教員になってから10年以上経ったけど、いっこうに(国語(科))教育関係の本が読めるようにならない。

最近の本の引用から始める。

第2に,「対話(dialogue)」が基調にあります。対話の源流は、ソクラテスの問答法が記されたプラトンの『対話篇』にみられますが、後に、哲学者リチャード・ポールは,「対話的プロセス」と読み替え、自分の考えと他者の考えの交流は元より、自分の考えと本の考え、自分の考えとこれまでの経験、ある分野の考えと別の分野の考えの交流も含めています。この多様な多元的交流は, 『学習指導要領解説総則編』にみる「主体的・対話的で深い学び」の「対話的な学び」と重なります。

酒井雅子『国語科授業で実現する「探究」ーー深い問い・対話・批判的思考・創造的思考』明治図書、2023年、3頁

しばらく国語(科)教育関係の本を読むのがしんどくて、読むのを避けていた。ぜんぜん理解できないというか、書いてある日本語がわからなすぎていちいち理解するために立ち止まる必要があり、たいへんつらみがあるからだ。これは教職に就いた頃から変わらない。

もちろん、教職に就いたばかりの頃は、理解できないのは完全に自分のせいだと本気で思っていた。私は国語科教育学を専門的に学んだわけでないし、ましてや日本文学や日本語学についても専門外なので、わからないのは自分の知識が足りないからだと考えるのは当然だ。

しかしそれから10年以上が経った今でも、やっぱりよくわからない。書いてあることが理解できないのはほんとうにつらいので、ここ数年は特に国語科教育学に関する本を読むのを避けてきたのである。そして、教育関係の本も同じような感じなので、教育関係の本も避けるようになっている。昔の本ばかり読んでた。

今年はいろいろ考えがあり、やはり具体的な実践記録について、あるいは具体的な授業案について、批判的に考えていくべきかなあと思っている。昨年の11月ごろからそう考え、ちびちび最近出た国語科に関する本を読むようにしている。

でもやっぱり読めないのだ。(しつこい。)

例えば最初に引用した文章。二文目がわけわからん。「後に、哲学者リチャード・ポールは,「対話的プロセス」と読み替え」と書いてあるけど、いったい何をそう「読み替え」たのかわからん。プラトンの『対話篇』をだろうか。ってか、プラトンの著作のなかに、『対話篇』なんて本があるんかいな。なんで『』を使うのか。わけわからん。

いや、ポールによって「読み替え」られたのは「対話」なんじゃないか。しかし「対話」を「「対話的プロセス」に読み替え」るとか意味不明じゃないか。いや、「ソクラテスの問答法」のほうか。しかし「ソクラテスの問答法」を「ある分野の考えと別の分野の考えの交流も含め」て「読み替え」るとはどういうことなのか。いったいポールは何を「読み替え」たんだい!?

「自分の考えと他者の考えの交流は元より」もよくわからん。「考え」と「考え」が「交流」するってなんやねん。いま「対話」の話をしてるなら、「元より」とか言うなら、「対話」の一般的な認識を書くべきだと思う。「他者との会話や議論、話し合いのようなそれぞれの考えを口頭でやりとりすることは元より」とか書くべきなんじゃないの。まあ別に書かれたことを読み交わすのも「対話」って言いたいんだろうけど、だったらそう書いたほうがいいんじゃないか。

「自分の考えと本の考え、自分の考えとこれまでの経験、ある分野の考えと別の分野の考えの交流も含めています。」もわからん。「本の考え」は「他者の考え」じゃないの。なんで「他者」は狭く、「対話」は広くとるの? 「考え」と「経験」を「交流」させるってなんやねん。「考え」が「経験」と「交流」してたこととか私にはないからわからん。「経験」を踏まえて「考え」を吟味したりはするかも。でもそれは「考え」と「経験」が「交流」してんのか?

次の文もわからん。「多様な多元的交流」ってなに? 「多元的」ってなんよ。それが「多様」ってどういう状態よ。それがなんでどう『学習指導要領解説総則編』の記述と関わるのか。

いちおう確認してみよう。本書全体の内容からして、これは小学校の『学習指導要領解説総則編』だと思われるので、検索して読む。「対話的な学び」という語が出てくるのは4箇所である(4頁に1箇所と76頁に1箇所、77頁に2箇所)。そのうち、「対話的な学び」について説明されているのは、77頁の「子供同士の協働,教職員や地域の人との対話,先哲の考え方を手掛かりに考えること等を通じ,自己の考えを広げ深める「対話的な学び」」という記述である。これとどう「多様な多元的交流」が重なるのか。「等」の中身か。でもそんなん言い始めたらなんでもありじゃん。

もう、3頁目でこんな感じなのだから、このあともずっとしんどい。中盤で、「書き手の探究を追う(説明文)」という章があり、そのなかで、「表現の明瞭性・小さな論証の合理性を評価」(68頁)とか書いてあるんだけど、自分の本の「表現の明瞭性・小さな論証の合理性」をちゃんとしたほうがいいんじゃないかとか思う。批判的思考について書いた本が、自分の本に対する(あるいはポールさんとかのような「先哲」に対する)批判を持たないのは、本の説得力をどの程度減じちゃうんだろうかと思ってしまう。

たまたま最近の本を例に挙げたけど、こんなのは教育学関係の本を読んでるとめちゃくちゃよくある。もちろんそうじゃない本もあって、そういう本に当たるとめちゃくちゃ嬉しい(でもそれって不健全じゃないですか?)。

他の例も挙げてもいい。例えば『教育動向2024』もおんなじようなもんだ。書き手によるけど、たいへんえらい大学のたいへんえらい先生が書いてても、文が意味不明だったりする。

こんなんだから、若手は本を読まないんじゃないのか。素直に読んでも(忖度しないと)わからないのだから。誰に向けて書いているのか、とか思う。

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