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人の口は同じ形に開き、やがて

SNSを長いこと見ていると、同じ話ばかりが繰り返されるような光景にどうしても目が行くようになってしまう。

X(旧Twitter、この言い方にも慣れる気配がない)はきっと最たる例で、職場や上司の愚痴、生き辛さを解消するためのライフハック、くすっと笑えるようなネタ画像にコピペ……その話のどれもが、いつかどこかで見たようなものに思えて仕方がないことがある。

「Twitterでの話題は3-4年で一周する」みたいなことを誰かが言っていたような気もするけれど、本当にその通りなのかもしれない。ずるずると10年以上Twitterを眺め続けてしまった身としては、なんだか話題ごとにそれぞれ異なる「公転周期」みたいなものがあって、それが1回りする度に私の目へと飛び込んできているような、そんな感覚だ。トピック自体の数は無数にあるのだから、毎日何かしらの既視感に襲われるのも無理はないような気もする。

SNSの普及によって、それ以前よりはるかに個人の考えていることや思っていることを発表し、人に届けやすくなった点は確かにある。しかし、そう言えば聞こえはいいのかもしれない一方で、その実SNSが明らかにしてしまったのは、人が話したがり快を得られる内容なんてものは大差がないという事実なのかもしれないと、そんなことを考えてみたりもする。

パワーポイントを使った資料作成のtipsを日々投稿している「パワポ芸人」のトヨマネさんが、過去にこんな呟きをしていた。

「自分の"当たり前"は、誰かの"大発見"かも知れない」
SNSやブログで情報発信することの本質は、ここにあると思っています。

トヨマネ|パワポ芸人

この呟きの後にスレッドに続ける形で「自分にとっての当たり前が誰かの大発見になることの難しさ」も同時に語られている(だからこそ何かを突き詰めることの意義も)が、これを見たときに私は、そんな考え方もあるのかと少し新鮮な思いだった。

私にとっては「誰かの当たり前になってしまいそうなこと」はできる限り避けるべきことで、自分が少しでも"当たり前"と思ってしまうようなことには言及したくない、という思いが少なからずあったからだった。無論、まっさらな場所から「大発見」を見つけるようなことは余計に難しいことだ。(そればかり見つけようと躍起になっていたら、おそらく何も喋れなくなってしまう)それでも、世の人たちがこれまでにどんな話をしてきて、どんな言説が使われてきたのかを可能な限り知った上で、そこで初めて自分が話すべき何かがわかるような気が私はしていた。

少し前のこと、作家でオモコロライターのダ・ヴィンチ・恐山さんが書いたSNSにまつわるnote記事が話題になっていた。

頻出ツイート100選」と題された記事で、恐山さん自身が運営しているdiscordのサーバーで集められた「Twitterでよくバズるツイートの形式」を参考に、それが100個箇条書きの形式でまとめられたものだった。サイゼリヤにデートで行くのはアリなのかとか、「今川焼」の呼び方の議論だとか、何年か、あるいは数ヶ月でもTwitterに触れていたら必ず目にするような、そんなTwitterのベタ的な内容が詰まっていた覚えがある。

公開されたこの記事に対するリアクションは様々で、「あるある」として面白がって受け取る人もいれば、冷笑的だとか問題の矮小化だとかで批判的に受け取る人もいて、結局あっちからこっちから種々の意見が相次いで、しまいにはそれを重く受け止めた著者本人が記事を削除してしまった。取り扱われている内容的にはいくつかの問題があったかもしれない一方で、世間の反応的には、自分達の楽しむ何かが陳腐なユーモアとして並べ立てられてしまったことへの反発といった、そういう類の感情があったのかもしれないとも思っている。

その後、恐山さんは自身の日記「居酒屋のウーロン茶マガジン」(有料部分)で、記事を書いた理由について自ら語っていた。これを読んでいると、その文面からは「自分達は繰り返してしまうのだということに、気づいてほしい」といった思いがうかがえる。そして、その先にある「真の喜び」のようなものに気づいてほしいのだということも。

まずこの意見について、私もかなり近いような立場にいる。当時、記事の作者(=恐山さん)に対して指摘することでマウントを取っているんじゃないかとか、性格が悪いだのといった指摘も見られた。一方で、そういう意図はなかったということもはっきりと書かれている。そうじゃないんだろうなとは、なんとなく感じるものがあった。

「同じ話ばかりが繰り返されること」に対して私も抱いていたのは、恐山さんが思っていたような(次のフェーズへ、とまでは行かなくても)、どうか気づいてほしいというような願いと、きっとそれは叶わないのだろうということへのやるせなさ、そして「もったいないな」という感情だった。

お笑い芸人であり作家の又吉直樹さんへの昔に読んだインタビュー記事で、「若者の活字離れ」について問われたときの答えが印象的だったのを覚えている。次のようなものだった。

――若者の活字離れが進んでいます。小説家としてどう見ていますか。
「本を読まない友人がいて、1つのテーマについて鋭いことを言います。ただ、その意見は近代文学の中で何度も言及されてきたことで、その意見に対する反対意見もさらにその反論もでていて、すでに2つ3つ先に議論が進んでいるのです。彼が本を読んでいたら、その続きから考えられるのです。彼は賢い人ですが、もったいないですね」

日本経済新聞「「37歳まだ若手」 又吉直樹さんに聞く人生100年時代」

ここで又吉さんが感じている「もったいなさ」は、私がSNSで日々展開される「繰り返し」に対して抱いている感情に近いもののように思った。

もったいなさを感じられる側というその視座、その視点がともすれば特権的なもので、「偉そうなことを言っている」ことは自覚するべきものだとしても、それでも、私は多くの人に「続きから考えられる」ようになってほしいと願っている。これは私がたどり着けない「続き」の場所のことも、誰かがたどり着いて教えてくれないかという、祈りのようなものでもある。

さらにこれはSNSに限った話ではなくて、人はきっとどこでも同じように口を開き、そして私自身の口だってどこで周回遅れの何かの話をしているかわかったもんじゃない。それでも、「まあいいか」と諦めこれに抗うことをやめたとき、何かを失ってしまうことが、私はとても怖い。

Xではインプレッション数に応じた収益化の仕組みも実装され、いわゆる「アテンション・エコノミー」的な毛色がより色濃くなりつつある。そんな中、誰もが反応をするような同じ話をし続け耳目を集めるのは、インセンティブを得られる正しい選択だ。でもそれを良しとすることを、私はまだできない。世界にはじめて灯る光のことを、ずっと探していたいというのは、特権的でわがままなことだろうか。