「作業場」、それに関する批評、内省

おはようございます!ルサンチマン。ルサンチマン、ルサンチマンが来たら引き上げる。これですべてが大丈夫になるわけではないが、少なくとも体が動かしやすくなる。あと、動くかは外部的なこと。運にかかっている。動き出せるかということをあまり気に病んでも仕方がないのかもしれない。動き出す時にしかわたしも動き出さないのかもしれない。

大きなデスクがある。灰色、白に近いような。デスクライトが4、5、6。ティッシュはあるのだろうが目に入らない、でもある。あって欲しいと思っている。パソコンはないが、それで作業をしたいと思えばすることができる。それはこう視点の転換というか、作業場に突然パソコンが現れるわけではなくて、パソコンだけがあるデスクへと観ているものが切り替わる。カメラのスイッチャーを操作してそうなるのではない、でもフェードイン、フェードアウトもしない、パッと、切り替わっているはずなのだが毎回僕は瞬きをしてしまうからその瞬間を見ることができない。残念だとは思わないが見たいとずっと思っている。持っているのは万年筆ではない、インクをつけて、いやペンはもっていない、ペンはどこかにある、引き出しに入っている、のだとすればそっちはパソコンのある作業場だ。グレーの大きなデスクの作業場ではない。グレーの方が心の棲家になっている。ただ、だだっ広いグレーのデスク、表面は少しザラザラしている。さらさらとの中間にその質感がある。ティッシュは、みえないところにやはりある。すぐ手に取れないものになにを置く意味があるのかと問いたくもなるが、あってくれるだけでいい。あってくれているという気分で僕はそれを見ている。遠いから、それで取るのをやめたりもする。ズボンで拭う。デニムはそのために履いている、色を重ねても、堂々としていればどんどんいいデニムになっていくだけだから。本はみえないがそれもどこかに置いてあって、きっと、この部屋はバクマンのサイコーの(おじさんの)作業場をモデルにして作ったものだから、なんか壁にはりついた棚にびっしりと詰まっているのだろう。ジャンプは点々と置いてある。そこがおじさんの部屋とは違う、眠くなったらコンビニに行く、エレベーターを降りるとすぐ左手にセブンイレブンの看板が光っている。セブンイレブンは夜に行きたくなるのでちょうどいいと思って行ってみる、ブリトーが食べたいが高い、430円ほどするのでまた今度レミちゃんなんかと遊ぶ時に一緒に食べさせてもらおうと決めてみる。ホットスナックにはあまり興味がない、あのへんで本当に美味しいのはあんまんだけだから、人といるとその辺は大きく変わるんだけど、一人でいるときはとにかく、肉まんとかフランクフルトとかからあげ棒を恥ずかしいものとして見ている。友達に食べたと言いたいから食べるものだと死ぬまで思い続けている。さておき、羊羹をみる。いもようかんとあんこの羊羹で迷うが、実のところばあちゃんがつくった牛乳羊羹がいまの気分に合っているのでばあちゃん地に久しぶりに行きたいとだけ思って、ほかのは代替案にすぎなくなったから全然違うものを食べることにする。ケンタローの日記を読んでなんだっけ、海老のなんか食べてて美味しそうだったけどやはり明け方にカップラーメンを食べたりすることに強い憧れと、そう心から願ってできない嫉妬心、ねたむ気持ちがあって、やはりこれもホットスナックと一緒だな友達といるときはまっさきにそこにむかってこれあんじゃーんとかいって、たぶんそれをすっごくそういう時に食べたい人だと思われているくらいなのに、と思いつつ、ローソンセレクトの安い、味もこざっぱりとしたちいさいラーメンだったら食べてもいいと思いつつ、ここはローソンではないし、でもここには置いてある。なぜなら看板がセブンイレブンなだけであってここはセブンイレブンではないからだ。セブンイレブンでしかない、わけでないだけであってセブンイレブンでもある。ただ別にコラボ、日本で数少ない、みたいな施設ではない。ただ適当なのだ。店長が適当すぎてそういうことになっている。せめてものあがきとして、炭酸のジュースを買って帰ることにする。いまは2:40をすぎたあたりだからやっぱりコーラとか飲むのは気が引けて、カロリーとかなんとかわからないけどとにかくあじがさっぱりしていそうなものを選ぶ。三ツ矢サイダー梅はヒカキンが僕の中一の時に紹介していたソーダで、いまだに梅酒のソーダ割りなんかより美味い。梅酒はあんまり美味くない、気持ち悪くなってしまうので僕の体と相性が悪いのだろう。梅のソーダを買って、これが300ミリの缶だったらいいのになーと要望をつけてみる。350だとちょっとりっぱすぎるかな、その量を飲むと決めるならばいっそコーラを飲みたい、そのときは自販機で買いたい。じーちゃんちの前の自販機で買いたい、一人で買いに行くときはじーちゃんの分とあわせてふたつか、500ミリのをひとつ。キンキンのグラスが出てくる、居酒屋でプレミアムモルツを入れるような形だと思うが、やはりそんなことがグラスにも買いてあって、じーちゃんはなんだかの懸賞であたったんだよ、とえばっている。威張っているが悪い気は全くしない、ばーちゃんのあしらいかたが気持ちいい。

絵を描きたいというテキストはずっと頭の中にある、そのあとに、なら俺は漫画かなとくる。つまり絵は大して描きたくなくて、漫画は書けるということをこれは示しているのだと思う。思うだけで特に行動には起こしていない、起こしているつもりがないだけで、何か、それに通づることだけをやっている感覚もある。それを信じているが風呂から上がった後は3時間の間信じられなくなるので、そういうときはあえてすぐ食いたいところをつかれて落ち込みたくなって、坂口恭平のドキュメンタリーを見たくなる。あのひとが僕の知っている中で1番のスパルタ教師だから。人ごとにできない叱り方をするから。寺尾紗穂さんの歌と似ている。ひとごとにできない、しようがない、どこかもんくをいおうとしても、俺のつめがあますぎて、ちょっとさっきを出されただけで僕は降参させられてしまう、でも俺が勝手にそうしているだけなのだ。もうすっかり、いつものパソコンで、いつもの色合いの中で作業をする時間になった。戻ってきたというより、やはりずっとここにはいた。足の感覚はなかった、向こうに足がついている感覚もなかった、夢の話をしているにすぎないようなつもりで書いていた。ゆくゆくはそちらに足をつけつつ冷静に、そういうことを書けたらいいなと思うが、結局足の着くところにそれを実際に立てていくしかないのだとも予想がつく。かなり分量が膨らんできて、ここらで、びびって、なににびびってるかって、なんだろう、いいのが書けている、このままいけば今日はいいのができそうだ、と気がついたら僕はそこで日記をめちゃくちゃにしたくなる。台無しにして安心しようとする。

台無しにしたくなって、心にちょっとした引っ張られた感じが生まれて、そのうしろがみがどこに引っ掛かっているかを考える暇もなく改行をする。一度提出して、台無しにする。後はどうなってもいい状態、どうせ駄作だから、としたいわけでもない気がする、


今日はもうここまでで、このまま描き切るんだけど、あの作業場にはもう戻れないので次はどこのことを書こうかな。どこかのことを書くのではなくどこのことを書こうかな、という話をしたい。一本丸々ひといきで小説を書く体力があたりまえに足りない。練習をしていない。坂口さんのいう、目を一瞬閉じてみえる風景を書くということの意味がわかるようでわからなかったが、それもそのはずというか、僕にとってそれは水が湧き山の緑があり動物たちの息遣いが、目では見えるわけではないけども見える、というような自然が僕にとっての風景ではなかったからだ。僕がずっと見ているのはグレーの大きなデスクと、無機質なようで居心地は悪くない、良すぎて浸ってしまうこともない、仕事をする部屋、寝心地は良くないが寝てしまっても体は痛いけどもなんとか1日くらいなら過ごすことができる、その痛気持ちよさを感じ取ることのできる部屋。それが僕にとっての気持ちよさであり、気持ちのいい景色であるのかもしれないと今日思った。前から見ていたものではなったが、やはり自然ではないので、しかし坂口さんはもはや自然は自分のうちにしかないともいっているしつまり僕のうちにある自然が、というか僕が僕の言語で定義するところの自然がそういう無機質な空間であってもなんらおかしくないのかなと思った。コンビニは好きなわけではないけど、あるもだから自然。あって欲しいと願うまでもなくそこにある。居心地が良いと感じるまでもなくそこにいてしまう。それが僕の自然である。

今日は小説を書いて、それに対する、というか僕に向けた批評を書いてみたつもり。そのつもりで書き始めていないので社会的にはそういえない。からこそここで書いておかなくてはならないのもある。あと300、こんなに残りの1000字が遠いのは初めてのことだ。ずっとここで書いてはいるのに、まあ一度パソコンを閉じて他のことをするために必要とするエネルギーがいつもより今日は多かった。そういう点ではイサギが悪く、反省すべきところがあった。反省と内省の違いはなんだろうと考えて、坂口さんもとい神田橋先生は躁鬱人は反省禁止だというからそうしているのだけど、いま省みているな、そのおかげで僕が充実しているな、と感じる時も多いから、絶対に僕に必要な時間が反省という言葉の中には含まれているのだろうとしばらく考えていて、この前思いついたのは、ひとに何か言われてするのが反省、ぐっと一瞬落ち込むものの、すぐ次の作業に意識が向いている、一連の頭や心の動きのことを内省というと思う。

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