見出し画像

【短編小説】 カフェと火照り

 社会生活を遂行することがこんなにも難しいことだとは思わなかった。自身のキャリアを選択する際に人生の大きな決断を下した。そうして一世一代の覚悟を持って入社した会社には結局長くは勤めなかった。それからはバランスを崩したままの日々が続いている。
 夜が明けて容赦なく朝がやってくる毎日。その日常のなかでやらなければいけないことだけが増えていく気がする。別に意地の悪い人が職場にいるわけでもないし、残業があるわけでもない。だけども処理しきれない書類がデスクに積み上がっていき、返せていないメールの通知がモニターを圧迫していく。頭だけがから回ってやっぱり体はついていかない。そんな状態で天井を見上げた。LED照明の調整された光量さえも目に染みる。私の人生こんなはずじゃなかったんだけどなぁと後悔してもしきれない思いも心の隙間に一緒に染みていく。
「小関さん、チョコレート食べます」
 春の異動でこのオフィスにやってきた相馬くんがパウチパッケージのチョコレート菓子をデスクの引き出しから出して見せる。
「ううん。気を遣わなくていいから」
「別に気遣ってないですよ。このチョコ好きだから、味の感想を共有したいだけです」
 物腰柔らかくそう返す相馬くんは仕事においてはもちろん、きっと恋愛においても優等生なのだろう。程遠い存在だなと思う。断る理由もなくなってしまって、チョコを一粒受け取る。糖分のおかげでもやがかっていた思考が少しだけクリアになる。
「美味しい」
 と答える。
「よかった」
 と返ってくる。
 それだけ、お互いに何事もなかったかのように仕事に戻る。ふと、相馬くんがまた手を止めてこちらの顔を覗き込む。そのまっすぐな瞳を私は直視できない。
「小関さんは、甘いもの好きですか」
「人並みには」
 無意識に他人との間に壁を作ってしまって、そんなふうにつっぱねるようにしか返事ができない自分は可愛くない。
「それじゃあ今度、気になってるカフェがあるので付き合ってくれませんか?甘党なんですけど、そういうところ男1人では入りづらくて」
 思ってもいなかった誘いに言葉がつまる。いい歳して顔が赤くなっているのもわかる。
「もしよかったら、来週の土曜日に」
 相馬くんがそう続けて、来週の土曜日の予定については確認するまでもないくせに、カレンダーを見やるふりをする。そして「外せない用事があって」と断りをいれる。この日は月に一度の子どもとの面会日だった。

 終業のチャイムが鳴れば、PC上の出退勤システムに打刻する。派遣社員の給与は時給で換算されるからよほどのことがない限り残業は認められない。積み残した仕事を傍目にバッグを整理して帰り支度をする。隣の席の相馬くんが律儀にキーボードを打つ手を止めて、挨拶をしてくれる。日中に誘われたことは幻だったかのように、何事もないさりげなさで笑顔を見せる。まるで陽だまりのようだ。経営基盤が安定した企業の正社員で、そのくせ誰に対しても偉ぶるところもない。息子も相馬くんみたいな人に育ってほしいなと思って、ふと、口に出してしまった。
「相馬さんは学生時代なにか部活動をしていたんですか」
「吹奏楽部でトランペットを吹いていました」
 似合うなぁと心のうちで納得する。相馬くんがどうして急にそんなことを、という顔をしてこちらを見ている。
「息子が…今年中学にあがってバスケを始めて」
 そう返す。
「息子さんがいらしたんですね。小関さんあんまり自分のこと話してくれないから知れて嬉しいです」
 相馬くんは興味を持って前のめりになってくれる。
「中学生だと日に日に成長していくだろうから、毎日楽しみですね」
「はい」
 とだけ答える。離婚して親権を失った私が子供に会えるのは月に一度だけですけどね、そんな言葉は飲み込んだ。
 オフィスの入ったビルを出て、空を見上げる。ビル街の一角で見上げる空はいつだって窮屈で、不自由という言葉が似合った。定時で退勤すれば外はまだ明るい。いつもはこんなこと頭をよぎらないのに、今日はこのまま家に帰ってしまうのはもったいないと思った。息子が次の面会日に行きたいと言っていた焼肉屋はここから歩いていけない距離ではなかったはずだ。せっかくだし事前に寄ってみようと思う。歩き出しながらこの界隈にはカフェが多いことにも気づく。相馬くんの笑顔を思い出してみる。彼が行きたいと誘ってくれたお店はどんなところだったのだろうか。明日、聞いてみようかなとそんなことを考えれば、季節がらでもなくまた顔が火照った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?