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#25 【書評】 共感の正体

『共感』とはなんだろうか?

私たちは日常の中で日々誰かに共感したり、逆にされて生きている。しかしながら、その正体についてはよくわかっていないのではないだろうか。

しかしながら、この『共感』という単語は近年様々なところで使われるようになった。ビジネス的な文脈から、人間関係・恋愛関係など包括的な人間同士のやり取りにおいてなどその重要性はますます大きくなってきているのではないかと感じる。

この背景には様々な要因があることが考えられるが、一つは社会の中に『多様性』という言葉が通じるようになったことによって、自分とは違った属性を持つ人たちと出会う機会が増えてきた。そこで、多種多様な価値観を受け止めて尊重するための一つの方法として『共感』が登場しているという側面はあるのではないだろうか。

そこで、今回はこの『共感』という人にとって極めて重要な概念について詳しく論じる一冊の本を紹介しようと思う。



現代に共感が求められる理由

まずそもそもの話、共感という概念自体は別に新しいものでもなんでもない。普通に昔から共感というもの自体は存在していた。

しかし、それが現代において必要とされるのは単純に考えれば『共感が社会に不足している』からと言える。日本の現代社会は、豊かになり自由がかつてないほど増えてきたが、逆に自由であるからこそ生まれた問題もある。

例えば「貧乏なのはその人の自己責任である」、「失敗したのはあなたの努力不足である」、というような過剰な自己責任論がある。その問題の背後にある様々な問題を一足飛びし、一括に自己責任としてまとめ上げてしまうこの傾向も「共感の不足」が一つの理由なのではないだろうか。

また、ビジネス的な文脈においても「共感」が重要視されるようになってきた。ビジネス書にも「共感力」なるものが冠せられたものがあるし、その注目度が高いことはよくわかる。

もちろん「共感」に注目が集まるのは結構なことである。ただ、注目するからにはまずそもそも「共感」というのがその実どんな存在であるのかを確認しなければ意味はない。そこでしっかりと共感について知ったのち、それをいかにして活用していくかを考えるべきである。

共感とはなんなのか?

我々は日常から特に何も考えずに『共感』を感じて生きている。

映画を見た時、本を読んだ時、誰かの話を聞いた時。呼吸をするのと同じように共感している。

これくらい日常に根付いている『共感』に実は二つの種類があることを知っているだろうか?

実は共感にも『情動的共感』と『認知的共感』の二つがある。

『情動的共感』というのは、相手と同じ感情を感じるような共感のことである。何か嫌なことがあった友達を見て自分も同じように嫌な気持ちがしてくるのはまさにこの『情動的共感』である。

そして『認知的共感』というのは、相手と自分は違う感情であることを自覚しながらも相手のことを考える共感である。この共感の重要な部分は自分と相手をしっかりと区別していることにある。

情動的共感というのは相手の感情と自分の感情を一緒くたにしてしまう状況だが、認知的共感はあくまでそこは冷静になっていて「自分と相手を区別して」考えることができている状況だ。

この違いを理解しておくことはとても大切だと思う。我々が思っている共感というん言葉は情動的な要素が強いが、この共感には相手の感情に振り回されやすいという欠点がある。一方で認知的共感は相手に共感はしつつも、理性的な目線を持っているため自分の感情は安定させることができている。

もちろん、どちらも重要であることには変わりないのだが例えば『情動的共感』しか持ち合わせていなかったり、その割合が多かったりすると共感する側もキツくなってきてしまい、相手に共感して励ますつもりがいつの間にか自分も沈んでしまう可能性が出てきてしまうため、注意が必要だ。

共感の輪を広げること

ここまで見てきた議論をまとめれば、現代の社会に求められているのは『正しい共感を広げること』である。

ただ闇雲に相手の感情と自分の感情をシンクロさせればいいわけではなく、共感はしつつもあくまで理性的な目線を忘れないこと。そして『相手の立場に立って考えること』を忘れないこと。

この二つが共感を社会に広げていくにあたって極めて重要な要素になってくると私は思う。

共感は人間が生きていくにあたって必須の力であるし、共感によってより幸福になることもできる。

その力がより社会に広まることで、今よりもいい社会に近づいていくのではないだろうか。


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