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【短編小説】 白線を踏む

 真夜中であっても早朝であっても、私はよく歩く。それが今日みたいに休日の真昼間であったりもするから、特に時間帯のこだわりはないのだけれど、いつも歩きながら頭をよぎるのはかつてそこにあった光だ。
 たとえば陽のあたる時間には繁華街に煌めいていたネオンサインや往来していた人たちの熱気を、そしてそんな喧騒から逃れるように大通りを逸れて歩き辿り着いたマンション街の窓から漏れる生活の光なんかを。
 月だってそう、真夜中にはあれほどまでに心を惹きつけるのに、太陽のもとでは透明な存在として夜に纏っていた気配をすっかりと押し殺している、そんないつか存在していた輝き。
 日が落ちた時間に出歩くときには更地のがらんどうに落ちていただろう陽だまりや明度の高い空の水色、出勤を急ぐサラリーマンの腕時計が反射する陽光。
 ランドセルを背負って駆けていく小学生の笑い声や、飼い主に連れられて散歩をしているわんこの息づかいであったり。そんなものだって光と捉えて、かつて日中に溢れていた一つ一つを夜に思う。
 営みは生活と同義で、そこには大小さまざまな感情が渦巻いている。その軌跡が光となって、尾を引きながら流れていく。消えていくものを思うときはいつだって俯瞰された淋しさが心に響く。この世界で一番怖いものはなにかと問われたら忘却だと答えるだろう。過ぎ去っていくものに対する忘却。
 だけども淋しさを共鳴してる間は忘れることがないと知っているから、私はかつてそこにあった光の痕跡を探して縋っているのだと思う。別に生活に不満があるとか落ち込んでて元気がないというわけではない。だからこれは白線だけを踏んで歩く何気ない遊びのようなものだ。
 その白線を踏む遊びを共有していた2歳下の妹と来週会う約束をしている。結婚を機に地元を離れて疎遠になってしまっていたから会うのは久しぶりだ。地元民のくせに、地元民だからこそ乗ったことのない水上バスに乗ってもいいねとそんな話をしている。帰りには母の好きだった甘夏のパフェを食べようとも。


 私はよく歩く。気になってる人とのLINEのやりとりがいい感じに続いているときも、大きな商談のチャンスを不意にしてしまって上司に怒られたときも、感情とは関係なく歩き続ける。そんなときに私はいま、非日常にいるぞと思い込むようにしている。
 生活の悲喜、将来へのささやかな展望、一抹の不安、思い出に対する懐かしさや感傷、そんな日常に付随する思念をできる限り置いていく。そういう考えがうまくいっているとき、私はもう私じゃなくてもいい気がしてくるから楽だ。
 時間からも区切られて、独立した一個人の存在じゃなくて朝から夜へと一巡する世界のたった一部として。たった一部なのだけれどいなくなれば何かが狂う歯車としてのたしかな存在。そう思えるときに私の心は安全地帯にいる。
 ずっとそばにいてくれた人が突然いなくなって混乱していた時期がある。その人が消えて私の目の前に暗闇が落ちても、世界は変わることなく朝を引き連れてきて光を降り注ぎ続けた。  
 何も変わらないのだという実感が空いた心の穴に真綿のガーゼのような感触で詰め込まれた。生理現象の一つとして体の外側を流れる涙は、心の内側では新鮮な血としてそのガーゼに染み込んでその色を私に認識させた。
 横着して渡ろうとした点滅信号の交差点に、猛スピードで車が左折してくる。その勢いに危ないなぁと足が止まって、それから青の点滅が赤に変わった。
 立ち止まった目の前に横断歩道の白線が伸びている。過去を切り離したはずなのに、やはりそんなことは自分にかけた暗示でしかなくて、子どもの頃の記憶がふと蘇ってくる。
「この白い線は天国、落ちたら地獄やで」
 そんなふうに2歳年上の姉に白線を踏む遊びを教わった。子どもの想像力は逞しくて地獄といわれたら黒い部分には鰐がいて、顎を開けて餌が落ちてくるのを虎視眈々と狙っているかのようにも見えたし、ぶくぶくと沸く灼熱の底なし沼のようにも見えてきて、そんな背すじがヒュッとなるスリルに夢中になっていた。白線だけを踏むことは子どもにおいたってそんなに難しいことじゃない。すぐに私たちはルールを追加して遊ぶようになった。
「1秒以上立ち止まったらあかんで」とか「両足ジャンプして2個先の白を踏まなあかんで」とか、「どっちがカエルっぽく跳べるか勝負な」なんていって競い合ったときにはお互いのカエルっぽいの想像が違いすぎてよく笑い合った。
「それバッタやん」
「あんたにとってのカエルとバッタの違いってなんなん? その手の動き?」
「ちゃうよ。バッタに手なんてないやん」
「いや、ないわけないやろ。こんなふうに動かしてるやん」
 そういって何度も跳ぶ。
「次はイルカな」
「シャチか鯨かイルカか当ててな」
 何度も跳んで、2人とも疲れて夕飯を食べた後はすぐに眠りについた。勝手に遊んで、勝手に寝て、親孝行な子どもたちだったと少し微笑ましくなる。
 信号が変わる。記憶に引きずられたからか自分の歩幅を意識して歩いてみる。一歩一歩、白線とそれ以外の部分に着地していく。天国、天国、地獄、そのどちらともいえない間、天国、地獄、そのどちらともいえない間、地獄。なんて。案外地獄に落ちてるなと思うと笑えてくる。
 空想上のガーゼが存在していた頃に、祖母が「天国はあるんよ」と慰めてくれた。覚えてくれている人がいる限り天国で笑えているんよとも。今日は思い出ばかりが連なってあんまりいつもの暗示が上手くいかない日だなと思う。私は私のままだ。
 昼下がりのどこか時間が間延びしたアーケード街を通って街を南下する。精肉店のショーケースの奥から聞こえる油跳ねの音、揚がる衣の匂いに、そういえばお腹が空いたと感じる都合のよい体に寛容になってコロッケを買う。
 運河沿いまで歩いて整備された木製デッキに腰を落ち着けてからコロッケに齧り付けば口に素朴な甘さが広がっていく。視線の先で母親と手を繋いで歩いている三つ編みの女の子があいた方の手で運河の向こうを指差していた。連られて見れば観光客をまばらに乗せた水上バスが運河を渡ってきていて、流れる水面に動力の軌道を示す線を引きながら海につながる方角に向かってゆっくりと進んでいった。

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