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【短編小説】 彗星

 孤独はどこにも辿り着けないことで、それに付随する寂しさは取り戻しが利かないという後悔だとしたならば、僕らが二人で過ごす時間には一体どんな意味があるのだろうか。コーラの炭酸がグラスの底から積み上がる氷を崩してカランと乾いた音を鳴らす。その音を聞いたときになにも生まれない時間の経過だけが輪郭を残してここに存在しているのだと気づく。同時に麻はいつからか、いつだって僕の前では泣いているという事実からも目を背けれなくなって、泣きたいときにだけ呼び出されるこっちの身にもなれよって思うけれども、それでも断れずに呼び出されてしまうのだから仕方がないよなとも思う。
 国道沿いのファミレスの窓際からは道行く車のヘッドライトがよく見えて、まっすぐに伸びたバイパスの先の信号が変わるたびに止まったり進んだりを繰り返して、その一つ一つの内側ではどんな日常、もしくは非日常が繰り広げられているのだろう。子どもを助手席に乗せて前だけを見つめて泣いているお母さんがいるのかもしれないし、小噺をカーオーディオから流しながら落語の練習に励む大学生がいるのかもしれない。どんな想像も知ったことではないけれど、それぞれにたどり着く場所があるのならそれは幸福なことだよな、と頭の片隅のどこかでぼんやりと考えてぬるくなる過程にあるコーラを一口飲んだ。
 甘ったるい果糖の味が炭酸の刺激に飲み込まれる。気泡が内側で弾けて消えていく感覚に、いつか見た天の川銀河を思い出す。麻のお父さんが運転する車に乗って、山梨だったかな、どこかとの県境にある峠を登って天体観測をした。空の隅々までを占領する星は近すぎたし多すぎて、眼前に広がるその光景は綺麗を通り越して、なんだかテーブルにこぼしてしまった食塩のように見えてきたから居心地が悪かった。それでも夏の大三角形を形成する一等星の輝きは群を抜いていたし、その星々の間を尾を引いて流れる柔らかな流星の軌道はもう遠くなってしまった記憶のなかにおいても鮮烈だ。グラスの底から昇る細かな気泡は塩粒程度の星々として、氷を恒星に見立てて小さな宇宙を模倣しているけれど、そのなかには流石に流星は流れないから正解かどうかもわからない声を発して時間を切り裂くしかない。
 「いつまでも泣いててもしょうがないよ」
 連絡をくれるならばもっと早い時間に呼んでくれたらいい、それが叶わないのならもっと遅い時間に会いにきてくれればいいのに、そんなガキっぽい感傷を含んだ都合は胸の内にだけに留めて、まぁ、とりあえず食べな、なんてギリギリ注文した段階で夜の割増料金が加算されたポテトを摘んで手渡せば、赤く腫れた目で麻はそれを受け取って律儀に食べる。やっと顔を上げたと心なしか嬉しくなって、あらためて麻の少し吊り上がった目が好きだと再確認する。泣いている本人には申し訳ないけど涙で濡れた三角の瞳は混じり気なく世界を映すから、その目にたとえいまこの瞬間だけだとしても僕だけが映りこんでいて、その世界を独占できているのならばそれは誇らしいと密かに思った。
 あのとき余計な一言を言わなければよかった、とか、逆にもっと素直になって謝ることができれば違ったんだとか、いつも理由や置かれた状況は違うけれど、麻の涙の元は言葉に由来していて、言葉を慎重に扱う彼女はそれゆえ人一倍傷つきやすく脆いのだろう。そしてそれはお互い様で、僕らは言葉に囚われ続けたまま大人になって社会に適合したフリをし続けているだけのような気がする。
 「社会人になっても食べるものはそんなに変わらないね」と少し落ち着いた麻がやっと話し始めたから、そうだねと頷いて「大人になるってもっと変わることだと思ってた」と率直な感想を述べた。幼馴染としての僕たちの関係も違う形へと変わっていってもいいんじゃないかという期待は鳴りを潜ませて、
「こうやって泣くときだって、居酒屋でビールとかじゃなくてファミレスでドリンクバーなんだもんな」
「私は飲めるけど、優介はすぐ顔が赤くなって飲めなくなるじゃん」
「それならさ、今度振られたときはドライブに連れ出す。隣で缶ビールでも飲んでな」
「魅力的な誘い文句だけど、もう振られる予定なんてないし、てか、車買うの」
「まとまった額の貯金ができたから、中古だけどスバルの車に目処つけてる」
「そういう堅実なところは見習わなきゃな。私たちなんだかんだもういい大人だもんね」
それにしても、と麻は一つの思い出を蘇らせる。
「連れ出すなんて、原付の二人乗りを思い出すね」
「夏休みに浮かれて横浜まで走ったやつな」
「学校にバレて生徒指導部で一日中怒られたやつ。あのときに見た海は光ってたね」
 夏の容赦のない日差しを反射させてたしかに海は現実離れして光っていたし、その光を浴びながら麻は当時の流行りのヘアスタイルを潮風に揺らしながらよく笑っていた。笑うたびに柔らかな体の感触が背中越しから伝わって、くすぐったくて一人でドキドキして、立ち寄った山下公園から沈み始める夕陽に背中を押された気になって思いがけず告白してしまった。それは暗黙の了解で成り立っている関係に対する裏切りのようなものだった。案の定、そんな失敗に対する返答は「聞かなかったことにする」なんて狡い言葉で、いっそのことボロクソに振られるよりもずっと残酷なものだった。そのときの痛みは隔たりとしての透明な距離になって、僕と彼女をいまでも間引き続けている。ドライブの話を強引に続けた。
「また横浜まで行ってもいいし、麻のお父さんに連れてってもらった峠のこともさっき思い出してたから山梨方面もありだな」
「天体観測した場所だ。なんでまたそんなこと思い出したの」
 炭酸の泡から始まった連想を話した。想像ではどこにでも行けるんだねと彼女は笑って、それじゃあグラスのなかのものを今度は海に見立てようと言った。花火を水面に映す熱海の海、曇天のベーリング海峡、透明なグレートバリアリーフ、修学旅行生でごった返す沖縄の海。グラスの氷が溶けて薄くなった飲み物は世界各地の海に例えられて、そこでどんなことをしようかとまで想像した。ひとしきりエメラルドビーチで遊んだ後に、空想のなかでは時間だって歪むから、海水浴場に隣接する営業を終えた美ら海水族館にビーチサンダルのまま忍び込んだ。もう残業する職員もいない静まり返った真夜中で、それでも生物たちの活動は脈々と続いているから命の気配がそこかしこに渦巻いていて、そんな空間を大きすぎる懐中電灯で照らしながら進んだ。沖縄になんて行ったことがないからどんなふうにでも館内を作り変えることができた。ジンベエザメが眠る巨大水槽を横目に通路を進めば、やがて高く開けた天井水槽に行き着く。空の光を取り込む構造のアーチ状の水槽のなかには月明かりを帯びたミズクラゲやアカクラゲ、ハナガサクラゲが重力から解放された世界で浮遊していて、麻と二人で大の字になって寝転がりながら見上げた。ぼんやりと光るクラゲが悠々と目の前を横切って進み、彗星みたいだねって麻の声が空気を振るわせれば、指先のほんの少し先だけが重なり合った気がした。

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