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魔法の靴⑳まさかのあの人に秘密がありました!

第十一章


次の休みは、よく晴れた。空の青さが、もう夏だ。

香奈恵は、誠一と二人で、また湘ガ浜駅に降り立った。

初めてこの駅の改札を通ったときは、長袖のブラウスにカーディガンを着ていた。今は半袖だ。狭い駅構内を行き交う人数が段違いに増えている。

潮の匂いが濃くなった気がする。国道沿いの松の緑が、ほとんど黒く見える。日差しが強い。

誠一は、一言も話さない。

数日前、香奈恵はこんなLINEを誠一に送った。

「誠一さん作の靴をプレゼントしたい人がいる。あたしが希美からもらったときと同じように、誠一さんに作って欲しい。大切な人なの。靴づくり職人として、仕事を受けてもらえないかな?」

誠一は相手を確かめもせず、あっさり引き受けた。先方を訪問して足を採寸するため、今、誠一は香奈恵と二人でこうして歩いている。が、品川駅から下りの電車に乗ったあたりから、何もしゃべらなくなった。

海岸沿いの国道から脇道にそれる。誠一がようやく声を発した。
「靴、プレゼントする相手って、誰」

「ここのオーナーさん」
そう言って、香奈恵が立ち止まったのは、もちろん、ギャラリーカフェ・オカノの前だった。今日も、明るい店内には客が一人も見あたらない。

「はめたな。確かめなかったオレのミスか」
誠一は、ばりっと頭をかきむしった。

香奈恵は誠一ににこっと笑いかけ、カフェのドアを開けた。涼しげな鈴の音が響き、奥から佳乃が現れた。

「いらっしゃいませ。あら、またご利用ありがとうございます……」

その声が、途切れる。

佳乃の色が薄い大きな瞳は、同じ色の瞳を持つ背が高い若者に吸い付いた。

白髪、耳と鼻にピアス、刈り込んだあご髭。チェ・ゲバラの顔が大きくプリントされたTシャツに、腰履きしたダメージジーンズ。ごつい革ベルトから、ウオレット・チェーンがぶら下がる。

10年前、制服のシャツのネクタイをきっちりしめていた黒髪の生真面目な少年とは、かなり違うが。

「誠一!」

佳乃は、間違わなかった。


佳乃の動作はこれまでになく機敏だった。

店の外の看板に「クローズド」の札を斜めにかけ、ドアの鍵を閉めた。二人を日が直接あたらない四人掛けの丸テーブルに案内し、複雑で繊細な幾何学模様のカットがほどこされた切り子のグラスにライム水を入れる。コースターはもちろん、佳乃のクロスステッチだ。誠一の前にグラスを置くとき、佳乃の滑らかな首筋がうっすらピンク色に染まっていることに、香奈恵は気づいた。

メニューを出さず、佳乃は言った。

「バナナケーキがあるわ。飲み物は、久しぶりにチャイにしましょうか」

向かいに座る誠一の頬の筋がぴくりと動いた。佳乃は返事を待たずに店の奥に消えた。紅茶のふくよかな香りが漂ってきた。

「チャイなんてメニューで見たことないよ。普通のミルクティーと違うのかな」と、香奈恵。

「作り方が違う」。誠一は冷静だ。「普通のミルクティーは、紅茶の葉をポットで開かせて、カップに注いでからミルクを入れる。チャイは、最初に茶葉を煮出して完全に開かせて、ミルクで濃度を調整する」

「だから、紅茶の香りが強く香るのね。誠一さん、詳しいね」

「まあな。俺、ガキの頃からけっこうチャイ好きでさ。バナナケーキとチャイは、母さんが家にいられる日の、とっておきのおやつだった」

「仲、良かったんだね」。香奈恵は努めて明るく言った。

「昔は、な」。誠一の頬は頑なだった。

「今は、違うの?」 あえて尋ねる。

「いろいろあってな」

「慎太くんのこと?」 知らないふりで踏み込んでみる。

「まあな」

誠一の返事は短かった。香奈恵はさらに進んでみることにした。

「慎太くんの事故の後、お母様について、いろいろ噂があったって聞いたけど……そのせい?」

誠一の顎に力が入り、目が鋭く光った。迫力に肩をすくめたくなるが、香奈恵は下腹に力を入れて、あどけない笑顔を保った。

「いろいろ聞いたみたいだな」。誠一の声は、一オクターブ低い。

「うん。いろんな人から、いろいろ聞いた。あたしは、嘘でしょうって思ったけど、誠一さんは?」

誠一は、口を開きかけて、やめた。

香奈恵は「立ち入りすぎで不躾極まりない」とブレーキをかける自分の良識を最大の力で振り切って、続けた。

「お母さんが慎太くんを殺したなんて、ひどい噂だよ。何言ってるんだって、腹が立たない?」

誠一は答えない。

「どうして、お母さんと仲が悪くなっちゃったの?」 香奈恵は、努めてまろやかに、ゆっくり言葉を押し出した。「もしかして、誠一さんは、噂を信じて……」

「なわけないだろ!」 誠一の声が、圧倒的に被さってきた。香奈恵は反射的にうつむいた。

「じゃあ、どうして」。気を張って押し出した声は、半分かすれてしまった。

「理由なんかねえよ」。誠一の声が拗ねた。

「それは、私のせいなのよ」

滑らかに落ち着いた響きが上から割り込んで、香奈恵と誠一は顔を上げた。

穏やかで透明な笑顔があった。

佳乃は、磨き込まれたシルバーのトレイから、誠一と香奈恵に順番に、滑るようにバナナケーキとチャイを置いた。バナナケーキは、窓ガラス越しの空と同じ、深いターコイズブルー一色の皿に。チャイは、銀の取っ手がついた、背が高い円筒形のガラスのカップに入っている。佳乃は空いた席に三人目のセットを置き、トレイを隣のテーブルに置いて座った。

誠一の頬が和らいだ。

「これ、まだあったんだな」。低い呟き。

佳乃は柔らかく頷いた。「そりゃ、あるわよ。誠一のお気に入りのお皿とカップだもの」

誠一はそろそろとティーカップの取っ手に手を伸ばし、重そうに持ち上げて口元に運んだ。一口すすって、満足げなため息をつく。佳乃は大きな目を凛と張って誠一を見つめている。

このままそっとしておけば、元のとおり、仲がいい母と息子に戻るのではないだろうか。今、邪魔なのは、自分の存在ではないだろうか。香奈恵は、音を立てないようにバナナケーキにフォークを刺した。

でも、佳乃は香奈恵に顔を向け、話を引き戻した。

「誠一が私から離れたのは、私のせいなのよ」

香奈恵は口に入れたバナナケーキのかけらを慌てて飲み込んだ。バナナの香りが豊かでとてもおいしかったのに悔しい。

佳乃の声は静かだった。その瞳が徐々に潤んで、誠一に再び吸い付けられる。

「最初の夫……誠一の父親が亡くなった時から、私は自分のことで精一杯で、誠一を守ってやれなかった。岡野と再婚しても同じだった。慎太が生まれたら、聞き分けがいい誠一に我慢や無理をさせてばかりだった。お店があるからって、慎太の面倒を誠一がみてくれるのに甘えていたわ。誠一は文句ひとつ言わずに全部引き受けて、自分でどんどん勉強して、お医者さんを目指して頑張っていたのよね」

誠一はうつむいて、両手でチャイのカップを握っている。

「誠一が医者を目指したのは、本当のお父さんが脳梗塞で突然死したことを、私が話して聞かせてからだったわね。お父さんを突然亡くす自分のような子供を減らすために、医者になって予防法を研究したかったのよね。ろくに話も聞いてあげられなかった母親だけど、誠一は自慢の息子よ。すべてだめになったのは、私のせい」

誠一の体はぴくりとも動かない。

佳乃の透明で穏やかな笑顔は変わらないが、左目の端から、細く一筋、ゆっくり頬を伝う涙が、光を反射した。

「慎太が亡くなった後も、私は自分の悲しみで精一杯で、今まで一度も、きちんと言えなかった。誠一、ごめんなさい。あなたを守ってあげられなくて、ごめんなさい」

静かに、佳乃の頭が下がった。

カップを握る誠一の指が白くなっている。肩が小さく揺れ始めた。

「言うなよ」。誠一の声は割れていた。「今さら言わないでくれよ」

カップから右手が離れ、誠一の顔を覆う。

「オレは、母さんに謝ってもらう資格なんかない……謝らなきゃならないのは、オレのほうだ」

佳乃は椅子ごと体を動かして、誠一の肩を抱き寄せた。

「誠一は何も悪くない。悪いのは全部、私なのよ」

「違う。悪いのはオレだ。オレが、いい子でいられなくなったから……だから、慎太は」

「言っちゃだめ」

佳乃の声が強く誠一を遮った。佳乃がちらりと香奈恵を見る。その目は鋭く、佳乃の周りに見えない鉄壁が一瞬で張り巡らされたようだった。

「慎太の事故は、私が戸締まりを確認しなかったのがいけないの。あの子が夜中に抜け出すのに気付かなかった私の責任。ご近所の噂は半分、当たってるわ。私が母親失格で、私が慎太を殺したと、怒っていいの。自分を責めるより、私に腹を立ててくれるほうが、ずっといいのよ」

佳乃のその言葉は、誠一に語りかけつつ、香奈恵に念を押しているようでもあった。

そういうことにしておいてくれと。深く考えるのはやめてくれと。

でも、香奈恵は小さく首を振った。そういうことにしておくわけにはいかない理由がある。

誠一が慎太の死の呪縛から解き放たれて前に足を進めるには、ここを曖昧にするわけにはいかない。起きたことに正面から向き合わなければ、誠一の時間は止まったままだ。

香奈恵は、右手を膝の上でぐっと握りしめて、母と息子に問いかけた。

「本当に、たまたまだったのでしょうか?」

佳乃と誠一の、同じ薄い色の四つの瞳が、香奈恵を見据えた。香奈恵は右手に力を込めて、続けた。

「慎太くんが、たまたま家を抜け出して、たまたま浜辺に行って、たまたま海にさらわれた……本当に?」

「なにを言い出すの?」 佳乃の声が鋭く尖る。

香奈恵は下腹に左手を当て、力を入れた。ここでひるんでは駄目だ。

「慎太くんが、あの夜、あそこに行ったのは、理由があったからです。誰かが慎太くんをあそこに行かせたから、事故が起きたんです」

間髪入れず、佳乃の声が香奈恵に迫る。「誰かが慎太を、あの晩、おびき出したって言うの? 何のために? 5歳の子どもよ。誘拐でもするつもりだったの?」

「誘拐じゃ、ありません。でも、あの晩が危険な夜で、あの浜辺が危険な場所だと知っていて、慎太くんをそこへ向かわせた人がいるんです」

香奈恵は腹に力を込めた。「慎太くんをあの晩、あそこにおびき出して、慎太くんが死ぬことを願った人が、いるんです」

長い沈黙の後、耐えかねたように声を出したのは、誠一だった。

「どうやって?」

香奈恵は生唾を飲んだ。もう、あとは進むだけだ。

「慎太くんは、あの晩、大潮の引き潮で海が遠くへ引いていた浜辺の岩場の沖へ、自分で歩いて行った。目的があったの。事故の直前に、話していたの」

二人のどちらかが、ひゅっと息をのむ音が響いた。

「慎太くんは、こう話したそうです」。香奈恵は、小倉少年の言葉を反芻した。

「次に夜空から月がなくなるとき、海の神様が、ウミガメやカニやイカに変身して、海の底から浮かんでくる。神様たちは、湘ガ浜の沖に集まって、人間の夢をかなえるかどうか話し合う。そのときお願いすれば、きっと夢がかなうんだって。だから僕は、僕とお兄ちゃんの夢をかなえてもらいに、神様に会いに行くの。僕はパイロット、お兄ちゃんはお医者さん。お兄ちゃんは何でも知ってて優しいから、神様は必ず、お医者さんになりなさいって言うよ。……でも、もし、会いに行く計画をお父さんやお母さんに知られたら、神様は怒って夢をかなえてくれなくなっちゃう。だから絶対、誰にも内緒だよ。」

母と息子は岩のように凍り付いた。

一人、岩になり損ねた香奈恵は、静かにチャイを一口飲んだ。紅茶の強い香りが、頭をすっきりさせてくれる。

「慎太くんは、海の神様に会うために『月がない夜は、次はいつ?』と、尋ねました。そして新月の夜を待って、神様に会いに、あの夜、一人で浜辺に行ったわけです。慎太くんが読んでもらった絵本の内容だと私は思っていました。でも違った」

「神様に会いに行ったから、何だって言うの?」

佳乃の固い声が割り込んだ。誠一を両手で横から抱きしめて、目が強い光を放っている。

「もしも慎太くんの事故に理由があるとしたら、何なんだろうと、考えてみたんです」

話し出すと、香奈恵は不思議に気分が落ち着くのを感じた。

「誠一さんが探し回っても、慎太くんを浜辺に連れ出した人は見つからなかった。どうしてなんだろうって、不思議だったんです。五歳の慎太くんが夜中に一人で家を抜け出すのは大冒険です。そんな冒険をさせられるのは、慎太くんが心から信じる人だけです。自分の話なら慎太くんは必ず信じると確信があった人しか、できません。その人物が、海の神様が集まるお話を、日時と詳しい場所まで、慎太くんに話して聞かせたんです」

「つまりあなたは、そのお話を慎太に話して聞かせたのが、慎太を殺した犯人だと言いたいわけね。単なる事故じゃないと」

佳乃は誠一を抱きしめたまま、高い声で笑った。目は輝き、頬が真っ赤に紅潮し、うなじにも血の色がさしている。誠一の肩に回った手は、反対に白い。

とても、きれいだ。香奈恵は見とれた。

佳乃がすっと息を吸い、高らかに宣言した。

「それなら、やっぱり私が犯人なのよ」

腕の中で、誠一がびくりと身を震わせる。佳乃はその体に回した手の力を全くゆるめず、続けた。

「あの夏、慎太に一冊だけ読んであげた絵本が、その童話だった。最後に読んでやった絵本だから、よく覚えているわ。秋になっても慎太が夢中になっていて、いつ、どこに神様が集まるのか、しつこく聞いてうるさいので、つい『次の新月の夜に、あの浜辺の岩場の沖に集まるのよ』って教えたの。慎太に答えるのが面倒に思った罰があたったわけね。やっぱり、慎太を殺したのは、私なんだわ」

続く、ヒステリックな笑い。

「……違うよ」

佳乃の腕に抱えられた誠一の口から、低くしっかりした声が漏れた。

「違う。慎太にあの話をしたのは、母さんじゃない」

誠一はきっぱり言った。

「オレだ」

強い力で母親の腕を引きはがす。

「オレが、慎太に海の神様の話をした。いつ、海のどのあたりに神様が来るか、詳しく聞かせてやった。慎太は、オレの話なら何だって信じた。オレは、大潮の引き潮のときにしか見えない沖合の岩の固まりを知っていた。暗い新月の夜、引き潮にあわせて慎太が沖に行けば、どうなるかも予測できた。それで慎太に海の神様の話をした。オヤジや母さんに内緒だぞ、これは男と男の約束だって言い含めたのも、オレだ。……オレなんだ」

 (続く)

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