春ねむりさんのことについて

まあ、これは書かねばならないよな。なんせ当事者なので。

沈黙していたほうが波風立たないのはわかっているけれど、自分のスタンスを表明しておかないのはよくないなと思うのでね。そして僕にとってブログというのはそういうことを文字にして残しておく場所でもあるので。

というわけで、何があったのか、僕がどう思っているのかを、つらつらと書いていきます。


8月28日に、宇野維正さんとのトークイベントをやりました。

「毎回波乱のトークバトル 2022年夏編」というイベント。サブタイトルは「ポップカルチャーから見た社会/社会から見たポップカルチャー」。

LOFT9 Shibuyaで宇野さんとのトークイベントをやるのはこれで3回目。最初にやった2021年夏はオリンピックの開会式の翌日で、あのときの音楽やエンタテインメントを巡るムードは相当シビアなものがあった。2回目は2021年の年末にやったその年の総括で、それはそれで爪痕の残るような話だった。

で、それを経ての今回は、個人的にも、かなり言いたいことが溜まっていたタイミングでもあった。夏フェスの現場で見てきたことについて。マルチバースとしてのサマソニで生まれた軋轢と、SNSで広がったその波紋について。それから、日本のカルチャーの状況にずっとある「帰るのが寂しいからといって、終わったパーティに居続けるのはみっともない」(by ヴィンス・ギリガン)問題について。

あとは、7月の参院選であった音楽業界4団体による特定候補の支持表明について、どんな背景があって、どういう構造があって、その力学がどう働いたのかについても、自分なりに整理して見取り図を示したつもり。そして、そこから当然派生する話として、7月8日の安倍晋三元首相の銃撃事件についても、踏み込んで話しました。それがどういうことをもたらすのかについては、僕は「フタが開いた」という言葉で言い表してます。

他にもいろんなトピックはあるのだけど、全編見ていただいた方からはかなりの割合で好意的な反響をいただいてます。そこは嬉しい限り。

で、そのトークイベントの一番最後、質疑応答のくだりの中で、宇野さんから春ねむりさんへの言及があった。それを見た本人からこんな指摘がありました。

これをきっかけに、春ねむりさんだけじゃなく、そのツイートを見た沢山の人からの反響があった。かなり批判も届いた。

予定時間をかなり超えてたというのもあって、僕は現場では何のコメントもしなかった(というか、そもそも話題自体が別のトピックだったのでね)。その後のSNSでも発信したのはこれだけ。

そのことに対して「卑怯なんじゃない?」的な声もあった。あー、そっか。そう感じる人もいるんだなと思った。なので正直な思いを書いておこう。

「もう、勘弁してよー!」

というのが、当該の宇野さんの言及への率直な僕の感想。だって、これまで何回か取材を重ねて、関係性もあって、個人的にもプッシュしていて、すぐ後にはトークイベントで会うことが決まっている、そういうアーティストとこんな風なややこしい感じになるの、めちゃイヤじゃないですか。


そもそも、春ねむりさんを最初に取材したのはアルバム『LOVETHEISM』をリリースした2020年のこと。記事のリンクは以下。

個人的な興味の発端は2018年のアルバム『春と修羅』の海外での評価を耳にしたり、2019年に出演したヨーロッパの巨大フェス「Primavera Sound 2019」での盛り上がりを映像で目にしたりしたことだったんだけど、インタビューをしてわかったのは、単に海外で人気が出たとかバズったとかじゃなく、批評家のレビューをきっかけに、ちゃんと文脈が伝わって受け止められているということだった。

で、次に取材したのはアルバム『春火燎原』にも収録されている「Déconstruction」がリリースされたときのこと。こちらの記事は以下。

ここで話題にしたのは、曲やライブのことだけじゃなく、春ねむりさんなりのパンク精神について。話を聞いて、すごく得心がいくところがあった。

あとはYahoo!ニュース個人にこんな記事を書いたのもあった。

そういういろいろを経てきているのもあって、宇野さんの言及に対する春ねむりさんの憤りについては正当だと感じてます。ただ、自分が周りからの煽りに応じて何かするのはあんまり誠実じゃないと思うし、どっち側につくだとか、間に入ってどうこうだとかは、全然考えてないです。それでもまあ、少なくとも僕の考えてることは書いておこうと思う。

ブロック云々は僕が口を挟むようなことじゃないので置いておくとして、春ねむりさんが「わたしにとってフェミニズムは、性別に関係なく全ての者に平等に権利があるべきという思想です」と書いていることには同意です。僕はフェミニズムの専門家ではないし知識も足りないのでラディカル・フェミニストの定義や位置づけとかについて踏み込んで自信を持って何か言えるようなことは何もないのだけれど。でもベル・フックスとか読むと「うんうん、たしかにそうだよな」と思ったりする。

というか、これは僕自身の反省なんだけど、現場であいまいに流そうとせずに「春ねむりはラディカル・フェミニストじゃなくてライオット・ガールだと思いますよ」と言えばよかった、それだったらスマートだったなーということは、この件を振り返って一番強く思うことです。それは前述のインタビューでちゃんと本人から聞いていることなので。

ライオット・ガール(RIOT GRRRL)については一応ウィキペディアの説明を。

そういえば、『ミュージック・マガジン』2022年5月号で「ライオット・ガール特集」があって、そこに当然春ねむりが取り上げられてるだろう、というか『春火燎原』のリリースタイミングでもあるわけだからインタビュー載ってるんだろうなと思ったら、インタビューどころか全然言及がなくてビックリしたということもありました。いやいや「2022年に考えるライオット・ガール・ムーヴメント」を語るならザ・リンダ・リンダズもいいけどそれより春ねむりだろう、というのは強く思うところです。今年3月のサウス・バイ・サウスウエストではプッシー・ライオットと共演したりしてるわけだしね。

そんなわけで、この件に関しての僕の表明は以上。


9月13日の春ねむりさんのイベントでは、前回のアメリカツアーの反響について、『春火燎原』について、それからこれからのアメリカツアーについてのトピックになる予定です。気になるかたは是非チェックのほどを。

で、次回のLOFT9 Shibuyaでの宇野さんとのイベントは年末12月29日を予定してます。こちらは近くなったらまた告知しますが、また会場チケットと配信チケットの形になるはずです。テーマは何もまだ決まってないですが、話すべきことを話すイベントになると思うのでよろしくお願いします。


最後に、もうひとつだけ。チケットをちゃんと買って会場に来てくれた方、配信を見てくれた方はわかると思うけど、そもそもの質疑応答のくだりの話題のところで僕が言ってたことって、「ツイッターは怒りの感情を増幅して伝播するアルゴリズムによって人々のアテンションを奪いにくるプラットフォームなので、そのことに注意しようね」ということなんですよ。

もちろん、傷つけられたり、不当な扱いを受けたその人に対して「怒るな」と言うようなつもりは全然ないです。その選択肢はあってしかるべき。でも、他者の発した怒りの感情に安易に「乗っかる」人に対しては、それが行動嗜癖化してないか一回深呼吸して確かめてみたらいいんじゃないかなと思ってる。今回も沢山見かけたよ。揉め事を見かけて駆け寄ってきて、ツバを吐いたり弄ったりするだけして、去っていく人。

これは前々から言っていること。

そういうことを話したあとに、まさにそういう反響の当事者になったのは、皮肉なことだなあと思ったりしています。


※追記(9月12日)

この記事を9月9日に公開して、いくつかの反応を読みました。それで思うこと、考えることがあったので追記しておきます。うーん、伝わってないか、とも思ったけど、これは自分に書き足りないことがあったなとも思うので。

まず「宇野さんの発言やその後の対応について柴はどう思っているのか」みたいなことについて。

このへんのことは、うまく言うのはなかなか難しいんだけど、自分の意思表示をできるだけシンプルな言葉にすると「同意はしていない」ということです。発言は不適切だったと思うし、同調しているつもりもないです。現場であいまいに流しちゃったなというのは反省点。

じゃあ年末にトークイベントやるしその告知もしてるじゃん、ということについてはどうかというと、それは「意見に相違がある」とか「不適切な発言については許容していない」ということと「じゃあ今後は関わらない」ということとはイコールではない、と捉えているから。そこについては0か100かじゃなくて、グラデーションであるべきだと思っているので。今回のことだけじゃなく、ふつうに社会ってそうあるべきでしょ、というスタンスです。

それから「柴はどうなの、何もするつもりないの?」みたいなことについて。

これについては、宇野さんと春ねむりさんとの当人同士の関係においては、上にも書いたとおり「どっち側につくだとか、間に入ってどうこうだとかは、全然考えてない」という感じです。

ただ、もうちょっと大きなフレームで物事を捉えると、やるべきことというか、当事者としてこの件に関わってる立場としての責任みたいなものはあるなと思う。それは何かというと、ひとつは、いわゆる今回みたいな有料配信ありのトークライブという場に携わるときの考え方について。こういう形のメディアはコロナ禍以降まさに成立過程にあって、そういう場では「お金を払ってチケットを購入した人だけが内容を把握できる」&「オーディエンスと書き起こしNGという約束を共有する」という環境設定によって、登壇者がリスクを恐れず踏み込んだ発言をできるというメリットが生まれる。それはまさに僕も享受しているもの。だからイベントのキャッチコピーとして「ここでしか言えない本音」みたいなことが書かれるし、僕にだって、チケットを買ってくれたお客さんを信頼してるから、そういう場だけで言えることも沢山ある。でも、「ここでしか言えない本音」は「インフォーマルな場だからこそ言える危うい、もしくはトキシックな発言」とイコールでは決してない。このへんはすごく大事なところ。そういう倫理観をもってやっていきたい。なんで、僕自身、今後は気を引き締めていかねばなと思ってます。

もうひとつは、これも書き忘れていた大事なことなんだけど、当該の言及の直前のところで「僕はフェミニズムに対してはアライであろうと思っている」と発言しているということ。考えてみればここ数年そういう風になんとなく思ってはいたけれど、それを明確に表明したことはなかったな。言ったことは流れていってしまうので、これもちゃんと文字にしておこう。僕が前にどっかでぽろっと言った自分自身のジェンダーやセクシュアリティにまつわることについては、改めて言ったり書いたりするようなつもりはないけど。まあそれは置いておいて、であるがゆえに、「専門家ではないし知識も足りないので踏み込んで自信を持って何か言えるようなことは何もない」と上で書いているのは「この先も学ぶつもりはありません」ということでは全然ないです。むしろ逆。やべえな、勉強しなきゃなこれ、って思ってます。そうでなくても、特にポップカルチャーと社会について語る上で、いろんな差別や抑圧の構造に無知であるわけでいられないのは当たり前のことなんで。フェミニズムについても自分なりの観点で考えてきたつもりではあるけれど、知識の土台がないと付け焼き刃であるなあというのは強く思った次第。個人的にいくつか課題図書もリストアップしてるんですが、詳しい人いたらそっと教えてくださいな。

なかなかこれも言語化するの難しいんだけど、「勉強する」とか「学ぶ」という言葉には、なんというか「お行儀の良さ」みたいなものを感じてしまう感覚があって。「教養」という言葉についてもそうで。それもあって「勉強します」的なことを自分で言うとのはしゃらくさい的なことも思ってたんだけど、こういうのはいい機会だったのかもなと思ってます。変化しつつある時代の潮流の中で、自分自身はできるだけ先鋭化しないでいたいという思いはありつつ、よい場所を作っていくこととか、自分のスタンスを点検していくことについては、ほんとに勉強必要だなあとつくづく痛感してます。

長くなったけど、これでほんとに以上。

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