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だが、

今月、働いてたレストランを退職した。理由は軽度のうつのようなものだった。

ミシュラン一つ星店を経営するシェフの元で働たらいていた。

シェフは過去に名店で働いてた経験もある。海外渡航歴もあり、ネームバリューだけを見るととても偉大な人に見えるが、人を殴ったり他人を理不尽にこき下ろしたりを簡単にしてしまうような人だった。

僕は飲食業に蔓延る独特のソレを美徳とする空気をどうにも寛容できない。


殴る、怒鳴る、苦しめることでしか教えることができない技術なんて無くなればいいとさえ思っている。

上司の性格が合わないくらいで仕事を辞めるなんて、と言われてしまえば少々弱い。

特にこの仕事においては技術を教わることと給与を得ることだと前者の需要に圧倒的に天秤が傾く。お金を稼ぐことよりも技術を得るために人間を捨てることができる奴ほど上り詰めていく。


僕はきっとそういう意味では世間一般的なコックの像とはかけ離れた存在である。学びたいと思う反面それに伴う対価を払う勇気も無ければ、技術職特有のソレを受け入れる器量も無い。誰に届いているのかもわからない思想をnoteで吐露する脆くて弱い人間だと思う。

けれど、どうしても受け入れられないのだ。

尊敬のできない人間、納得のいかない現象から得られる教えとはなんなのだろうか?好きなことを嫌いになってしまうほどのトラウマを植え付けてくるような人間から何を得るのだろうか?

少し苦しい考え方だが、きっとそれを考えることそのものが教えなのだと思うことにした。そうじゃないとこれまでの苦悩を肯定できない。



過去に友人が店に来てくれた時に僕の働いてる姿を見て「こんなんで給料もらってんだもんな。羨ましいわ」と言われたことがあった。

あえて言わせてもらうが、途方もないほど無知で恥ずかしい言動だということを自覚した方がいい。

その時その場における状況全てに悩み葛藤し時に弱い自分に恥じながらもそれを選ぶしかない瞬間が確かに存在するのだ。辞めない理由はほぼ全て料理に対しての情熱だけなのだ。



ドラマ「だが、情熱はある」を見ていると、職業は違えど烏滸がましくも自分と置き換えながら見てしまう。

僕はもともと若林さん山里さんのファンで、このドラマの原作である著書「天才は諦めた」「ナナメの夕暮れ」「社会人大学人見知り学部卒業見込み」も随分前から読了済みだ。

彼らが各著書で自分達の20代を思い出したくないと語るように、自分も若造の割には様々なリアルを経験してきた。
パワハラ、モラハラ、時代錯誤、不当給与、コロナ、閉店、上京。幸せな思い出よりも苦しい思い出の方が遥かに多い。

不幸の背比べをしたいわけでは決して無いが、25歳という歳の割には様々な経験をしてこれた自負はある。

彼らの人生を見ていると勇気が湧く。

確かに彼らも王道の芸人とは言えない。
何かが足りてない。とんとん拍子には行かずとも自分を削り、傷つきながらも前に進む。その背中を見ていると「間違ってないよ」と、僕の心に語りかけてくる。ように見える。

僕にとって「だが、情熱はある」はもう既にただの青春ドラマでは無くなっている。

きっとこの先何度も折れそうになった心の根っこに住み続け、時に背骨のように僕を支えてくれるものになると確信している。

きっとそれは僕だけじゃなく、日々戦い、時に傷つきながらでも前に進もうとしてる人間にとって確かな希望になるはずだ。


僕は最近また新しい夢ができた。スタッフが自分の好きなことのために正しい努力をできる会社を作りたい。

まだまだふわっとしている夢だが、過去に自分が経験してきたことの中で明確にこれがやりたいと思えたコトがあった。

それは人と人との関わりの中でひとつの空間を作るということだ。

信頼できるスタッフ、信頼できる友人、信頼できるお客様と一緒に作り上げる一個の空間や時間。面白いものや素敵な空間を作りたいと思う気持ちには意外と白々しさが無い。

それに付随するアレコレを突き詰めていくことが自分の道だと現段階では思っている。

日本の社会においてこの夢はとても弱い。利益よりも思想を重視する夢はこの国ではとてつもなく細い道であり、冷笑、嘲笑の格好の的とも言える。

特に技術と数字の管理がものを言う料理の世界では尚更だ。稚拙な考え方じゃなく、ビジネスライクな人間の方がこの業界では遥かに強いことも理解してる。

だが、僕はもうソレにしか喜びを感じないのだ。

こんなんで給料貰ってんだもんな。

ああ、そうだ。どうとでも言えばいい。

低空飛行人間からの冷や水くらいならすぐに乾くくらいには、情熱はある。

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