魔法の靴⑯夢をかなえにいく夢を見ました!
第八章
空を見上げる。
黒い。夜空だ。
白くて明るい大きな月が、今夜はどこにもない。あるのは、ガラスのかけらをぶちまけたみたいな、星の小さな輝きだけ。
ここはどこだろう。どこかに行く途中なんだ。どこに向かっているのだっけ?
ざざーん、ざざーん……
遠くで波の音がする。ううん、そんなに遠くない。すぐそこだ。
ざわわわ……
風が吹く。真っ黒な固まりが、身をよじらせる。海を隠している、松の林だ。夏が終わっても、松の姿は変わらない。深緑の針のように固い葉を全身にまとって、風に立ち向かっている。
木の間の、細い道を歩く。行きたいのは、その先だ。
前の方が、明るく見える。星の光に照らされて、砂浜がきらきらしている。
その向こうに、黒い、黒い、海の広がり。浜辺の浅い底の岩に、白く波が砕け散る。
目を凝らすと、はるか遠くに、白い泡が沸き上がっている。
ぼこぼこ、ぼこん。
泡のあたりで波が盛り上がり、小さな山みたいな固まりがいくつもできた。
ざぁぁぁ……音ともに波を流れ落とした固まりが、近寄ってくる。のっそりと、ざわざわと。
丸い玉のようなもの、平たく四角い胴から細い足が突き出したもの、三角のもの。ウミガメと、カニや、イカ。
のたり、のたり。固まりは決して急がず、波打ち際の一カ所に集まった。額を寄せあって、低く身を屈める。
それっきり、動かない。岩になってしまったように……いや、もともとそこにあった、岩の固まりだったのかもしれない。
足元から、その固まりまで続く平たい岩の道が、すうっと現れて星の光に照らされた。道の先で、ウミガメとカニとイカが、会議を開いている。
人の耳ではとらえることができない、その声。
声の存在はわかるのに、耳に入れることができない、その響き。
水底から集まった、海の神々の、その言葉。
話しかけたら、聞いてくれるかな。
人間の声は、届くかな。
聞いてほしいんだ。
人間の夢をかなえるかどうか、話し合っているのでしょう?
話を聞いてほしいんだ。
お願い。僕も入れて。
5歳の慎太は、小さな体を大きく伸ばし、飛び上がって手を振った。固まりに向かって足元の平たい岩の道を駆け出す。口を開く。声を出そうとした……
そのとき。
足下の道が、消えた。
体が大きく傾く。
なにが起こったの?
道がなくなると、海に落ちちゃう。大変だ。
手を伸ばす。何かに捕まろうと……なんでもいいから、何か……だれか……
伸ばした手を、だれかが、しっかりつかんだ。全身ですがりつく。
明るい。急に、目の前に白い光が満ちる。
「香奈恵!」
低い声が、名前を呼んだ。それ、あたしの名前。あたし、慎太じゃない。
細長い体に乗った、白髪なのに若い顔が、気遣わしげに香奈恵の顔をのぞき込んでいる。耳と鼻にピアス。顎には刈り込んだ髭。半開きの厚い唇。
「……誠一さん」
声が出た。すがった手は、誠一のものだった。そのまま身を起こそうとすると、後頭部と右肩と足に痛みを感じて、ひるんだ。
なにがあったのだろう。ここはどこだろう?
「ここ、どこ?」と、小声で聞いてみる。
誠一は顔を寄せてきた。「湘ガ浜の松林だ。おまえ、松林の入り口で転んで、松の木で後頭部を打ったんだ」
「あっ……何か石みたいなのが飛んできた気がして……あれ?」
誠一が、傍らからプラスチックの玉を拾い上げる。
「何だこれ。玩具の空気銃の弾じゃねぇか。どっかのバカが撃ったのか」
怒った口調で吐き捨て、香奈恵の肩から背中、腕をそっとなでた。
「当たっていはいなさそうだ。よかった」
改めて、誠一は香奈恵の目を鋭くのぞき込む。「ていうか、おまえ、なんでここにいるの」
香奈恵は首をすくめた。「あの、誠一さんが、もしかしたら、いるかなぁって。歩道橋を渡るのが見えたような気がして」
「オレを探して? こんなとこまで?」 誠一の声がひっくり返る。
「うん」。声がどんどんか細くなる。言い訳は早口だ。「ずっと返事をくれなかったでしょ。また工房に押し掛けると真下さんにも悪いかなって。ほかに、誠一さんに会えそうな場所は、浜辺しか思いつかなかった。本当に会えるかどうかわからなかったけど」
誠一が絶句した。「おまえ、マジでストーカーの才能あるな」
言葉に笑いが含まれていて、ほっとした。
「ストーカーて」小さく抗議する。
「送っていくから、ゆっくり帰ろうぜ」。誠一の声が優しくなった。
香奈恵は立ち上がろうとして、足の痛みにひるんだ。「足首、ひねった」
誠一が腕を差し出してくれた。足の痛みより、みぞおちの奥が気持ちよくうずくのが気になって、少し甘えてみたくなった。
「お茶でも飲んで休んで行きたい」
「は? おまえ大丈夫なの?」
以前は「あんた」だったのに、いつの間にか「おまえ」になっている。目を覚ましたとき、香奈恵って呼んでくれた気がする。
「少し座りたい」と、甘えた声を出してみる。
「そうは言っても、このあたりは何にもないぞ。俺んちのビストロカフェはもうないし」
ん?
「もうないって……え?」
「オヤジがいないんだから、店もあるわけない」
「知らないの?」
「なにを?」
この疑問は、素だ。そういえば、佳乃は「誠一は来たことがない」と言っていた。まさか知らないのだろうか。
「お父様のビストロカフェが、今どうなっているか、誠一さん、知らないの?」
「知らねえよ。行く用ねぇもん。あ、おまえ、さっき浜に行く前に、この道を歩いたのか? 店とかあった?」
「あるよ。あるある」
香奈恵はそう言って、誠一の腕に寄りかかったまま先をうながした。素直に誠一が前に歩み出す。
カフェの看板を見つけた誠一の足が、ぴたりと止まった。
「ギャラリーカフェ・オカノ?」 低く沈んだ声に、衝撃がにじむ。
「うん。手作りケーキがおいしい、おしゃれなカフェだよ」
「オカノって、だれ? おじさんは東京にいるはずだ。ほかに親戚なんか」。誠一の声がかすれる。
「お母様だよ」
さらっと言ってみた。つかまった誠一の腕が固くこわばる。
「は?」
鋭い声。
「知らなかったの?」
「知らねえよ。オヤジが死んだ後、母さんは田舎に帰ったんじゃなかったのかよ」
「行ってみない?」
「おまえ、行ったのか」
「うん。偶然ね」
誠一が、くるりと身を翻し、香奈恵はよろめいた。
「……帰ろうぜ」
しわがれた声は、妥協の余地を感じさせなかった。
今は、これ以上は無理だな。香奈恵は悟り、誠一の腕に後ろからすがった。誠一が、かがんで背中を向ける。「ほら、おぶってやるから」
「ありがとう」
これだけで、今は満足だ。
東京方面にむかう列車はガラガラだった。香奈恵と誠一は、ロングシートのど真ん中に並んで座った。同じ車両にはほかに、隅っこのクロスシートに学生服の男子二人が向かい合っているだけ。
「痛みはどうだ?」
誠一に気遣われたことが嬉しくて、香奈恵の鼓動が早くなった。「うん。大丈夫。足も痛いけど、ちょっと頭が痛いくらい」
「氷枕をあとで買おう。足は整形外科で見てもらえ。明日は仕事休んで医者に行け。今晩、頭の痛みが引かなかったら必ず救急車呼べよ」
気遣う言葉があたたかくて、頬が熱くなった。
「しかし、小倉のバカ、今度見つけたら、しばくぞ」
誠一の声が険しくなる。
「なんで?」と聞くと、誠一は香奈恵を見下ろした。
「おもちゃの空気銃なんて小倉たちに決まってるだろ。あんなことするヤツ、このあたりじゃ、あいつらしかいない」
「え……」と、誠一を見上げる。「決めつけないであげてよ。悪い子じゃないよ。医者にならなきゃいけなかったのになれなくて、優等生の誠一さんに憧れていたんだって」
誠一の表情が硬くなった。「おまえ、あいつと話したの?」
「うん。拓也くんに頼んで呼び出してもらった」
「どうして!」
「って、怖いよ、誠一さん」
誠一はひるんだ顔になり、窓の外をちらっとみて頭をぽりぽり掻いた。香奈恵はくすっと笑った。
「事故の前、小倉君は慎太くんに会ったんだって」
つとめてさらりと言ったのだが、誠一は息をのんだ。香奈恵は淡々と話した。
「慎太くんに、次の新月はいつか尋ねられて、小倉君が教えてあげたんだって。慎太くんが事故に遭ったのが新月の夜だから、うしろめたくて、誠一さんを避けているみたい。やさしく話しかければいいのに、誠一さん、怖いんだもん」
誠一が無理矢理のように笑った。
「そうか、オレ怖いか。でも、なんで慎太は、新月なんか聞きたがったんだ?」
「慎太くんは、絵本に出てきた神様に会いたかったみたい」
「絵本?」 誠一が小さい目を見開いた。
「そう。新月の夜、海の神様たちがウミガメとカニとイカに変身して集まって、人間の夢をかなえるかどうか話し合う絵本の話を、慎太くんが小倉君に聞かせてくれたんだって。慎太くんは、神様にパイロットにしてほしいってお願いしたかったのかな。誠一さんの家には、そういう絵本があったのね」
「いや……どうだっけか」
急に、誠一の声があやふやになった。その顔色が、すうっと白くなる。
「慎太は、その神様に会いに、家を抜け出したのか?」
誠一が一瞬、笑顔になり、ふっと表情が消え、視線が泳いだ。口が堅く閉じられる。
「どしたの?」 小さく尋ねてみた。
「……なに?」 我に返った誠一の声は、なぜか苛立っている。
「急に黙っちゃうから」
「いや、どうもしないよ。てか、小倉は慎太がいつ家を抜け出すか知ってたのか?」
誠一の頬が厳しく引き締まり、視線が正面の窓ガラスを越えて遠く一点を見据えた。
「え? そっち行く?」 香奈恵は焦った。「やっぱり小倉君を疑ってるの?」
「今度、あいつにじっくり話を聞いてみる」
険しい横顔がつらい。香奈恵は誠一が見据える正面に自分も目を向けた。話を変えなきゃ。
「あの、ね」
「なに?」
「……お母様に靴職人を目指してることも話してなかったのね? 全然連絡をくれないって寂しそうだった。誠一さんは、お店があそこにあること、知らなかったの?」
「関係ねーだろ」。誠一の言葉は、弱々しくかすれた。
「お母様、お店を継いだんだね」
「店を相続したのは、おじさんのはずだ」
「おじさんって、東京のサラリーマンの?」
誠一の肩がぴくりと跳ねた。「なんで知ってんだ……ああ、さっき、オレが言ったな。そうだよ。オヤジの病気も、母さんが戻ってきたことも、オヤジが死んだことも、全部、そのおじさんから聞いたんだ」
「ふうん」
香奈恵の頭に、ふと、疑問がよぎった。
父親が死んだとき、誠一はどうしていたのだろう。そのとき、すでに誠一は靴職人を目指して歩み始めていたはずだ。母親から知らせが届かなかったのだろうか。葬儀には出なかったのだろうか。
見上げた誠一の横顔は、見えないバリアを張っているようで、香奈恵は疑問を口にするのをためらった。
ロングシートは暖かく、左腕には誠一の右腕の温もりを感じる。規則正しい車両の揺れ。急に、脳に霞がかかった。打った後頭部がじわじわする。目を開けているのが難しくなる。頭が船をこいだ。二度、三度。
「寄りかかって寝ろよ」
誠一の低い声が、優しく耳に滑り込んできた。
「ありがと」と、もたれかかると、もう瞼は自分の意志では持ち上がらない。
そうだ。誠一に聞いておきたいと思ったことがあった。なんだっけ。
「あのさ」。自分の声は、半分以上、眠っている。
「なに?」 誠一が耳を寄せてくる。
香奈恵の唇はゆっくり動いた。声が出ているのかも定かではない。こうして話していること自体、夢の中かもしれない。
「お母様、どうしてお父様のところへ戻ってきたのかな……お店を続けているのは何故なんだろ? 東京のおじさんなら、事情を知ってるんじゃないかな? 聞いてみたくない? 誠一さん、今も連絡とってるんでしょ……」
誠一のため息が、遠くの方で長く延びた。
「品川だぞ」
誠一の低い声で、香奈恵は我に返った。香奈恵の手を、皮が厚い誠一の手のひらが包んで引いた。香奈恵は素直に立ち上がり、誠一に肩を借りて電車を降りた。
「家、どこ」
「あ、五反田から東急線で……」
「了解」
誠一は家まで付き添い、玄関まで肩を貸してくれた。
ベッドに倒れ込み、空腹を感じて目が覚めたときは窓の外はすでに真っ暗。テレビをつけると、ちょうどニュースが始まるところだった。
「日付が変わって6月18日、午前零時のニュースをお伝えします」
あたし、何時間寝たんだろう。頭をそっと抑えると、大きなコブに触り、痛みにひるんだ。でも、手を離せば痛みは引いていく。足は盛大に腫れた。折れてはいなさそうなので、とりあえず買い置きの湿布を貼る。
テーブルに放り出したスマートフォンに手を伸ばすと、誠一からLINEが入っていた。「お大事に」というペンギンのスタンプに、甘酸っぱいうずきを感じる。緑の吹き出しが続く。
「ちゃんと食って寝ろ。明日の朝イチで店に休みの連絡入れろ。無断欠勤は厳禁」
……自分は無断欠勤しておいて、と、目の前にいない誠一に突っ込みを入れておく。
吹き出しは続いた。「好奇心満タンの香奈恵ちゃんに負けて、叔父さんの連絡先を送る。連絡しといて。オレもしばらく会ってないし、会うなら、行けたら行くわ」
香奈恵ちゃん! 香奈恵ちゃんだって!
生まれてこの方、こんなに顔が瞬間沸騰したことがあるだろうか。今、熱を計ったら、絶対に39度はあるに違いない。頭がくらくらする。
いや、注目ポイントはそこじゃなくって。今度は自分に突っ込んだ。
叔父さんの連絡先! 連絡をとっていいって言ってくれた! わくわくするべきは、こちらだ。熱が上がったのも、そのせいだわ。
誰もいないのに体裁をとりつくろって、一つ深呼吸。落ち着いてから、誠一に返信した。
「今日はありがとう!(白うさぎのはぁとスタンプ) 誠一さんのおかげで助かりました! 久しぶりに会えて本当にうれしかった! おじさんの連絡先もサンキュー(シロクマの動く投げキッススタンプ) 不躾ですが、私からご連絡してみますね(白猫のはぁとスタンプ) 誠一さんの都合にあわせて一緒にうかがいましょう! おやすみなさ~い(ペンギンのおやすみスタンプ)」
送信してから、我に返る。
なんだ、このスタンプと「!」の多さ!
頭にお花畑が満開状態とは、このことだ。見ようによっては、かなりキモい……そういえば、誠一は言っていた。「おまえストーカー」って……ああ、説明したい。言い訳したい。
空腹はどこかへ飛んでいった。とりあえず、穴があったら入りたい。いや、ベッドに穴を掘ってでも埋まりたい。香奈恵は、肌掛けを引っ張り壁際に転がった。もういい。寝る。眠って起きたら、頭の痛みも足の痛みも引いてるかもしれないし。
おやすみ、お花畑なあたし。
翌朝、目が覚めたとき、残念ながらはっきりと昨夜の失態を記憶していた。おそるおそるスマートフォンをチェックするが、誠一からの返信はない。
……やっぱり、キモチワルイと思われたのでしょうか?
それを確認する勇気は、香奈恵にはなかった。
頭の痛みは引いたが、足の腫れはまだ残っており、しばらく立ち仕事は無理だ。早番のスタッフが出勤してくる頃合いに、クッカに電話をかける。怪我のため休みたい旨を、早番だったらしい山際チーフに告げると、心の底から案じる声で了解してくれた。
と、新着のLINEに気づいた。希美からだ。
「お・さ・そ・い(シマエナガのはぁとスタンプ)」
昨夜の自分を思わせる、浮かれたノリだ。続く緑の吹き出しは、希美の紅潮した頬と膨らんだ鼻の穴が目に浮かぶテンションだった。
次の定期演奏会で、メーンの曲のソロを任されることになったという。若手団員の紹介の意味もあって、様々な楽器の見せ場が多い曲を演奏し、短いながらもオーボエのソロは希美が担当することになったそうだ。
これは、聴きに行かなくてはね。香奈恵は小さく左手を握りしめ、スマホのスケジュールに日時を書き込んだ。
希美が暇なら、電話をかけてみようかな……そう思ったが、残念ながら、拓也からもLINEが来た。「希美のデビュー戦、来てくれるんだね。見守ってやって」
今日はデートだな。香奈恵は苦笑して、希美への電話を諦めた。
そこで大切な用事を思いだした。誠一の叔父さんに連絡しなくては。
せっかくの休日だから、たっぷりある時間を生かし、一人前の社会人として失礼にならない文面を練りに練らなければならない。相手は大切な誠一の叔父なのだ。ここは好印象を与えたいところだ。
……って、何の下心? そうじゃなくって。
もうじき25歳になる社会人なのだから……まあ、バイトだが……大人の女性として、きちんとしたメールを送らなくては。
香奈恵は、その日、整形外科に行くのを忘れて、終日を誠一の叔父へのメールに費やした。ネットで手紙と電子メールのマナーを調べ、文章を書いては推敲し、相手が絶対に不快や懸念を覚えないよう細心の注意を払う。メールを送信したのは、夜になってからだった。やれやれ、大仕事だった。足の湿布を貼りかえて熟睡する。
翌朝、誠一の叔父から、めでたく「会ってもいい」との返信が届いていた。ベッドの上で、上半身だけで小躍りする。足の腫れもだいぶ引いた。
さっそく誠一に、候補の日程をLINEで尋ねた。今度は十分落ち着いて、友人として抑えが効いた文面で。お花畑の片鱗も感じさせない。
一分一秒、返事を心待ちにする……なんてこと、あるわけがない。テレビを見ながら何度もスマホを無意識にいじってしまうのは、断じて、誠一からの着信を確認するためではない。癖になっているだけ。スマホ依存症気味なのかもしれない。気をつけなければ。
ほぼ10分おきにスマホを確認しつつ、一日過ごした。窓の外はよく晴れた空なのに、だんだん気分が暗くなってくる。
……どうして、返事、くれないのよ……
いやいやいや、誠一だって忙しいのだから、レスポンスに時間がかかることもあるでしょう。そもそも都合がいい時間に読んで返事を書けるのが、LINEのいいところなのであって、即レスを求めるのは本来の機能ではない。
でも、もう夕方なのに、丸一日、スマホを見ないなんてことは……やっぱり、昨夜のお花畑メールがいけなかったってことか……
悶々と苛立ちが募る午後7時。足を引きずってキャベツと豚の味噌炒めを用意する。動かなくてもお腹は減るのが不思議だ。ぼんやりしてたら、味噌に豆板醤を入れすぎて、たいそう激辛になってしまった。一人分なのに、豆板醤大さじ一杯は、ないわ。
テレビをつけて、左手はまたスマホ。
……あっ。
来た! 来てた! キャベツを切っているときか、炒めているときか、とにかく誠一の返信の通知がある。即座にLINEを開く。
「痛みはどう? 治るまでしっかり休め」
……よかったぁぁ……この女キモイとか、面倒くさそうだから距離を置こうとか、そういう気配は微塵も感じない。
で、本題。2週間後の水曜日の夜、誠一の叔父と誠一と、3人で会う約束になった。
2週間後かぁ……ずいぶん先だなあ。
低調な気分を少しでも上げようと、スマホのスケジュールに誠一とのデート……もとい、誠一のおじさまと会う予定を書き込む。
そこで気づく。希美の定期演奏会は、その前の日曜日ではないか。靴は誠一作のローファーで決まりだが、服はどうしようかな。今度はプロの演奏会だから、ちょっと気張ったほうがいいのだろうか。手持ちの服の組み合わせをあれこれ考えているうちに、気分も軽くなった。
(続く)
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