見出し画像

【短編小説】記録:トマトパスタ

 カレーの予定だったけどルゥを買い忘れたから豚汁にしたよ。えぇ、カレーの口だったのになぁ。そんなふうに文句を垂れてもそれはそれで美味しくて、やっぱり日本人には味噌だね。なんて、そんな調子のいつかの会話というかシーンが浮かぶ。そういうラフさが好きだったし、いまでも好きだ。
 遠い土地に来たとしてもキッチンに立てば地に足がついたような気がして、根無し草な生活を送っている僕もそんな時間だけは心を落ち着かせることができる。そこがたとえ北国であっても南国であっても、スラムの一角のボロ宿であってもタワーマンションの最上階であったとしても、感情だって、悲しくても喜びに溢れていても、キッチンはどこも似たり寄ったりな見栄えで出迎えてくれる。コンロがあって、その周りにはフライパンと鍋が置かれていて、ヘラやお玉がある。程度はあれど冷蔵庫はどこでも耳をすませば静かにジージーと鳴っている。公平で優しく隔離された場所なのだと思う。
 料理を作ることが好きだ、というよりは、ご飯を美味しく食べてる人の顔を見るのが好きで、だから1人で自分の分だけなにかを作るときは惰性で手を動かすだけなんだけれど、こうやって文章にしてみたらそれも悪くないのかなって思える。自分で自分の顔を見ることができないというのなら、満ち足りて笑っている顔を想像するほうがお得だ。自分を労うことができる人は生活の些細や機微をちゃんと掬える人だから、僕もいつかそうなれたらいいと願う。
 夜の底で鍋に水を張れば水没しているような気分になるけれど、呼吸はできているから居心地が悪いわけではない。温水プールの湿気がこもったプールサイドで泳ぎ疲れた身体を休めながら皮膚に張り付いた水滴をゆっくり乾かしているような、まるで自分が両生類の生物にでもなったかのような感覚に陥る。そんなときにはキッチンに置いた折り畳み式のスツールに腰をかけて、ガスコンロに合わせた目線で青い炎を見つめれば、人間という摩訶不思議な存在に戻ってくることができる。
 惰性で手を動かすだけだといったけれど、料理は何もしない工程があるものが好きだ。茹でたり煮詰めたり。その両方ができるパスタは贅沢で、それを好む僕は欲張りなんだと思う。欲張りというか、たとえば、自分には甘くて他人には厳しい人は寂しがり屋の構ってほしい人で、自分には厳しくて他人には優しい人は誰かを守るための強さを求めている人で、そのどちらもが健やかであって欲しいと、偉そうだけど思うから、僕は自分にも他人にも甘いっていわれて、それって単なる優柔不断でしかなくて、否定がないなら肯定もないよっていつかいわれた言葉は耳が痛い。
 沸騰した水に一握りの塩と乾麺を入れる。ぼこぼこと沸き上がる湯に沈んで半透明にふやけていく麺を覗き込めば、蒸気が目に染みて粉の匂いが鼻につく。隣のフライパンでは一口大に切った鶏肉をトマト缶で煮詰めている。ローリエを入れて香りづけをすることを僕はいったい誰から教わったのだろうかと、思いだそうとしてみても記憶はもう記憶でしかないから曖昧なままで思考を投げ出す。パスタ麺をパッケージに表記された時間よりも1分早くざるにあげて湯切りする。それをお玉で掬った少しの茹で汁とともにフライパンに入れてソースに絡める。皿に盛ってパセリを振った。そのささやかな緑にどんな願いを込めようかと思ったのだけど、結局お腹が空いて早く食べたいから、祈りは朧げなまま、言葉と同じでいまこの瞬間にはどうしても形にならなくて、ぼやけた感傷だけを取り残して夜のしじまに消えていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?