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「理解」よりも「理解に向かう姿勢」で視界が晴れていく

※この記事は映画「怪物」のネタバレを含みます


 日々コックをやっていて一番気を付けているのが言葉遣いだ。常に忙しく緊迫した現場だからこそ短く端的に気分良く仕事ができるように角のない言葉で伝えることは重大なことだと思っている。

が、意外とそう思ってるコックが少ないように感じる。荒々しく強い言葉を使うコックの方が遥かに多いのだ。

この事を二十歳の頃務めていた店の上司に聞くと、

「常にスピードと繊細さを求められて、切羽詰まってるという状況を全員が理解してるからその状態が仕方ないという認識になってるんじゃないかな。」

と言われて6割くらいは納得できた、でも、腑に落ちるまでは至らなかったのだ。

少なくとも僕は怒号が飛び交うキッチンでは十分なパフォーマンスができない。自分が怒られている時は当然のこと、僕以外が怒られてる時でさえも共感性羞恥で頭が真っ白になる。そのことを上司に相談すると、

「コックである以上はそういうのは慣れないと。」

と言われた。

本当にそうなのだろうか。



 思えば幼少期の頃から自分は少数派なんだろうか?と感じることが多かった。

男子なのに料理クラブに入って笑われたり、みんなが熱中してるスポーツ観戦に同じ温度で参加できなかったり。

料理が好きな男がいても良いだろと思ってたし、スポーツに興味がなくたって死ぬわけじゃないだろと思っていた。まぁ、幼いながら気取りたくて自ら少数派に進んでいた可能性もある。でも、どれも本心で思っていた事だからその判断を26になった今するのは難しい。

 そんな幼少期を送ってきたこともあってなのか、僕は少数派の心情が多数派の固定概念の壁を突破していく映画が堪らなく好きだ。
生きづらさの中で見つけた一筋の光を頼りに、数字こそがアドバンテージと信じてやまない人々の概念すら超えて進んでく人物描写に何度も勇気を貰いながら生きてきた。善悪とか優劣とか、そういったものの真の正体に迫っていくハラハラ感が好きで仕方がない。

昔と違って自身をマイノリティだと認める行為に寛容になってきたように肌で感じてる。世の中の見方が変わったのか、それとも自分が少数派と思うことが多数派に変わったのか、それともただ単に気の持ちようが変わったのか。

少数派の中の多数派、多数派の中の少数派と区分が増えたようにも感じる。

実際のところは分からないけれど、少なくとも昔はそういう人達のことを「厨二病」とか「イタい」とか、とにかく弱者と括られていた。

僕はこの中のどれでもなく「考えすぎな人」と言われていた。何をどうやっても考えすぎてしまうのだ。理解できないことを上手に消化できない。

本来考えなくて良いことまで常に考えてしまう。キッチンの中での言葉遣いに重きが置かれないのはなぜなのか、どうして小学生の男子が料理が好きだと笑われるのか、スポーツに熱中できないのはなぜなのか。

例に漏れず数の多さこそがアドバンテージだと信じてやまない多数派の物差しで説き伏せられてきた。


 先日、脚本を坂元裕二さんが、監督を是枝裕和さんが務めた映画「怪物」を観た。ずいぶん前から坂元裕二さんの大ファンであったので、あえてなんの前情報も入れずにこの映画と向き合いたいという気持ちで見に行った。

映画の構造はさっくり言うと、とある事件を4人の人物の観点で描くというもので、全く同じ時間帯の出来事をそれぞれの人物がどのような行動をしてどのように出来事が生まれたのかを淡々と4回同じ内容の映像が視点だけが変わって流れる。

その中で不気味な言動行動をする人物が現れるが、色んな視点が紐解かれていくうちに4人ともそれぞれの価値観と正気の元に動いた結果としてそういう風に"見えていた”だけであった。

つまり怪物はそもそも存在していない。しかし、誰もが誰かにとっての怪物になりうるのだというメッセージだと個人的には解釈した。

少数派であること、少数派に見えるものであっても同じ平行線に確かに存在しているのだというある種の肯定に勇気をもらえたし、その結論に至るまでの様々な不信感や気持ち悪さの正体とそれぞれの人物の価値観が「理解」という一本の線で繋がっていく様子がとても美しい。

「怪物」を見た人達の解釈をnoteで読み漁っていてある記事が目に止まった。少しだけ引用させていただく。

それは無意識に作品を見てる側が「怪物はの正体は?」と探す構図を頭に描きながら見ているということだ。

こいつが変だ、こいつが怪しい、と無意識に目に見えた情報だけで善悪を判断しながらを見進めることになる。この思想の構造そのものが真の怪物なんじゃないかというものだった。

鳥肌が止まらなかった。映画を見ているナナメの心すら作品の一部にしてしまうなんて。

坂元裕二さんの書くドラマ脚本は元々マイノリティを描いていたものが多いと感じていた。連続ドラマでありがちな憧れのかっこいい登場人物は見た事がない。

それよりも人の内側にある本心や少々滑稽な登場人物達を「こういう人って実は面白いんだよ」と言っているかのようなエンタメ性を帯びた物語に昇華してる作品が多いように思う。

ネチネチしてて、倫理的で、頼りなくて、愛があって、弱くて、優しくて、人間らしい。全く正統派とは言えない人物をおもしろおかしく肯定してくれる作品を数多く作ってきた坂元裕二さんが書くマイノリティの表現だからこそ頷ける。自身のこれまでの作品すらも伏線として使う映画。

これ以上に説得力があるものが浮かばない。



 映画を見ながら僕は、「幼少期の頃、自分を理解してくれる人が欲しかったのかな?」と考えた。

作中に出てくる麦野湊(以後”湊")という男子小学生は性的マイノリティを持っていた。役を演じた黒川想矢君の演技が凄すぎてこれまた絶句してしまった。

湊は小学生ながら自分が他の男子と違うということ、少数派なんだということを悟り恐怖する。

このテーマで散々書いてきてあえて言うのも変だけど、人と違うことを怖いと感じるのは当然の心情だ。

僕の恋愛対象は女性であるからこそ完全な理解はできるわけがないし、理解できたなんてことは到底口にしてはいけないとも思う。

そんな湊の唯一の心の拠り所は同じクラスの男子小学生の柊木陽太(以後”陽太")だった。

陽太も湊と同じ性的マイノリティを持っているように見える男子だったが、実際のところは不明だ。映画の中で正確にそうだと断定できる描写が無かったからだ。

ただ、やはり陽太も少しだけ人とずれているところがあり、他の生徒にいじめを受ける描写があった。ずれている(と自負してる)人間同士だったからこそ2人はそれぞれを拠り所にしたように個人的には解釈した。

だとすると、必ずしも必要なのは完全な理解ではないのかもしれない。

完全に理解はできないけど、その気持ちわかるよ。と、心を向けてくれる状態、理解に向かう姿勢そのものに救われる事があるのだろう。

そういえば、小学校の頃たこ焼きをひっくり返すのが上手と当時の担任の先生に褒めてもらった時なぜか妙に心が軽くなったのを覚えてる。男子なのに料理クラブにいることを笑わずに肯定してくれたのが嬉しかった。先生が当時の僕の気持ちを100%理解できるはずは無いのは分かってるけれど、その時の気持ちは今思い出しても良い思い出として残ってる。

スポーツに熱中できない僕を見て、このバンド良いよ。と音楽の世界を教えてくれた友人に今でも感謝してる。自分にも熱中できるものがあったんだ、スポーツに熱中できないことは悪いことじゃないんだと嬉しくなったし、おかげで僕の人生に大きな影響をくれた。そんな理解の姿勢がある素晴らしい人達と、実はもう沢山出会っているのだ。

あまり自分では認めたくないけれど、僕はきっと少数派に近い人間なんだと思う。きっと多数派だったらこの事に気づけなかった。

きっとこの先もそういった合う人との出会いに勇気をもらいながら日々を生きていく。

やっぱりどうしても思ってしまう。理解したいと考える行為は自分の物差しを磨くための大切な過程であって、だからこそ他を知りたい。理解しようとしてる姿に救われてきたからこそ自分もそういう人間でありたいと思うのだ。

もう何度目かも分からないが、坂元裕二さんからまた勇気を貰った。

「考えすぎな人」は僕の軸だ。

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