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雪上に言いたいことを並べて

私はあなたに生きていてほしいと思っている。

あなたとは私の家族であり、親しい友人たちであり、同時に顔も声も知らない画面の前のあなただ。あるいは私とは共通の言語もなく、この後交わることもないだろう生活の中に過ごしているあなただ。

生きていてほしい。結局、自分が他者に向けて言いたいことはそれ以上ないのではないのかと、そんな気さえする。あなたの明日の生活ばかりか今日の食事も仕事も、一時の笑顔だって保証してやれない私であって、無責任なことを言い、ぶつけているのだということはわかっている。それでも、あなたが生きることではない選択肢を選ぼうとしているのだとしても、生きる先にある暴力を押し付けてでも、私はあなたの生を勝手に望んでいる。善くあることだとか、営みの果てに何かを突き詰めることだとか、そんなことにはもう興味も湧かない。それは笑顔のままの誰かが好きにやってほしい。今の私が祈ることに、意味はひとつしかない。そのまま、そこにいてほしい。

ずいぶんと雑多な言葉ばかりが並ぶ世の中になってしまったなと思う。

人の声は電波に乗って、瞬間、どこまでも届き、反対に言葉はどこからだろうとあなたをめがけて突き刺さる。謂れのない誹謗中傷に、明後日の方向へ加速する糾弾。言葉が人を殺す様子ばかりが、連日のように目に映る。わからない、昔からこうだっただろうか。人の放つものの醜さなんて何年が経とうと大概変わりようがないだろうし、それは良い方へも悪い方へも同様のことかもしれない。ただ、溢れる言葉の総量はきっと増えてしまったのだろう。一人の人間が、到底受け止めきれないぐらいには。

人を刺す言葉の数々も、逆に、その場しのぎのような薄っぺらな慰めの言葉も、私はそのどちらにも辟易してしまった。

陳腐なフレーズに集まる数千、数万のいいねが何を救ってくれているのか、よくわからなくなる。百度発せられた言葉の百一度目を発するだけのアカウントの、百二度目の繰り返しを正直もう見ていたくない。同時に、たとえその場しのぎであろうと、どんなに安い語の連なりであろうと、それが耳目を集め人に必要とされている事実から目を離すことができない。

私は詩を、小説を、言葉のずっと先にあるもののことを信じている。それに振り回されることなら決して厭わず、身を捧げられるなら嬉しく思う。わずかな語の繋がりが幾重にも展開するような短詩系に触れるたび、ここに力がないわけがないだろうと感じる。一方でその無為さを思い知らされ、必死に目を逸らそうとする瞬間だっていくらでもある。詩は清々しいほどに無力だ。詩なんてものは見殺しの技術だ。こんなことを連ねて、今の時代に詩なんて書いて何になるのだろう?

うわべだけを、傷口を撫でるだけのような聞こえの良い言葉を、正直拒絶していたかった。いいねの数だけ、私の信じる文章たちの存在を否定されているような気分にすらさせられた。頼むから、こんなものばかりに心を動かされないでくれと、我儘にも祈った。でもきっと、詩に足らないような言葉ですらこの世には足りていないのだ。人を生かすものは、いくらあったって構わない。私がすべきことは、筆を置いて今すぐに駆け出し、出会う人に片っ端から「大丈夫だよ」「怖いことなんて何もないよ」と声をかけて回ることなのかもしれない。

しかし、書き続けることは止められない。

私は、東京都の郊外に位置する多摩ニュータウンという地域で生まれ育った。多摩ニュータウンは高度経済成長に伴って不足した、都市部で働く人々のための住宅を補うために1970年代のはじめに開発された地域で、祖父の代がここに「入植」してきたことで、今の私までに至る。

ニュータウンというのはおかしな場所で、団地のために開発した丘陵地帯に次々人を住まわせたものだから、連綿と受け継がれてきた文化も伝統もそこには何もありはしない。少なくとも、私はそのように感じていた。まるで「シムシティ」の世界の住人のように、空っぽだったマップに突然発生したような気持ちのままで、与えられたインスタントな文化を飲み込む毎日。白色の空虚は、常に隣にあった。同じような土壌の感覚を、このインターネットという原野にずっと感じている。

画面をスクロールし続けて得られるのは、人々の「これまで」からは切り離されて発生したような、ふわふわと浮いた情報の数々だ。それに救われ、支えられて生きている部分を否定はできない。一方で、どこか私たちは「何か大きいもの」のことを忘れて箱庭の中で遊んでいるだけなんじゃないか、という漠然とした恐怖の塊をブラウザのウィンドウ、その裏側に見ている。文脈がどうとか、文化のハイ・ローだとか気取ったことを踏み台に、「こんば場所を出てもっと多くを知ってほしい」と言ってしまうには、あまりに葛藤がある。私自身このインターネットという場で育ち、繋がり、醸成されてきた文化の中で過ごしてきた。百度繰り返されたコピペは母国語であり、コメント欄は故郷の酒屋だ。

しかし隔絶したこの場所だけにいることを、もどかしい、と私は思う。たまには、あなた以前のことを思い出してほしい。そこには先人たちが積み重ねてきた言葉があって、それは現世に積もるがらくたの中でいくらかマシなものだ。信じるに足るものだ。あらためて、ここでありふれたことをひとつ言おう。この世には、あなたがまだ見ぬものが溢れている。生きてさえいれば、それを見て回る時間くらいはある。

私は詩が好きだ。一方で、あなたを支える言葉のひとつだって足りていないこの世のことは嫌いだ。素直なことを一つ信じてもらうのにも、きっと死力を尽くしてやらないといけない。まっすぐな言葉と、迂遠な言葉でもって私はあなたに生きていてほしいと、これからも言い続けてやろうと思う。

いちめんの雪 死んだひとにあいたい いきてるひとにはいきててほしい

橋爪志保『地上絵