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小説 書く時間を大切に #シロクマ文芸部

「書く時間を大切にしてくださいね。あなたを癒しもしますが、間違えれば呪いもします」
「スピリチュアル文房具」という看板をかかげたそのブースの女主人は、銀河を描いた紺色の爪が長い人差し指で萌音をまっすぐさした。
萌音は生唾を飲み込んだ。すると、女主人は紫のアイシャドーを刷いた目元をふとゆるめて、机の下から白い合皮張りの箱を取り出した。
「こちらが、お客様のパートナーとなるガラスペンです。夜空の色のインクの小瓶をおまけにつけておりますが、インクとノートはお好きなものをお使いください。毎晩、寝る前のひと時、頭に浮かんだ希望をノートに書いて、お休みくださいね」
薬の飲み方を説明するような口調で言いながら、女主人は静かに箱を開いた。中には白いクッションが敷き詰められ、透き通ったガラスの溝がきらめくペン先のガラスペンが横たわっていた。三角の形のガラスの柄の中に、きらりと光る靄のような色が閉じ込められている。
「一日の終わりに吐き出した希望が未来を明るくするのなら、ガラスペンも明るく輝きます。でも」と、女主人の声のトーンが低くなる。「吐き出した希望が人を呪うものならば、ガラスペンの中の靄が書き手の重荷を引き受けて濁っていくのです。濁りすぎるとペンは割れ、呪いがあなたに返ってきます。あまり濁らせないようにしてくださいね」
女主人はてきぱきとガラスペンの白い箱に紺色のリボンをかけて、萌音に差し出した。
「このペンがよきパートナーとなって、お客様の未来とともに明るく輝きますように」
萌音はおずおずと、白い箱を受け取った。

通りすがりの駅ビルの催事コーナーで「あなたのための文房具市」というイベントが開催されており、萌音はふらふらと立ち寄ったのだった。何か、自分のためのプレゼントが無性にほしかったところに、催事のタイトルが心にぴったりはまりこんだ。文房具なら手ごろだし、実用的なので無駄遣いにもなるまい。
かわいくておしゃれなペンやノートやスタンプやカードなどがびっしり並ぶ文房具市の片隅に「スピリチュアル文房具」のブースはあった。うさんくさい名前はともかく、机に並んだガラスペンの輝きに見とれて歩み寄ったのが運の尽きだった。
「お客様、少しお疲れでいらっしゃいますね」と、低く滑らかに心に染み入る女主人の声に乗せられ、つい話し込んだ挙句、ガラスペンを買ってしまった。きれいなペンだとは思うものの、中の靄のような模様が色を変えるとは信じがたい。そんなことがあったとしても、手の温度に反応して色を変える染料みたいなちゃちな仕掛けだろう。
話半分に女主人の説明を聞いたが、一日の終わりにノートにとりとめもなく頭の中のモヤモヤを書き綴るのは、心のデトックスとしてはよさそうだった。萌音は、文房具市で、紺色のハードカバーに銀でインク瓶の絵が箔押しされ180度パタンと開くのが気持ちいいノートと、「夜明けのエーゲ海」という名の美しい青紫色のインクを見つけて買い込み、さっそくその日の晩、机にノートとガラスペンの箱を広げた。

入社して5年。中堅になり、会社の様子がわかってくると、萌音は焦りを感じざるを得なくなった。商品企画のイロハを身に着けるまではがむしゃらだったが、初心者の下駄をはかせてもらえなくなった今、実感するのは自分の勘の悪さとセンスのなさだ。
同期入社の香枝は、早くも先輩に頼らずに提案した企画でヒット商品を生み出した。それに引き換え萌音ときたら、企画を出せば「コンセプトが弱い」「既視感がある」「コストを考えていない」「誰に売るの?」とコテンパンで、満足に言い返すこともできない。「自分の強みを見つけていかないと、この部門で生き残っていくのは難しいよ」と先輩に突き放され、先が見えなくなっていた。
毎日、吐き出したいモヤモヤならたくさんある。でも、そういえば「希望を書いてください」と言われたっけ。希望って何かな。
萌音はガラスペンを手の中で転がして悩んだ。希望といえそうなモヤモヤもいろいろありすぎて、言葉にするのが難しい。
まあ、こういうのはあまり悩んで書くものでもなかろう。萌音はとりあえず、ノートの最初のページに「香枝みたいにヒット商品をつくる」と書いてみた。青紫のインクが気持ちいい濃淡を作る。
一行だけだと物足りないと感じ、その下に書き足した。とりあえず「明日の企画書に前向きなコメントをもらう」ことができるといいな。
ガラスペンを水洗いして箱にしまうと、柄の中の靄がきらりと光った。

翌日、おそるおそる企画書を先輩に見せる。先輩は無表情にしばらく眺め、萌音に問いかけた。「これ、誰に売りたいの?」
いつもと同じ展開なら、萌音は明確に答えられずにもごもごし、先輩の二の矢三の矢に襲撃される。しかし、この日は珍しく、先輩の口調に圧を感じなかった。萌音ははきはきと答えた。「受験シーズンに向けて、学生はもちろん親も、家に絶対に風邪を持ち込みたくないはずです。そうしたニーズにこたえられると思います」
「なるほどね」と、先輩はうなずいた。「そういう切り口も面白いね。家族を守るというポイントをもう少し明確にして、打ち出し方を考えてみようか」
これは……褒められた、のか? 萌音は頬が紅潮するのを感じ「はいっ」と元気よく返事をした。

その日、ガラスペンの箱を開けると、柄の靄がきらきらと輝いているように見え、萌音はそっと持ち上げてデスクライトにかざしてみた。
透明な軸に閉じ込められた粉のようなものは、雲母のかけらなのだろうか。今日はデスクライトの光をよく反射する。萌音はしばらく手の中でガラスペンを様々な確度に持ち替えて、きらめきにみとれた。

萌音の企画はとんとん拍子に進んだ。先輩や課長からの突っ込みに対して、萌音には珍しく明確な答えが次々に浮かび、答えていくうちに自分の中でも商品企画のイメージがより具体的に研ぎ澄まされていくのを感じた。どんな強みをどの販売チャネルでどうアピールすると効果的か、面白いようにアイディアが浮かんでくる。
「最近、萌音ちゃんは頼もしくなったね」と、先輩がコーヒーをおごってくれた。「やりたいことがはっきりしてきて、課題をクリアするためにどうするか具体的に考えられるようになってきたんじゃない?」
萌音は「ありがとうございます。頑張ります!」と頭を下げた。
毎晩、ノートに書きだす「希望」は、だんだん時間をかけずに考えをまとめられるようになってきた。アウトプットの訓練にもなっているように感じる。やはり「書く」って大切なんだな。萌音はいつの間にか、寝る前の「書く時間」が楽しみになっていることに気づいた。
白い箱を開くと、ガラスペンの柄がまぶしいほどにきらきらと輝く。デスクライトの加減だろうか。それとも、もともと輝いていたのに見ようとしなかっただけで、ようやくガラスペンが手と目になじんできたのかもしれない。

ノートが半分くらい埋まったころ、萌音の企画は大詰めを迎えていた。次は部長と一緒に、事業部長にプレゼンをする。それから役員プレゼンでGOとなれば、製品化に向けて動き出す。
萌音は気を引き締めて、パソコンでプレゼン資料を開いた。商品のコンセプト、ターゲット、市場、強み、コスト、価格設定……わかりやすく、テンポよく、ヒットするイメージを伝えなくてはならない。そのためにはコンセプトのポンチ絵をもう少しビビッドに……
パワーポイントに手を入れるのに没頭していた時。
フロアの反対側で、大きな拍手が起こった。
音につられて顔を上げると、同期の香枝がいるチームが円陣を組んでいる。真ん中にいるのは香枝だ。「キックオフおめでとう!」「絶対またヒットするよ!」チームからの賞賛を受けて、香枝の目が輝いている。
と、萌音の横の席の椅子に先輩が腰を掛け、萌音のほうに体を寄せてきた。「萌音ちゃん、バッドニュース」と、低い声で話し始める。顔が暗い。
話を聞くうちに、萌音は目の前が真っ暗になった。

萌音が企画していた商品とよく似たコンセプトの企画を香枝が提案し、役員プレゼンで承認されたという。商品の分野は少し違うが、市場は完全に食い合ってしまう。香枝の企画が一足先に通ってしまったことで、萌音の企画は別の切り口で考え直さなければならなくなった。
「まあ、受験シーズンの家族の健康っていう切り口は、たしかに誰が思いついても不思議じゃないし。香枝ちゃん、企画をまとめるスピードが速いんだよね。勘がいいし、人脈も豊富だから情報収集も形にするのも勢いが違う。まあ、萌音ちゃんにもいいところはあるから、コツコツやろうね」
先輩はぽんと萌音の肩を叩いて立ち上がり、去っていった。

その晩、ノートを前に、萌音はガラスペンを持ったまま固まっていた。
香枝さえいなければ、萌音の企画が通ったはずなのに。香枝はもうヒット商品を作っているじゃないか。まだ形にできた商品がない萌音の企画をつぶさなくても、香枝は十分に実績を積んでいるではないか。
萌音の頭の中のモヤモヤがぐるぐる回って育っていく。
どうして香枝は、ああなんだろう。いつも日の当たるところにいて、頭の回転が速くて、いつも笑顔で、どんな質問にも的確な答えを返して、香枝の話には誰でも真剣に耳を傾ける。いろいろな部署に仲がいい同期や先輩がいて、いつも人の輪の真ん中にいる。萌音が質問の答えを考えている間に、香枝は10歩くらい先のことまで考えて提案する。
あんな人がいるなんて、つくづく世の中は不公平だ。同期なのに、どうしてこんなに差があるんだろう。
ずるい。ずるいよ。私だって頑張っているのに。

その日、ノートを乱暴に閉じたとき、ガラスペンがなぜか重く感じた。
大きな乱れた字で書いた「希望」は……「香枝なんていなくなればいい」
美しい青紫のインクで、こんなこと書きたくはなかった。

翌日、出社すると、フロアがなんとなくざわざわ落ち着かない。とくに反対側のチームの島あたりで、人の動きが慌ただしい。
先輩が急ぎ足でやってきて、萌音の隣の席の椅子に座った。
「香枝ちゃん、大変だったね」と、声を潜める。
萌音は、背筋にいやな冷や汗を感じた。「何かあったんですか?」と、やはり声を潜めて聞いてみる。
先輩は周囲をきょろきょろ見回した。「ニュースになっていたでしょう。ターミナル駅で、人がいっぱいの階段の上で観光客が重いトランクを落としてさ。当たった人が転んだのをきっかけにドミノ倒しみたいに人がたくさん倒れて大事故になったやつ。香枝ちゃんもあの事故に巻き込まれて、下敷きになったんだって。意識不明で病院に運ばれたらしい」
萌音は言葉を失った。

まさか、ノートに書いたからじゃないよね。いくらなんでも、そんなことありえない。「ノートに書いた人が死ぬ」っていうマンガじゃないんだから。
その夜、萌音はノートを開く手が震えた。前夜、書きなぐった呪いの言葉は、インクが乾く前にページを閉じたために向かい側に移ってしまっている。
ガラスペンの白い箱を開き……萌音の手がとまった。
きらきら輝いていたはずの柄が、今日は濁った雲のような靄に包まれている。デスクライトにかざしても、輝きが少しもない。まるで灰を閉じ込めたような色だ。
萌音は、震える手でペンを握った。とりあえず、香枝は不幸だったが、仕事は仕事だ。「企画が前に進みますように」と、丁寧に書いてノートを閉じた。

香枝がいない間に、香枝の企画はストップしてしまった。予想外の急激な円安でコスト計算に齟齬が生じ、企画をかなり根本的に修正しなければならなくなったのだ。発案者の香枝が不在の中、いったん棚上げとなったようだ。
その代わりのように、萌音の企画が取り上げられた。瞬く間に役員プレゼンまで行って、GOサインが出た。萌音の企画が採用されたのは初めてだ。先輩の協力で、商品化にむけて走り出し、慌ただしくなった。香枝のことを心配する余裕はなく、萌音は自分の企画の商品化で頭がいっぱいになった。
ノートに書き込むのは、初の商品化がヒットにつながりますように、という希望ばかりになった。
気になるのは、ガラスペンがすっかり輝きを失い、黒ずんできたことだ。どんな角度で照らしても、濁った灰のような靄があるだけだ。妙に重く感じるようにもなり、萌音は次第にガラスペンの箱を開けなくなった。ノートに書くだけなら、ガラスペンでなくてもペンには不自由しないのだ。

萌音の企画は順調に進んでいた。そのように萌音には見えた。
香枝はリハビリに時間がかかるため、長期休職扱いとなっている。萌音は、香枝が乗り移ったかのように、積極的に意見を言い、製造や営業部門と連携し、精力的に商品化にむけて走っている。そのように、萌音は思っていた。
しかし、亀裂は見えないところで広がっていた。
ある日、萌音がトイレで歯磨きを済ませて給湯室にコーヒーを入れに行くと、給湯器の前で萌音に背を向けて商品企画チームの女性が3人、立ち話をしていた。
「最近、萌音ちゃん、勘違いがひどくなってるよね」「そうそう。ちょっと前は、自分の意見を言えるようになったな~ってほほえましかったのに、あっという間に俺様になっちゃったね」「製造や営業からも評判悪い。あれじゃ、誰もついてこないよ」「萌音ちゃんの同期の香枝ちゃんは、そういうとこ上手いんだけどね。自分の意見を通しつつ、周りを立てつつ、一番いい形で進めていくスキル、すごいよね」「萌音ちゃん、香枝ちゃんのことだいぶ意識してたし、あれで真似してるつもりなんだろうけど」「イタいよね。できないことが自覚できないっていうか」「あ~早く香枝ちゃん戻ってこないかねぇ」
萌音は、給湯室に入れなかった。

部長から呼び出されたのは翌日だった。「ちょっとやり方が強引すぎるんじゃないかな。製造も営業も人員が不足している中、最大限にこちらの都合を聞いてくれている。それなのに君は、高圧的に急がせるばかりで、むこうの事情をちっとも考慮しない。このままだと、無事に販売までこぎつけられるかどうかわからないぞ」
萌音はうつむいた。「私はただ、受験シーズンが始まる前に商品をリリースしなければいけないと思って……」
「それはわかるよ」と、部長に遮られる。「しかし、社内で商品化に向かっているのは、君の商品だけじゃないんだ。もう中堅なんだから、社内のリソースをいかに生かすかも求められるスキルだぞ。君の同期の香枝くんを少し見習うといい。ちょっと頭を冷やしなさい」
肩を落として自席に戻る萌音の耳に、あちこちからクスクス笑いが聞こえてくる。気のせいかもしれないが。以前ならこんな時に励ましてくれた先輩も、最近は冷たい。

その夜、萌音は、広げたノートをにらみつけた。
「香枝ちゃんはすごいよね」「香枝君を見習うといい」「あ~香枝ちゃん早く戻ってこないかな」
頭の中で、いろいろな人の声がぐるぐる回る。なんで香枝の言うことはみんな聞くのに、私がはっきり意見を言うとこんなことになるんだろう。私と香枝の何が違うっていうんだろう。香枝はいないのに、なお引き合いに出して比べられるなんて、なんて不公平なんだろう。
いっそ、香枝が二度と戻ってこられなくなれば……
萌音は久しぶりに、あのガラスペンの白い箱を引き出しから取り出した。
このペンでノートに書いたことは次々に実現した。香枝の事故も、偶然ではなかったのかもしれない。それなら……
生唾を飲み込み、両手でそっと蓋を開ける。
ピシリーーと、きしむ甲高い音がした。目の前で、白いクッションに横たわるガラスペンの滑らかな柄に、細いひびが一筋入った。
まだペンに触れていないのに。これでは割れてしまう……
萌音の耳に、あの女主人の声がよみがえる。「吐き出した希望が人を呪うものならば、ガラスペンの中の靄が書き手の重荷を引き受けて濁っていくのです。濁りすぎるとペンは割れ、呪いがあなたに返ってきます」
私はこのペンで、今、何を書こうとしただろうか。香枝が二度と戻ってこなければ……?
このペンで「香枝なんていなくなればいい」という呪いをかけて、香枝がいない間に自分の仕事が進むよう希望して、それはかなってきた。今、香枝が二度と戻ってこないように呪いをかけて、もしガラスペンが割れてしまえば……呪いはすべて、萌音に戻ってくるのだろうか。

萌音はガラスペンの箱をそっと押しやった。ふっとため息をつくと、ノートのページがぱらぱらとめくられ、最初のページが開いた。
「香枝みたいにヒット商品をつくる」
そうだ。香枝は萌音の目標だった。いつも人の輪の中にいて、笑顔で、はっきり意見を言うけれど気配りも忘れない。そんな姿にあこがれていた。
香枝は目標だった。敵じゃなかった。
萌音は、香枝の背中を追ってきたつもりで、香枝になりかわろうとして、やりかたを間違えた。香枝の強いところだけを真似して、気配りや笑顔や人の輪の中にいるところは忘れていた。ただ強いだけより、そのほうがずっと難しいことなのに。
憧れだった同期を呪うなんて、そんな人間になりたいわけじゃなかった。
萌音の頬を涙が伝った。もう、取り返しがつかないのだろうか。

と、ガラスペンの柄がきらりと光った。デスクライトの加減だろうか。
箱を手元にそっと引き寄せる。濁った靄が渦を巻く柄の中に目を凝らすと、きらりと光るとても小さな欠片が、確かにあった。
誰かのか細い声が、耳元でそよ風のようにささやいた。
「まだ終わっていない。今ならまだ取り戻せる。まだ光の種は残っているよ」
萌音は長く息を吐くと、そうっとガラスペンを持ち上げた。エーゲ海の夜明けのインクにペン先を慎重に浸し、ノートの一番新しいページを開く。
「香枝が帰ってきたら、香枝の仕事を学びたい」
青紫のインクが、美しい濃淡を作った。ガラスペンの柄の中の、光の種が、力強く輝くのを確かに見た。

翌日、フロアが沸いた。松葉づえをついた香枝が出社してきたのだ。「長いこと休んでしまって申し訳ありません。まだリハビリが続くので本格復帰とはいかないのですが、在宅でできることはします」と香枝が挨拶すると、香枝のチームだけでなくフロア全体から拍手が起こった。
萌音は、思い切って香枝のところに歩いて行った。香枝が萌音を見つけて笑顔で手を振る。
「……体、痛くない?」と萌音が尋ねると、香枝は眉を八の字にして笑った。
「実は、けっこう痛い。背骨と骨盤にわりとダメージがあって……」
「そうなんだ……」。萌音は罪悪感でうつむいた。
香枝がぽんと萌音の肩を叩く。「いない間、ありがとう」
思いがけない言葉を掛けられ、萌音は「えっ」と息をのんだ。
香枝は笑顔だ。「私の企画がダメになったけど、萌音の企画があったから、受験シーズンにうまく商品をローンチできるって聞いた。あ、代役してくれてありがとうとかじゃないの。萌音はずっと頑張っていたの見てたから、萌音はゆっくりだけど色んな人の気持ちを考えて寄り添う企画を考えるの知っていたから、商品化するのが萌音の企画でよかったなって思った」
萌音は唇をかんだ。やっぱり香枝はずるい。こっちがただ憧れて羨ましがっている間に、フロアの反対側からそんなところまで萌音を見ていたなんて。
香枝が人差し指を伸ばして、萌音の頬をぬぐう。「やだ、泣かないで。萌音の商品が発売される頃にはもうちょっと動けるようになるから、そうしたら、飲も? お祝いしよ?」
萌音はぐっと涙のカタマリを飲み込んで、笑顔を作った。「うん。ありがと。香枝にいろいろ教えてほしいことがたくさんあるから、早く治って」
香枝は顔いっぱいの笑顔でうなずいた。「同期のお願いにはこたえないとね!」

萌音のガラスペンは、それから日に日に輝きを取り戻した。
商品が店頭に並ぶ日が決まったら、最初の一つは香枝に届けよう。萌音は、ノートの最後のページに、忘れないように書き込んだ。
青紫のインクが、優しい濃淡を作った。

(完)

今回も #シロクマ文芸部  に参加させていただきました! お題は「書く時間」。毎度おなじみ、長くなってしまった日常系ファンタジーです。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました! 素敵なお題をくださった小牧様、今回もありがとうございます!




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