#314 隠れキリシタンと潜伏キリシタンはどう違う?
2018年に世界文化遺産に登録された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。
島原・天草一揆の舞台となった「原城跡」や、キリシタンが潜伏していた各地の集落跡、幕末の開港をきっかけとして建設された「大浦天主堂」など、12の構成遺産がある。
構成遺産が集落ごとになっているのは、キリスト教の信仰を隠すためにさまざまな集落ごとの工夫や努力があったからだ。神道や仏教にカモフラージュするなど、集落跡からは当時の人々の独特な信仰のようすを知ることができる。
また、原城跡はキリスト教の信仰が禁止されたことの象徴、大浦天主堂は信仰が解禁されたことの象徴となっている。
ところで、江戸時代にキリスト教の信仰が禁止される中でも信仰を続けたキリスト教徒をあらわす言葉として、「隠れキリシタン」という言葉もある。
「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」はどう違うのだろうか。
つまり、江戸時代が終わっても隠れたまま信仰を続けていたのが「隠れキリシタン」、隠れるのをやめてカトリック教徒として信仰を続けたのが「潜伏キリシタン」だ。
江戸時代は、どちらも隠れて信仰をしていたという意味では同じだし、どちらもキリスト教と仏教、神道や民俗宗教などが入り混じり、純粋なキリスト教と呼べるものではなかったようだ。
そういう意味では、江戸時代の間は潜伏キリシタンと隠れキリシタンには明確な差はあまりないと言えるだろう。
しかし、明治時代以降、カトリックに復帰したか、独自の信仰を続けたかによって、信仰する宗教の内容は大きく異なってしまう。ゆえに呼称も異なるのである。
潜伏キリシタンだった人々はカトリック教徒になっているため、潜伏キリシタンは現在は存在しない。
しかし、「隠れキリシタン」の信仰は現在でも受け継がれている。
長崎の黒崎地区には、現在でも40人ほどの隠れキリシタンが暮らしているという。
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