が無いともったいないですし、気にかけてもらえているのは助かります。内観研究所の時にも様々な角度から意見をいただきました。
私個人、何をどうしたらいいのかの糸口が見つかっていなかったのでした。考えが停滞していたのでしょう。

停滞しているからと言って考えるのをやめてしまっては意味が無いわけで、何が出来るのかをInstagramのライブでお二人が話されているヒントや、内観ゼミでの自分のメモ、そして日頃の投稿を見直しているうちに、先々月に参加した「内観心身美」の書くための講座での一幕を思い出しました。

――その辺に転がっているありきたりな言葉を使う事で、自らの独自の体験を逃して凡庸な言葉に当てはめてしまう。

聞けば「なるほどな」と思えるフレーズ(表現者の方は特に)でしょうが、ありきたりな便利な言葉を使う事で、感情だったり本来感じている言葉を押し殺してしまう。
きっと書くという事をテーマにした本ならば、手を変え品を変えて色んな切り口で同じことを書かれているのでしょうが、人を惹きつける文章を書くためにはオリジナリティが必要です。
一朝一夕ではたどり着けない境地であり、そこに辿り着くためには一つずつ煉瓦を積んでいくような鍛錬が必要。
そしてそれは、私が上手くエッセイが書けない!と嘆いていた事にもつながっているのだと感じました。

受けを狙わず、通り一遍の表現でもない文章を書けたときに初めて独自の「おもしろみ」につながるのでしょうし、それが感情を揺らす文章にもなる。そのための訓練として、書く前の段階の感じ方や日常での物の感じ方を深めていく。味わっていくことが、私の精度を増すために大事なのではないか。

なんかすぐに人から何かしてもらったら
(お願いしていないし、自分でできますけど)と苛立っていても
「気にかけてくれていてありがたい」と書いて(思って)しまうし、
(忙しい中やってくれて申し訳ないなあ。でも助かる)とすまなく思う時も
「きにかけていてくれてありがたい」と書いてしまう。

薄っすらと浮かんだ感謝の言葉や、その他のモヤモヤする苛立ちも全て
「ありがたい」
に押し込めてしまう事の危うさをここ最近感じていましたが、改めて自分の言葉を探りながら安易に文章を書かないよう気を付けたいと思った回でした。


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