大山道 矢倉沢往還1 赤坂御門→鷺沼
大山道を歩こうと調べていると、東海道の脇往還と同じルートで、矢倉沢往還と呼ばれ沼津宿まで続いていた事が発覚。山岳信仰よりも街道信仰が厚い私は、大山よりも沼津を目指したくなってきました。どちらを目指すか、夫婦で歩きながら終点を考えることにします。
2023.10.07
1.スタート地点まで
只今の時刻04:37。
いつの間にか日が短くなりました、空の色がまだ夜の色です。
自販機にホットドリンクが陳列されてきました、秋ですね〜。
しかしいつも思うのですが、上の画像の自販機を見ると、42種類の冷たい飲み物と熱い飲み物を同時に提供し、電子マネー・紙幣・貨幣に対応するだけでも凄いのですが、それを管理するヒューマンパワーのオペレーションネットワークも凄い!世界に誇れる日本のハードとソフトの技術の結晶だと思います。
東京駅丸の内口駅舎。
私が一番好きな日本の建造物です。正式名称を調べたところ、"東京駅丸の内本屋"でした。
大手町駅までは、日本のウォール街の構造ビルを見ながら向かいます。30階超・高さ100m以上の超高層ビルが狭いエリアに立ち並ぶと、なかなかの迫力です。
スタート地点の永田町まで地下鉄で移動し、本日は半蔵門線と東急田園都市線沿線を歩きます。
2.赤坂御門
上の立体交差の画像のアングル。
私が子どもの頃、同じ位置のもう少し高い場所から撮影された風景が、東京の絵葉書や写真集に使われていました。
確かボート乗り場だったはずが、釣り堀になっていました。びっくりです。
豊川稲荷東京別院。
別院でもかなり立派です。
東海道の脇往還、浜名湖の北側の姫街道の途中に立ち寄った時の豊川稲荷、なかなかの規模でした↓
詳しくはこちらをどうぞ↓
こんな大きな武家屋敷の長屋門、見た事がありません。幅21.8mで驚いていたら、説明看板に往時は120mもあったと記されてます。想像が出来ない大きさですね…
上の画像の地図、上半分が赤坂御用地。
とてつもない広さです。
広さは皇居の約半分、天皇が暮らす赤坂御所、秋篠宮邸、三笠宮邸や高円宮邸など宮家の住居があります。
豊川稲荷の付近から始まった赤坂御用地の杜、国道246号沿いに八丁(一丁=約109m)位続きます。
この付近にある神宮野球場・秩父宮ラグビー場と伊藤忠商事の本社が入る高層ビルなどを建変える大規模再開発、"神宮外苑まちづくりプロジェクト"が、環境問題でニュースになってました。
2つ上の画像の並木近くに野球場が建つ影響などで、明治神宮の聖なる樹木に影響が与えられると、市民団体と村上春樹さんや故坂本龍一さんなどが反対をしているそうです。ニュースは一方的な面もあるので、双方の考えを聴かないと、問題の本質がよくわかりません。
大規模開発といえば、下の画像は東海道を日本橋に向けて歩いていた日の、最後の宿場町品川宿を過ぎた先の風景。
リニアモータカーの駅完成に備え、品川駅周辺に、橋上の人口地盤を作るという超大規模開発。
普通は地上を走る鉄道を高架化するのですが、その逆で高架を走る鉄道を地上に下ろすという前代未聞の工事。
その一環で腰を抜かしそうになるくらい驚いたのは、品川駅高輪口前の高山稲荷神社の入口にロープが貼られており、"移転します"の張り紙が、商店が移転するかの如く無造作に吊るされてました。
今回の都市開発の影響と思われ、次の移転先の近くの神社は記されてましたが、その後元の位置に復元される旨の説明はありませんでした。
このアッサリ感は、管理する人がいないのかもしれません。"20XX年社寺後継問題"が、今後発生してもおかしく無いと感じました。
その後も道中で、笹川財団ビルや三菱自動車ビルの解体工事現場が相次ぎ、ゴールの日本橋直前の歩道に咲く綺麗なチューリップの奥のビル解体後の工事現場外壁に、SDGsの説明が描かれています。
様々な事情があるとは思いますが、SDGsが茶番に見えてきました。日本は人口減少先進国、将来を見据えて次に創る建物は、欧州の古い都市みたいに大切に永く使える建物にして欲しいです。
伊藤忠商事の本社ビルから脱線しましたが、中山道近江國にある間の宿 石畑宿(滋賀県犬神郡豊郷町)に、伊藤忠商事・丸紅商事の創始者の伊藤忠兵衛記念館がありました。
今日は脱線が多過ぎますね…
そろそろ大山街道に戻ります。
印傳屋上原勇七。
"印傳"と書いて"いんでん"と読みます。1582年に甲府で創業し、長きに渡り愛され続けている鹿革製品。甲州道中甲府宿に本店があり、歩いた時に財布を購入し、今も愛用しています。
20年位前に、上原勇七さんと旅の仕事で3日間ほどご一緒した事がありました。
穏やかながらも全身からオーラが出ており、アイボリーのジャケットを見事に着こなしていた姿は今でも強く印象に残ってます。
青山学院大学、原監督と駅伝チームのイメージが強くなってますね。
旧こどもの城。
閉鎖されており、建物を壊してしまうのでしょうか。私が子どもの頃は、上の画像の建物の一代前で、確か児童館と呼ばれており、とても楽しかった印象が強く心に残っていたので、子どもたちが小さい頃、わざわざここまで連れてきた事がありました。
この後はどうなるのでしょうね、子どもたちが楽しめる施設に生まれ変わる事を祈ります。
3.渋谷
渋谷駅前の高層ビル郡。
今から40年位前の中学生の頃、高層ビルが大好きで、東京の高層ビルは全て記憶していました。
当時東京の高層ビルと言えば、新宿西口の副都心地区ビル群、池袋サンシャインシティ、浜松町貿易センター、丸の内東京海上、渋谷東邦生命(上の画像左側黒に白い縦縞のビル)と、10~15棟位。
現在、東京都内の超高層ビルと呼ばれる100m超の建物は、600棟以上もあるそうです。40年で40倍ですね。
新宿駅や渋谷駅はいつも工事している印象があります。スペインのサグラダファミリアみたいですね。
旧東急東横線渋谷駅跡地に建った、渋谷ストリーム という高層ビル、Google本社がホテルと商業施設以外のオフィスフロア14~35階を一棟借りしてます。
只今の時刻07:34。
こんなに人が少ないスクランブル交差点は、見た事がありません。
朝の渋谷の街を初めて歩きましたが、ゴミの多さに唖然としました。缶瓶ワインボトルに加えビールジョッキまで、ハロウィンに来ないでくれと区長が訴える気持ちがよくわかります。
掃除をされている方々、お疲れ様です。
いいなぁ神輿、今年は喪中で担げず…
今回の旅は東急電鉄文化圏を歩きます。
渋谷区・世田谷区は普段歩く事が無いのでとても楽しみ。
ステッカーと落書き。
落書きはグラフティとも呼ばれます。
どちらも深い意味がわかりませんが、昔暴走族が、"◯◯参上"とか"夜露死苦"などと書いていたのが、進化したのかもしれません。文字だけの落書きは、グラフティとは呼べませんね…
渋谷という地名の由来が歩いているとよくわかります。
宮益坂を降りると渋谷駅があり、スクランブル交差点を過ぎて谷底が終わると道玄坂の昇りが始まります。
昇り切りしばらく歩くと、大坂上というバス停留所があり、また谷に入っていく事が予測できます。この後の三軒茶谷と谷かと思ったら、谷ではなく三軒茶屋でした。
こんなスペースでもビジネスできるのですね。
日本地図センター。
かなり面白そう、空いていたら入ってみたいです。
ファットバイク。
極太の車輪の自転車、渋谷に入ったらよく目にするようになってきました。調べると20万円くらいします。
4.三軒茶屋
慌ただしい国道から旧道入ると、景色が一瞬にして穏やかな雰囲気に。この瞬間が好きです。
渋谷の街で、あちこちにステッカーが貼られてました。何と、大山街道のステッカーが電柱に貼られてます!
これも渋谷のステッカー文化なのか?
落書きは良くない事ですが、どうせやるなら、もっと愛情込めて丁寧にやって欲しいと思います。
世田谷区に入りましたが、落書き文化は続いてます。
三軒茶屋。
茶屋があっただけあり、賑やかですね!
大山道は左右に分かれてます。どちらに行くかはその場の直感で決めようと夫婦で決めていて、迷わず高速道路がない右を選択。
環状七号線を通過しました。
この道を抜けると都会から少し抜け出せます。
5.松蔭神社
吉田松陰所縁の松蔭神社があります。
大山道から少し外れますが、松蔭神社通りの雰囲気に吸い寄せられました。
落ち着いた雰囲気の商店街を抜けると、突然松蔭神社が現れます。
松蔭神社。
落ち着いた雰囲気が漂う参道。前を歩くお母さんと5歳くらいの男の子、なかなか前に行こうとしません。お母さんが子どもに「大丈夫、今日は泣き相撲やってないから」と言い聞かせてました。
ほっこりしますね。
先月西国街道を歩いていた際、山口県に近づくと、吉田松陰の辿った痕跡が随所に残っており、偉大さを改めて感じる事が出来ました。
松蔭神社の寄り道を終えて、再び街道に戻ります。
立派な代官屋敷、維持するだけでも大変そうです。よく今まで大切に保存してきたなぁと感心しました。
ボロ市の起源は400年以上も前の戦国時代に遡り、現代でも12/15.16と1/15.16にこの付近で開催され、1日に約20万人もの人出で賑わっているそうです。
大山詣の銅像。
この公園で遊んでいる子どもたちは、この存在をどう感じているのか、インタビューしてみたいです。
東京23区の端を走る環状八号を超え、あと少しで多摩川を超えて神奈川県に入ります。
6.多摩川
今立っている付近が"国分寺崖線"と呼ばれる、多摩川の水が武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘の上。
樹庭と呼ばれる昔から残る樹々が、今も残されています。
河岸段丘を降った先が、二子玉川。
江戸時代は多摩川を渡る二子の渡しがあり茶屋などで賑わい、明治に入り多摩川の砂利を都心に運ぶ為に玉川電気鉄道が開通し、旅客輸送の需要も高まり、現在は田園都市線に生まれ変わり、更に賑わいが増していきます。
50年以上前に郊外型ショッピングセンターの先駆けとなる仕掛けで高島屋を誘致、その後も時代の先を読んだ開発がなされて、今や大人気のエリアとなっています。
堤防跡の様な遺構が残っています。廃線跡にも見えますが、砧線という廃線跡は駅の反対側なので、堤防跡と思われます。
東京都に別れを告げ、多摩川を渡ります。
7.二子・溝口
二子橋。
都道府県境の橋、今まで100回位は渡ってきたと思いますが、こんなに人が歩いている橋は見た事がありません。駅前のペデストリアンデッキみたいに、人が行き交ってます。
江戸時代にタイムスリップした様でした。
マンションの外壁に二子の渡しのオブジェが設置されていたり、どうやら今歩いている付近の商店街は街道愛が深い様です。
川崎信用金庫。
街道愛に溢れる信金です。
東海道を歩いた時、川崎信用金庫本店の全てのシャッターが街道絵巻、強い街道愛を感じました。
大山街道ふるさと館。
かなり細かく展示がされており、まだ歩き終えてませんが、大山道の情報が一番集まっている場所の様な気がします。
ドイツ菓子店は珍しいですね。
川崎市に入り気付いたのですが、大山街道の路面には、白と水色の石が埋め込まれてます。川崎フロンターレカラーなのかわかりませんが、わかりやすくて助かります。
中山道の中津川市内でも、舗装道路に黄土色と白の石が埋め込まれており、それがどんな小さな道でも徹底されていて、街道愛の深さを感じました。
中津川市内を歩いて感じたのは、道標の表示は見落とす事がありますが、地面の表示は見落とす事が無いので、地図も道標も見なくても迷いません。
中山道中津川市内の徹底された舗装道路の画像、ご覧ください↓
8.大谷さん
大山道で始めての田畑。
うれしいですね〜、なんかホッとします。
大谷夫妻。
前職時代の先輩で、七人の街道歩き仲間の一人で、ムードメーカー&名幹事でまとめ役的存在。ご夫婦で日光街道・中山道を歩き終え、あと少しで甲州道中完歩、東海道も半分くらい歩いてます。
ご自宅がこの近くで、溝口のラーメン屋に入った事を伝えてましたので、待伏せされちゃいました。
下の画像は、昨年大谷夫妻が私の自宅の近くの中山道を歩いた時に、私が待ち伏せした時の画像。
お互いに小学生みたいな事してますね。
大谷さんご主人は先にどんどん歩いてしまうと、歩きながら奥様が私の家内に嘆いていましたが、上の画像が象徴的な一枚です。
とんかつ しお田。
孤独のグルメに出たお店で、代が変わってワインを取り揃える様になって、さらに美味しくなったそうです。
孤独のグルメといえば、街道を歩いていてバッタリ出会ったお店が1件だけありました。もっと探せばあるのでしょうね。
灰吹屋。
先程、二子・溝口で見かけた蔵造りの商店と同じ屋号です。大谷さんに聞いたら、この辺では有名な薬局らしく、なんと創業1765年、江戸時代から続く薬局、凄いですね!
大谷さんと喋っていたら、風景の写真撮るの忘れちゃいました。
東急田園都市線鷺沼駅前に到着、本日はここまで。
レポートが脱線しすぎて文章が長くなってしまいました。
次回は短めにまとめないとですね。
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