”ほんとう”のすきとアセクシャル
それはさ、“ほんとう”には好きじゃないんだよ。
ねえ、“ほんとう”に俺のこと好き?
きっとまだ出会ってないだけだよ、“ほんとう”に好きな人に。
どうしたらいいんだろう。
アロマンティック・アセクシャルという言葉にまだ出会う前、私はしばしばこんなことを周りの人に言われる度に途方に暮れた。
いや、アロマンティック・アセクシャルという言葉に出会ってなお、私はこんな言葉にどう返せば良いか分からなくなる。
そしていちいち、律儀に傷ついてしまう。
どうも私の“すき”が、世間で言う“すき”と違うと気付いたのはいつだったか。
仲良くしている男性から、「ねえ何で全然LINEくれないの」と言われる時、または「何でそんなに会わなくても平気そうなの?」と寂しそうに聞いてくる時。
女友達から「ねえ何でその人を“好き”って言うのに、手を繋いだりキスしたり、セックスしたいって思わないの?」と言われる時。
こんな問いの影に隠れて、彼らは言っている。
「そんなに“すき”じゃないんでしょ」と。
私はその度に、私の“すき”が不十分なんだと感じた。
私の“すき”に不良品のレッテルを貼られた気がした。
そして、彼らは私のことが“ほんとう”に好きなのに、私は“ほんとう”じゃないことに申し訳なく感じた。
ごめんなさい、私の“すき”は欠けていて、不良品で。ちゃんとした“すき”をあげることができなくて。
男性との関わりは、いつもそんな暗い申し訳なさが伴った。
でも私の“すき”を“ほんとう”にする方法が分からなかった。
だから周りが言う「本当に好きな人に出会っていないだけ」という言葉を信じた。
そう、私はまだ出会っていないだけ。
だから、大丈夫。
しかし何度目かの違和感に、もはや目を背けることができなくなった時、私はアロマンティック・アセクシャルという言葉に出会った。
それから私なりに世間と私の“すき”がどう違うのか考えてみた。
一般に、恋愛においての愛は“性愛”が主流だと考える。
性的惹かれ・欲求と、その相手を愛おしいと感じる愛がミックスしている。
それに対し私の愛は、性的な欲求が存在しない愛だ。
ただ相手を愛おしいと感じ、好きだと思う。
しかしそれで充分。怖いくらい自己完結してしまう“すき”なのだ。
だからお付き合いの先にあるとされるハグやキス、セックスに直面するたびにどうして良いか分からなくなる。
彼らが”足りない”と不満を漏らしても分かってあげられない。
何が一体足りないの、と。
性愛がスタンダードだとされる社会で、性の部分がごっそり抜けた私の愛は、それは不良品扱いされてしまうだろうな、というのが最近の私の感想だ。
“愛する”という定義が全く違うのだ、マジョリティと。
だからそんな“愛する”の定義の違う人たちと、私の“すき”は“ほんとう”かどうか議論しても仕方がない。
彼らにはどう伝えても、どこか不十分で欠けているのだろう、私の“すき”は。
恋愛ドラマや恋愛小説に触れるたび、なんて彼らの“すき”は複雑なのだろうとびっくりする。
私の“すき”ではこんな複雑なストーリーラインも、起承転結も描けなかっただろう。
例えるなら、私の“すき”はパレットに一色しかない絵の具だと思う。
どれくらいその人が好きかという濃淡でしか、絵を描けない。
だからどうしたってその絵はぼんやりとした抽象画で、複雑なものは描けない。
対してマジョリティーが持つ“すき”は、パレットにもっと沢山の色がある。
だから嫉妬や独占欲、執着や性的惹かれなど様々な恋愛模様を描くことができる。
私の単色の抽象画より、もっとカラフルで複雑で、ディテールに優れている。
でもどちらが優れているとか、そういうふうな話ではないのだ。
アセクは人に関心がないとか、愛情が薄いとかみられることがあるけれど、私自身は全く逆だと思う。
大切な人にはびっくりするくらい愛情深い人間だと思う。
ただ一色の普遍の愛を持っている。
複雑な模様は描けないけれど。
それでいいんだと誰かにいつか言われたい。
それもちゃんと“ほんとう”なんだと。
しがつ
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