そろそろいいかな

おはようごあざいます!そろそろいいかな。午前中はそわそわしてTwitterばかり見てしまって、本が欲しくなって、いますぐよみたいならそうしたらいい、本は無駄にならないんだから、と自分に声をかけつつ、いやいまはお金を使うリズムをキープする練習をしているんだ、原則をたたいてたたいて、その強度を高めているんだ、そもそもこれは今思いついたことだけれど、午前中の僕は時間を無駄にすることを目的として生きていたわけなので、どう頑張っても僕の肥やしになってしまう本を、ましてや僕の生活において唯一有限の、お金を使って手に入れるわけにはいかなかったのである。

まだ、ちらっ、ちらっと、楽しそうな友人たちの会合を、部屋の隅で、入り口の陰で眺めている気分だ。まだ書きたいとは言いたくない。しかしどうにも暇だ、目も疲れたし、お金もないし、散歩に出るのも今は違うし。断食中だし。今日はなかなか頑張ってるよ、朝はトーストにチーズをのせてしまったけど、昼は冷凍の、ミニマルなご飯をチンして、少量の塩昆布をかけて食った。もともとうどんを食べるつもりだった、坂口さんがどこかの駅でうどんを食っていたから、俺がうどん大好きなのを思い出して、この前食べに行くつもりだったのに食べ損ねたことも思い出して、冷凍のうどんをチンしようとしたところで、俺グルテンフリー生活もしてるんだった、と思い出した。しまった。うどんが食えないなんてこんな生活続けようがないだろう、この前死ぬまで食べられなくなったら嫌な食べ物を考えたときに頭に浮かんだのはこれと、カレーだった。この二つはガチで悲しい。米も言わずもがな。パンは案外いけるのかもしれない。今のまま、彼女と友達と同じように遊んでいるのならかなりパンがないのはしんどいだろうな。ピザとラーメンは本当に大丈夫な気がする。焼肉も大丈夫。牛丼は寂しいな、チャーハンも厳しい。餃子よりはシュウマイの方が寂しい。餃子は好きな人が多いというか好きな人の声がデカすぎて、みんな食べられなくなったら得をした気分になりそう。俺、そんなにいやじゃないけどな、って言いたがって、やめると思うな。

願いのアストロはまだジャンプ+に出ていない。そりゃそうか。でも新連載の漫画はドカンと発売日に無料で同時公開しちゃった方が売れると思うけどな。ジャンプも個々の単行本も。

何日休んでいたのかというと、八丁堀で飲んだのが金曜日、その日は2000字も書くことができなくて、ここ半年くらいの、10枚かけなさそうならもう休みにしちゃう、ってリズムからするとその日も休みといっていい。ただ今回はこれが契機になって、「書かないでみる」って企画が始まった。まあほとんど一日中バイトがあるかレミちゃんと一緒にいるかで、楽だなあ、これはこれで、本を読む時間がとれていいなあ、読むかは別として時間が余っているというのは心にワクワクを与えるなあ、と思う程度だった。これが土曜日と日曜日。で、今日の午前中にもう明らかに痺れを切らし始めて、Twitterとカディス戦とセンスの哲学とズームイン、服!を行き来して、トゥルーサカグチショーにまたきっかけをもらってピザラ人狼を10分垂れ流してみたりしたけどどこへいっても焦りがあって、こんなもん見てる場合じゃない、と、俺は俺が腐っていくことを肯定してこの期間を過ごしてみることに決めたはずなんだけど、いつもの執筆作業に戻りたくなった。まあつもりは飽きたってことなんだろうけど。綺麗な3日坊主。「一万字とゼロ生活」が思ったより、というか比べるまでもないくらい短期間で終わった段階で、しばらくこうやって短い飽きと興味のサイクルが始まっていくんだろうな、と予感していたが、そう考えてみると三日坊主もなんだか美しく思えるもので、俺はこの飽きを以て、というより新たな興味の向く主体を声高らかに宣言することによって、人の別れを形容する言葉としては在りえない、(あとづけ、というか後からわかる)円満さで、今年度三つ目の作品を完成させたのだった。一万字とゼロ生活、無為に生きる、書かないでみる。

ピザラ人狼、3戦分観れた。びっくり。人狼の局面を理解するのが苦手で、こういうのは覚えるつもりがないから覚えられないんだと思うから、今後どれだけ定石なんかを覚えてもよくわからないまま観ているんだと思う。とはいえ、嘘をつくのが好きでないから人狼はできない、嫌いだ、なんてずっと言ってるのもつまらないからここでも僕はチラ見を続けていたのだと思う、坂口さんが鬱の時はピザら人狼に限るってネタだが言い切っていたのを見て心強かった。こんなふうに見たいものを、というか面白いと感じるものを決めるのってどうなの、ダサいんじゃないの、と思っていたけど、小川和さんが「坂口さん」と書くと視界が開けて書く手が不思議と進む、みたいなことを言っていたのと繋がるのかもしれない。面白い人が面白いと思うものを見る、というのはその瞬間の僕の感覚すべてを牛耳られているように感じさせる表現だけど、動作の方に目を向けてみると、見て、俺が感じる、というのを最後に、(俺がそのあと本当に彼が言っていたのとまるっきり同じ感想を安全だと思って言うのだとしても直前に、)体の動きとしてそれを経ている。バカにしなくてもいい。

おつかれさまです!シフト希望作ってくる。そんでそんで洗濯物を干して寝る。午前中たんまり寝たので眠くはならないだろうから、22時半ごろまではセンスの哲学を読んで、あるいはピザラ人狼を垂れ流して、そのあとは気合いで目を瞑り続けよう。明日は12時退勤なんで最悪3時間も眠れればなんとかなるだろうけど。

そういえば耳にスクリーントーン貼るの、珍しい

ドラッグストアが好きなんだと思ってたらツルハドラッグが好きなだけだった

ドラッグストア(無印)という感じがする。

4年前、珍しい友人が遊びにくるから手指消毒用のアルコールだったり、普段用意しない生活用品をまとめて買ったら3500円以上した。それもあってちょろっと必要なものを買うというよりあれやこれやまとめ買いする場所ってイメージがあるし、であるにも関わらず居心地が良い。

Tポイントがたまるのもいいが、たまらないのもいい。ほっとする。

ツルハドラッグはカワチみたいな感じ。

男の髪はな、フワッフワに見えるほどパキッパキなんだ


連ツイしてみた。どうしても1本目、2本目は肩に力がはいって、いいこと言おうとしてしまうので、僕がツイートしたい、と感じる頻度からしても、一気に5本6本書いてみると面白いものが出てきそうな気がするぞ。とりあえずXの仕様は無視だ、というか普通にTwitterをやる。関係ないか、空リプや連ツイが当たり前に読み手にそういうものとして届くものとして書く。俺はそう読んでるんだから。山下清のように書く。

さて、今日の締めくくり。2800字現在、正確にはそうでありつつ書くのを再開する前、つまりパソコンを開かず、デスクライトもつけずにおいていたとき、今日はこんなもんでいいか、復帰戦で2000字も書いてれば十分だろうと完成させるつもりでいた。絵を描くのはまだ少し、なんだか怖かったので筆ペンを少し触るだけにした。できないことにドラマ性を持たせてもしゃーないよな、と思った。今日、10枚書き切るのがいいのか、「別の10枚」を見つけるのか、どちらがいいのかわからない。できるのはどちらかだけだ。どちらが楽かもわからない、後で、実際に書き切らなかったことによって降りかかる心労が、寝る前に多少無理をしてテンションを上げて書いたための負担を上回ってくるかもしれない。どちらにもドラマはいらない。ダサいからだ。今の僕にとって、やるにもやらないにもドラマティックさは要らないのだ。暑い。上着を脱いでも。本を読むより、横に並べて比べたわけではないけど、ピザラ人狼を聞き流すより、いますぐ目の疲れを最大限癒すために寝室に向かうか、それよりも書くほうがよかった。今になってそれらが並んで見える。飽きの気づきかたと一緒だ。

今日はいくつかやりたいと思ったことを並べて、並べるつもりなくその場においといて、再開しやすいようにそのままにしとく、って意識を極力減らして、ピントをそこからずらすと言うイメージで、なんせ部屋でベッドに寝っ転がってるだけだから、細かい挙動は坂口さんがさくさく作品を写真に撮ってTwitterにあげるときの仕草なんかを意識しながら、ワンフレームの中でピントだけをずらしてあっちこっちにいってあれこれやるやり方になった。体にはあっていそうだった。再現性があるかといったらどうかな。見ないようにして、なんというか脳のバグを頼りにして行動力を底上げしていくようなメカニズムになっているから、永久機関と呼べるものではない。そんなもんあるか、ってのはいったん置いといて、僕はそいつを探しているのだ。そういえばこの、置いといて、やりたいから盲信的にやってみる、というのも構造は同じか。千葉さんでいうところの「頭空っぽ」か。その言葉で想像できるようなフレッシュさで次の行動に取り掛かれていないから不満なのだろう、そこはパッケージ化、ひとまず完成、の仕方がまだまだ未熟だということの表れか。いろいろ今まで読んだ要素が出てきて面白いな。小川さんがいっぱい書いてて、最後の方にこれ書いてほんまによかった、やりたいことに一貫性が見えた、今度の本は面白くなりそうだって言ってて羨ましかった、くそっ!と嫉妬してしまったので、そわそわがいよいよ我慢の蓋を吹き飛ばしてしまった。いや、僕のそわそわはもっともじもじしているので、朝、パンの仕込みをしているときに後ろで豪快に溢れていても気づけない、とめどなく、無音で流れるアイスコーヒーのようにこっそり堰を切ったはずだ。

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