「話せない私」が見付けた道
はじめに
「場面緘黙(場面緘黙症・ばめんかんもくしょう)」という言葉をご存知でしょうか。
かいつまんでいえば、発声器官に何も異常が見られないにも関わらず、特定の場面や状況で話す事が出来なくなってしまう症状を指します。
※以下、Google上での質問・回答を引用します。
場面緘黙(ばめんかんもく)とは
特定の社会的場面(学校や職場など)で話すことができなくなる精神疾患の一つです。
選択性緘黙とも呼びます。
生活場面全体にわたって話すことができない場合は、「全緘黙」と呼びますが、場面緘黙の場合は、全ての場所で話せないという訳ではありません。
実は私自身が幼少期に経験し苦しんだものも、おそらくこの「場面緘黙(症)」でした。
幼かった当時の私は、当然ながらこの名称も知らなければ、何故自分がこのようになってしまうのかも全くわからない。
ただただ言葉が出ない、そしてそれが苦しくてたまらなかった鮮明な記憶だけが残っています。
今でこそ認知度も上がり、取り上げられる機会も見られるようになったこの「場面緘黙(症)」。
子どもの頃に発症する事が大多数とされ、今なおその症状に苦しんでおられる方(子)、また或いはその傷病名を知らぬままに、葛藤を抱え過ごしておられる方も居らっしゃるかも知れませんね。
今日はそうした方々へのメッセージの意味も含め、併せて自身の幼少時代の記憶を辿りながら、この「場面緘黙(症)」に触れてみたいと思います。
又、これまで自身の生い立ちや家庭環境に関してはほんの表面部分を綴るのみでしたが、今後は本格的に心の問題をメインテーマとする意向もある為、秘めていた場面、家族の病理にも目を逸らす事なく切り込んで行く予定でもあります。
もしかしたら、読まれる方によっては見苦しいと感じられる表現が時折出て来るであろう事をお伝えしておきます。
「話せない私」に気付く
あれは私が3歳か4歳……忘れもしない保育園の年少組の頃。
家で家族との会話は難なく出来るのに、保育園では言葉が何も出て来ない……。
これが、おそらくは私自身が最初に感じた違和でした。
そしてそれは何週間、何ヵ月と時間を経てなお変わらず、何時しか私は「何も喋らない子」として奇異の目で見られるようになりました。
周りの子達が皆でワイワイと活発に遊び回る中、私はその輪にも入れない。
思えば既にこの時……いや、保育園に入園してすぐ、私は場面緘黙(症)を発症していたのかも知れません。
再び引用文となりますが、場面緘黙(症)の診断基準が以下となるようです。
場面緘黙(選択性緘黙)の診断基準
家などでは話せるが、学校や職場など話す機会が多い場所で、話すことができなくなる。
症状が、学校の成績や仕事、または他人とのコミュニケーションの妨げになっている。
症状が、少なくとも1ヶ月以上続いている。 話せない理由が「話が難しいから・話したくないから」などといった理由ではない。
いじめの対象に
さて。
そんな私ですから、周りの子ども達は自身らと違う私を物珍しがっては「どうして何も喋らないの?」と問い掛けて来ます。
担任はじめ園の保育士らは、私の事をこぞって「おとなしい子」と形容しました。
こんな時でも私は何も答えられませんでした。
そしてその先に待っていたのは、上級生によるいじめでした。
不思議とクラスメイトから激しくいじめられるような事は無かったのですが、ひとつ上とふたつ上の上級生それぞれ一人ずつ(いずれも女子)から、言葉の暴力と身体的暴力を同時に、そして永続的に受ける事になったのです。
私が言葉を発しない事に対する罵詈雑言。
身体を叩かれたり蹴られたり。
特に、ひとつ上の女子Mには腕に噛み付かれ、血が滲み出るまで離して貰えないという、今考えれば子ども同士の喧嘩ではとても片付けられないような事を何度もされました。
理由は様々考えられますが、先ず私が周りとは明らかに違う、言わば変わった子どもだった事。
子どもの心理として、周りと違っている=良くも悪くも好奇心の湧く対象だったのでしょう。
そして、どんなにいじめても泣かない、表情ひとつ変えない(手応えの感じられない)私を見て、何としてでも泣かせてやろうと思ったのかも知れません。
また言葉を発しない分、先生(保育士)に告げ口もしないと見越したのでしょう。
しかし私の腕に残った噛み痕に気付いてか、当時の担任が、ある時私に誰にやられたのかと問いただして来ました。
私はそれに応答したかどうか記憶も定かでないのですが、担任が「これを使っていじめっ子を(挟んで)やっつけちゃいなさい」と、厚紙を使った手製の大きな鋏のような物(工作)を差し出して来た時にはもう、言葉(そもそも言葉を発する事もありませんでしたが)も出ませんでした。
心の中で「そんな事でやり反せるくらいの力があるなら、今頃私はこんな子どもになんかなっていないよ」と、担任に失望を抱いた瞬間でもありました。
登園拒否
そんな居場所の無い、ただいじめ(暴力)を受ける為だけに通う保育園に、何の楽しみを見出だせというのでしょう。
私が登園拒否に至るまで、そう時間は掛かりませんでした。
保育園に行きたくないと泣き叫び、暴れる私。
そんな私を抱え込み、登園バスに無理矢理乗せようとする家族。
それでも手こずると、バスから降りて来た(バスに同乗していた)保育士も加勢する形で羽交い締めにされ、泣き叫びながら最も行きたくない場所へと連行される私。
時に便秘で苦しんでもいた私。
お腹が痛いと訴えてもお構い無し。
悪意は無かったのかも知れませんが、両親も祖父母も、私の登園拒否を単なる我が儘と捉えていたようでした。
そんな地獄のような毎日を、まだ幼かった私は一体どのようにやり過ごしていたのだろうか……。
今でもふと疑問に思う事があります。
理由も原因もわからぬままに
自分の心に何が起こっているのか、何故自分はこんなふうなのか……。
何が何だかわからないが、とにかく苦しくてたまらない。
理由も原因もわからぬまま、ずっとずっとそんな思いを頭の中で巡らせている3(4)歳児。
それが私でした。
再び引用ですが、場面緘黙(症)になる理由、また性格によるものか否かに関しての記述があったので付記します。
場面緘黙になる理由は何ですか?
場面緘黙は、コミュニケーションスキルや言葉の発達には問題がないのに、特定の環境でのみ会話が困難になってしまう障がいです。
詳しい原因は分かっていませんが、不安や緊張、恐怖などが主な原因とされています。
場面緘黙は性格によるもの?
場面緘黙症は性格によるものと誤解されやすい
場面緘黙症は、周りから性格によるものと誤解されやすいですが、そうではありません。
決して人見知りや恥ずかしがりではなく、また親のしつけによるものでもありません。
自分から話す場面を人に聞かれたり、見られたりすることに対して強い恐怖を抱いてしまいます。
……上記によると、不安、緊張、恐怖などの負の感情が引き金となって発症すると解釈出来そうですが、そうなると、その根底には大なり小なり発症しうる環境が絡んでいるとも読み取れます。
発症のきっかけとは
当時の私の世界といえば、保育園に通う前までは自身の家庭(父方)と母方の祖父母宅が全てでした。
そのいずれか、或いは双方に原因となる何かがあったとすれば……。
以前、私の幼少時代の家族構成に触れた事がありましたが、農業を営む祖父母と会社勤めの両親、父の実弟である叔父という、いわゆる3世代同居の兼業農家です。
私がちょうど保育園に入園してすぐ亡くなった曾祖父も含めれば、それまでの約3年半は4世代同居の時代でした。
表向き、当時としては農村地帯の一般的な家庭だったといえそうですが……。
不安、恐怖、忘れられぬ記憶
振り返ってみれば、少なくとも我が家は「家族仲の良い穏やかな家庭環境」ではありませんでした。
先ず、私の幼少時代の父が酒乱でどうしようもない人でした。
私自身にハッキリとした記憶は無いのですが、私が生まれたばかりの頃は、休日になると(当時まだ独身で同居していた)叔父(母から見たら義弟・小舅)と一緒になって競馬にパチンコにと明け暮れ、それはそれはギャンブル浸け、酒浸りの日々だったと、かつて母本人から聞いています。
飲み過ぎては自宅で暴れ、気に入らない事があれば暴言を吐いて母に手を上げるという、今ならば充分に大きなDV問題として扱われるであろう行いを、当時の我が父は日常的にしていたというのです。
そんな家庭を省みない道楽三昧、暴言・暴力夫(父)に失望した母は、事あるごとに私を連れては実家に帰っていたと言います。
父の暴言・暴力に耐えかね、保育園に登園中の私を母が迎えに来て、母娘共々そのまま逃走。
友人や親戚の家を転々としていた時期もありました。
また事実、私はなかなか泣き止まない子で、よく癇癪を起こしていたとも聞いています。
だいぶ後になって母方の祖母から聞いた話ですが、母は父に頭を殴られ続けた事で一時ショック状態となり、何の脈絡も無く突然ニヤリと笑ったり、受け答えの言動がおかしかったりという時期もあったようです。
そのような訳で父の素行不良、暴力は母方の祖父母の激しい怒りをも買う形となり、事が起これば母方の祖父母がすぐさま飛んで来るといった有り様で、これによって父方母方双方の親戚関係までもが悪化の一途を辿る事となります。
そして。
私自身が実際に目撃してしまった、父への恐怖心を植え付けられる事となった決定的な場面があります。
季節は確か夏。
日付けも切り替わった頃の深夜の事でした。
突然の父の大きな怒鳴り声と、それに加え母の泣き叫ぶ声で私は目を覚ましました。
おばあちゃん子でいつも祖母と一緒に寝ていた私は、あまりの事態に驚いてその寝室を飛び出し、思わず怒号飛び交う茶の間の戸をガラリと開けました。
すると……。
酒を飲んでおかしくなった父が、物凄い勢いで母に罵声を浴びせている様子が目に飛び込んで来ました。
直接的に目撃した訳ではありませんが、既に母に手を上げた後と思しき様子が見て取れました。
何故なら母は、それに抗うかのように、父に向かって食器を投げながら大声で泣き叫んでいたのです。
それから私はどのようにしてその場に立っていたのか、またどのようにしてその場を離れ、そして再び眠ったのか……この辺りの記憶が全く残っていません。
もしかしたら、これ以上心に深い傷を負わぬようにと、祖母がその場から引き放してくれたのかも知れません。
そして更に、私はそれ以前に実はもっと凄惨な場面を幾度となく目撃しており、あまりのショックに自らそれを封印してしまったのだろうか……と、後になって考えたものでした。
とにもかくにも、幼かった私にとって戦慄を覚えるこの場面は今なお脳裏に焼き付き、忘れたくても忘れられない記憶となっています。
狭い世界の中で
父方の親族しかり近隣住民しかり、当時の周りの大人達の大半は「妻は夫に従うもの」、「何処の家庭も同じようなもの」と言い放ち、夫が妻に手を上げるのもまた、ごく当たり前の事としてまかり通っていたように思います。
今考えれば、幼少時代の我が家は男尊女卑も甚だしい村社会の縮図でしかなく、自身が大人になり生家を離れてみて、如何にそれが閉鎖的排他的な環境であったかと初めて思い知らされる事となるのですが。
ちなみに、祖母(父の母)にもまた舅(私から見た曾祖父)になじられ続けて来た過去があり、夫である祖父は護ってもくれないばかりか仕事もろくにしない人だったようで、自身のそうした苦労からも長男の嫁・義子に当たる母には温かく接し、とても心根の優しい人で喧嘩ひとつした事が無かったと後に母自身が語っています。
祖母は、自身の置かれた立場や控えめなその性格からも自らが盾になり力強く義子や孫を護るというタイプではありませんでしたが、その静かな愛は母に伝わり、今なお私の中にも息づいています。
おそらく祖母が居なければ、母も私も完全に精神が崩壊していたかも知れません。
こうして保育園入園前の出来事や自らの実体験を振り返ってみると、幼少時代の私の周りには、常に人のマイナス感情が渦巻いていたように思います。
そのような中でも大好きだった2人の祖母との優しい時間はあり、辛く悲しい記憶ばかりではありませんが、[怒]であったり[憎]であったり[悲]であったり[苦]であったり……子ども心に肉親や周囲の大人のそうした感情や思念を、私は知らず知らずのうちにキャッチしていたのかも知れません。
全てを結び付ける訳ではありませんが、もしこうした背景が場面緘黙(症)の発症要因のひとつとなっていたならば合点が行くというものです。
夜の家庭訪問
口を閉ざし心を閉ざしたまま「変わった子ども」のレッテルを張られた私。
年中組か年長組のどちらの頃だったかは忘れましたが、ある晩、担任と他に2人、計3人の保育士が我が家を訪ねて来た事がありました。
担任のみならず複数人で、しかも夜に。
これも今考えれば特異な場面だったなと思うのですが、私があまりにも周りの子ども達と違い過ぎる為、家庭環境がどのような状況にあるのかを把握しつつ、今後どのように対処して行ったら良いのかを話し合っているであろう事は、幼い私にも手に取るように伝わって来ました。
そこで再び引用です。
場面緘黙は障害ですか?
この場面緘黙は、発達障害者支援法の対象となっている発達障害の一つと定められています。
緘黙は子どもだけではなく、大人になってからも症状が続く場合が多く、日常生活や社会生活においてトラブルを引き起こす可能性もあります。
場面緘黙症のやってはいけないことは何ですか?
では、場面緘黙の子に対してはどのような配慮が必要なのでしょうか?
まず、一番やってはいけないのが、話すことを強制することです。
親も教師も、「このままではいけない」「だんだん話せるようにしてやらなければ」という気持ちから、ついこれをしてしまいます。
聞き耳を立てていた訳ではありませんが、保育士らと両親が話していたのは、おおよそ上記のような内容に近いものだったのではないかと思います。
保育士らしかり両親しかり、おそらくはそれまで自身らが直面した事の無かった場面緘黙(症)が、一体何たるものかその実態を掴みかねており、ただただ私に手をこまねいていたようにも取れます。
それを如実に表すかのような、保育士らからの「おとなしい」の言葉。
父の「(場所が変わると)借りて来た猫のようにおとなしくなって」「臆病者」の言葉。
それらの言葉を耳にする度、確かに私は「話す」事を強制されているように感じていましたし、更に自分が駄目な人間だと烙印を押されたような気持ちになっていたものでした。
訪れた転機
そんな自分を誰にも理解されないまま時は過ぎ、保育園ももうすぐ卒園という冬の終わりの頃。
私に転機が訪れました。
絵を書いたり物語を作ったりする事が好きだった私。
「話せない私」ではあったけれど、集団生活に馴染めない分、ひとり遊びは得意分野ともなっていました。
そんな私が保育園で何気なく描いていた、当時から大好きだったサンリオのキャラクター・ハローキティのイラストを目にした担任が、突然私に言ったのです。
「詩絵璃ちゃんは、とっても絵が上手だねぇ~」
さぁ、そこから私の快進撃が始まりました。
この担任のたった一言が、私の中の「何か」を解き放ち突き動かし、この後私はまるで卒園製作でもするかのように、ハローキティのイラストを用いた物語を一気に書き上げたのです。
どのような内容だったか細かいところまでは覚えていませんが、この主役となるハローキティの日常を表現した創作物語は、紙芝居としてクラスで発表されるまでになりました。
これには私自身が一番驚きましたが、幼い私がようやく誰かに認められたと実感出来た、言わば初めての成功体験だったと思います。
この事をきっかけに私は担任に心を許し、それまで滞っていた水が一気に流れるかの如く「話す」ようになって行きました。
私のその劇的な変化に、担任も「詩絵璃ちゃんが喋るようになった」と驚き、そして喜んでくれていた事をよく覚えています。
20年後、私は思わぬ場面でこの担任と再会する事になるのですが、一瞬にして当時の想い出が蘇り目頭が熱くなったものです。
克服か否か
小学校に入ってからも口数の少ない子どもではありましたが、 それでも必要最低限の意思伝達は出来るようになった私。
仲の良い友達も出来、それなりに穏やかで楽しい毎日が始まりました。
家庭環境はというと、あれほどまでに荒れていたのが嘘のように沈静化。
父は以前のように酒を飲んで暴言を吐く事も無くなり、一見健全な家庭を取り戻したかのように見えました。
特に大きな問題も起こる事なく、ごく普通の日常が続いていました。
私もまた、このままずっとそんな日々を過ごして行くのだろうと思っていました。
なおも自分の中で場面緘黙(症)が完全に克服出来たという認識はありませんでしたが、少なくともこれまでの「囚われる」ような感覚は既に消え去っていたので、事実「克服」出来たという事なのでしょう。
自分を受け入れてくれる友達や教師と出会い、結び付く事で、少しずつ少しずつ、私は自信というものを身に付けて行った気がします。
時を経て思う事
あれから月日が流れ、その長い歴史の中で、私と同じように場面緘黙(症)によって苦しまれた方々と実際にお会いしたり、幾つかの体験談も耳にしました。
今こうして独立し(家庭を持ち)、限りなく自分の理想に近い働き方生き方を築き伸びやかに生活を営んでいる私ですが、この、かつて私自身が苦しんだ場面緘黙(症)に触れると、当時を知らない友人らには驚かれる事もしばしばです。
確かに今の私自身、人と接する事が大好きで、友達と会って話す事が一番の喜び楽しみでもあるだけに、特に独立後に出会った方々にとってはにわかに信じがたい話なのかも知れません。
勿論、ここに至るまでには様々な経過があり、一夜にして今のような私となった訳ではありません。
正直なところ、場面緘黙(症)を克服し何不自由なく発言出来ているように見える今でも、不安、緊張、恐怖という要素から派生し形成されたであろうパーソナリティー、自分自身の本質的な部分は、そっくりそのまま残っていると思います。
だから、改めて思うのです。
どれだけ周りが誤解しようともレッテルを貼ろうとも、自分は自分。
誰かの為に、自分以上の自分になる必要は何処にも無いのです。
そして、自分の中にあるものを盗む事は誰にも出来ない。
例えば誰かが自分に理不尽な攻撃を仕掛けて来たとしても、自分自身が自分を攻める(責める)事をしなければ良いのです。
ありのままの自分を受け入れる事は、時に辛い作業でもあるかも知れません。
私もまた、自分の中の嫌な部分を認め、不甲斐なさを受け入れるまでには結構な時間を要しました。
ただ、自分の心に去来する思いを曇りなく受け止める癖を付ける事で、たとえ今は嫌いな自分でも、やがては愛せるようになって行くのではないかと思っています。
場面緘黙(症)に苦しむ方へ
もしかしたらご自身が、或いはご自身のお子さんが場面緘黙(症)ではないか、またそれは治るのかとお考えの方。
私自身、医療機関で診断された訳でも、またこの症状で薬物治療を経験した事も無いので専門的な知識は全くありませんが、自身の経験上、必ず克服の道はあるし、かといって無理に克服を試みる必要も無いと考えます。
シンプルに、自然の流れに任せて無理をしないこと。
これは私見ですが、場面緘黙(症)を発症する方(子)の多くは、高い感受性の持ち主である気がします。
そうした方々(子)は、周りの人達が見過ごしてしまいそうな微妙な言葉、ニュアンス、人の顔の表情などからも敏感にその深意を読み取る能力に長けており、またそれによって不安や恐怖も人一倍強く感じ取るが故、知らず知らずのうちに心に傷を受けてしまうのかも知れません。
同時に、高い感受性は立派な個性であり長所です。
誰よりも人の痛みの解る、ひいては対人関係において最も花開く土台を備えた素晴らしいパーソナリティーであるとも思います。
そうした事柄にひとつひとつ目を向け、気付きが増える事で、いつの間にが苦しみから脱していたという流れが一番自然な気がするのです。
おわりに
今回は私自身が苦しんだ場面緘黙(場面緘黙症)を取り上げ、どのようにして克服(昇華)したのかまでを体験記として綴りました。
……とはいえ私の主観ばかりが並び、同じように苦しんでおられる方の一助になるどころか、もしも見当違いな言葉を発していたとしたら大変に申し訳ありません。
文字にする事で私自身のセルフカウンセリングを試みているようなところもあり、独りよがりな文章となってはいまいかと振り返る思いでもあります。
今回もまた、まとまりの無い拙文をお読みいただき誠にありがとうございます。
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