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『ふてほど』観て考えたこと

こないだ最終回を迎えた、今期最も話題となったドラマ。
端的に言って、本当に面白かったです。

2日半で9話

実を言うと、観始めたのはつい一週間前のこと。
ネットニュースで話題になっていたのは知ってましたが、実はそれほどクドカン作品に思い入れがなかったんですね。
なので「観られたら観る」程度に考えてました。

先日急に『半沢直樹』(2020年版)を観たくなって、U-NEXTに入り直していました。
で、こないだの日曜夜に「あ、全話(その時点で9話)あるじゃん」と、入浴して寝付くまでの間で観ることにしたんです。

ところが予想以上に面白くて、3話まで観てしまい、翌朝に4話、そして帰宅して5話を観たらあまりにも感動して、6話でさらに感動してしまいました。
翌朝には7話、帰宅して8話と9話と、結局火曜日までの2日半で最新回まで観てしまったのです。

最終話までの3日間は5話と6話を見返し、さらにもう一度BGVとして全話リピートして、リアタイに備えました。

クドカンのせいじゃない

最終話について書く前に、なんでこんなサルのオ○ニー状態で観てしまったのかを書いときます。

先に書いたように、「クドカン」ブランドには心酔してなくて、全話観たのは『あまちゃん』(2013)くらい。
『いだてん〜東京オリムピック噺〜』(2019)は田畑編に入る頃から仕事の都合もあって、視聴をやめてしまいました。

別に宮藤官九郎さんには嫌悪感を持っているわけではなく、先の2作だけでも、今のテレビ界に欠かせないキーパーソンと重々承知しています。
どちらかと言えば、原因は僕自身のここ20年の変化にあり、「毎週決まった曜日の夜にテレビを観る」という習慣を失った次第です。

宮藤さんは僕のひとつ年下で同世代。
それゆえ放送に関わる者としては、同じように業界の凋落を経験しています。
おこがましいハナシですが、ともに衰退の空気を感じた仲間です。

テレビについては、僕は単に視聴者に過ぎないので、「観ないよね、最近」という空気を一方的に謳歌しています。
ただラジオに関しては、出演されていた番組の不遇を、同業者として耳にしていたので「難しいよね、最近」とシンパシーを覚えていました。

誰向けのコンプライアンス

『不適切にもほどがある!』を観始めた動機は、「コンプライアンス」がテーマのひとつと知ったからです。

よく言われる「コンプライアンスのせいでテレビがつまらなくなった」とはさほど考えていません。
というより、コンプライアンスのせいで世の中全般がつまらなくなったとは思います。

今は言動のひとつひとつに、「他人の基準」というフィルターがかかるようになっています。

誰かのためを考えて行動するのは当然ですが、その「誰か」が目の前に実在する親兄弟や同僚ではなく、よく世の中で言われる「大衆」「世論」と同一になっていることに違和感が残るんですよね。

僕はテレビの中の人たちがよく言う「この時間に観ている主婦層」みたいな、具体的によくわからないペルソナ設計が大っ嫌いです。

そんな時間にテレビが観られる「主婦」って、どの程度の世帯収入があって、どんな家族構成で、しかもこんなご時世で共働き不要な生活がどうしたら送れるんだろね、とか思っちゃうんですよね。

一方でこどもを保育所にも預けられない家庭があるのも確かで、親だって65そこそこで年金も蓄えも少ないから、なんだかんだで仕事していて預けられないし、そんな中で育休使え使え言われるのはいいけど、その時間仕事がてきないからテレビ観る他ないやん、育児と買い物でヘトヘトになってる私にグルメスポットとか夜桜中継とか、それ家を出られないことへの当てつけかいゴルァみたいなケースも実際多いと思うんですよね。

で、たぶん制作者側には、特に僕らと同じ年代の偉い人にはそういう感覚はあまりなくて、大雑把に「主婦」って括っちゃうわけですね。

いま存在する規制って、本来の「法令遵守」の精神から大きく離れ、テレビマンが考える「主婦」みたいな実在感の薄い、ぼんやりした何者かの目を気にしてるんだと思うんですよね。

このことはテレビ業界だけではなく、どこにでもあると思います。
とりわけBtoC企業の考える「C」は、深掘りしたところで雑な設定なんだろうなと。

データ活用によりペルソナをさらに細分化・具体化して、ケースに応じたマーケティングを展開しなきゃいけないのに、結局気にしてるのは、モンスタークレーマーと化したヒマな人やコタツ記事で小銭を稼ぐ人その他で形成される「世間の目」に過ぎないんですよね。
劇中の言葉に置き換えれば「関係ない」奴らの目です。

ストレスこそ最高の題材

いま一節費やして書いてきたようなストレスは、大なり小なり誰でも感じていると思います。

あの『半沢直樹』人気を、時代劇の「勧善懲悪」に準えた考察も多数ありましたが、これは現実のストレスを解消する便秘薬と考えれば合点がいきます。

2013年版では同年の流行語「ブラック企業」を反映していたし、「働き方改革」から間もない2020年版では新型コロナ禍もストレス源でした。

そして2024年現在、企業には「働き方改革」で若手より働かざるを得なくなった管理職も増えてしまい、「ハラスメント対策」で指導も教育も、叱咤激励すら禁じられるストレスが蔓延しています。

もしかすると、ですが。
若手社員にとっても、先輩と同じ仕事をさせてもらえないストレスを感じているのかもしれません。

人気ドラマとなる必須要素は、時代が抱えるストレスにどう立ち向かうか、しっかり描くことだと思います。

宮藤さんや僕の生まれた1970年前後は、佐々木守さんが脚本を手掛けた『お荷物小荷物』に代表される「脱ドラマ」がヒットしました。
当時の学生運動や民族運動の停滞、そして矛盾にストレスを抱えていた20代にとって、定型を破壊することでストレス解消に至ったケースだと思います。

『不適切にもほどがある!』も、2024年だからこそ効く抗ストレス剤になっているのだと思います。

令和と昭和

最終話では1986年に戻った主人公・市郎と2024年に戻ったサカエが、時空を超えた通話から、いつの世も生き抜くためには「寛容になること」が大切、と結論を導きます。

これが本作そのものの結論であることは間違いありませんが、もうひとつ「文明が変わろうと、人間やることは一緒」ということも描写されています。

1話において2024年の居酒屋で、タブレットの誤操作(か故障)により炙りしめ鯖を200個オーダーしてしまった市郎は「機械は失敗しても反省しなくていい」と言い放ちました。

ところが最終話の1986年、市郎から「ここに!炙りしめ鯖200個!」とオーダーされた居酒屋の店員は、何の疑問も持たず「喜び勇んで!」と機械的に返します。
機械も人間も所詮同じというアイロニーです。

そして終盤、恋愛に無関心だった秋津息子は、マッチングアプリで失恋を知り、さらに市郎の策略で渚と付き合うことになり、挙げ句チョメチョメすることになります。
これもITツールを経由しようが、結局男女やることは一緒という描写と受け取りました。

被災への向き合い

『あまちゃん』において宮藤さんは、放映2年前に発生した東日本大震災をドラマの山場にしました。
ご出身が宮城県ということも大きいのでしょう。

そして今作では、1995年の阪神淡路大震災がドラマの大きな要素として採り入れられています。
市郎とその娘・純子はその犠牲者でありながら、タイムスリップによって1986年と2024年を行き交います。

しかし『あまちゃん』と大きく異なるのは、作品内で震災のリアルタイム描写が一切ないことです。

タイムスリップ物の常套手段として、95年の発災直前に行けば未来を変えることは容易いのに、宮藤さんはバス型タイムマシンの仕様として、決められた2つの年の往復しかできない設定にしました。

だから本作における被災描写は皆無です。

2話で市郎が「阪神淡路」というキーワードを知るのは、渚の身の上話を聞いて手元のスマホでググった時。
この時も、画面に映ったであろう被災画像すらオンエアされません。

市郎と純子にとっての2024年は、決済も撮影もスマホでラクラクできる便利な未来であるのと同時に「死後の世界」でもあるのです。
市郎は自分たちの死を知ってもなお、死後の倫理観に順応していくし、純子は自分が死んでいることすら知らないのです。

ふたりには死を食い止める手立てもなく、『あまちゃん』のように乗り越えていく前向きな未来もありません。

これって被災の様子を直接描くより、『ゴースト』のように霊と化すより、あまりに残酷な展開です。
だからこそ、純子が渚の口を拭いてあげる、あのシーンの重みが伝わるのです。

伏線回収と余韻

タイムスリップ物と言えば「タイムパラドックス」も必須要素です。

市郎と純子が往復できるのは、同じ人物の共存を回避する工夫かと思ったし、発明者の井上が三半規管の問題でタイムマシンに乗れないのも、その解決策かと勘ぐりました。

ところが、井上の元妻・サカエは幼い自分の隣に座って会話するし、ムッチ(秋津親)に至っては未来の自分にタイムマシンへ押し込まれる始末。
そこでビビッとこないのか彦摩呂。

最終話では30年後の井上がタイムトンネルの存在を発見し、任意でどの時代にも行けることを市郎に告げます。
1話と2話に登場したトイレの穴の謎が回収されたと同時に、市郎が未来を変えられる可能性が暗示されました。

2024年に帰る渚と市郎が抱擁した際、ふたりの間に電撃が走らなかったのは、もしかするとこの伏線になっているのかもしれない、と一瞬考えました。
が、そうなるとふたりは「祖父と孫」の関係ではなくなる、という結論になっちゃうので、さすがにそれはないなと思い直しましたけど。

最終話のオンエア前辺りから、案の定「ふてほどロス」と叫ばれるようになり、続編の期待は高いです。
が、僕としては「未来が変わるかもしれない」という暗示だけで充分だろうと思ってます。
とにかく傑作でした。

特に八嶋智人とロバート秋山のズッキー無双。

ラジオ局勤務の赤味噌原理主義者。シンセ 、テルミン 、特撮フィギュアなど、先入観たっぷりのバカ丸出しレビューを投下してます。