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3日ドーナツ

僕は高校卒業後ドーナツ屋でバイトを始めたのだが1週間ほどで辞めてしまった。木村さんへの懺悔もこめ、記録として残しておきたい。

飲食のバイト経験がないと将来苦労する。そんな存在するかも分からない人生の先輩の格言を真に受けた僕はドーナツ屋のバイトの面接に応募した。男子校上がりだったせいもあり、可愛い先輩からの指導、女子高生のミスへのかっこいいフォローなどありもしない期待を抱いていた。しかもドーナツ屋ともあればきっとスイーツ好きのかわいい女の子が多いに違いない。想像が想像を呼び、面接の予定がたっただけで気分はパティシエだった。文化祭と一緒で始まる前までが1番楽しいのだ。

そのドーナツ屋は最寄り駅のホームの中にあり、豆乳とおからを使用したヘルシーなドーナツが売りだった。ドーナツが特段好きという訳でもなければヘルシーに甘いものを食べたいと思ったこともない。求人サイトで最初に見つかったという理由以外、志望動機を見つけるのは靴下のもう片方を見つけるのよりも大変だった。しかし、結局誰でもよかったのだろう。心の引き出しのどこにもない言葉を口先から生み出し面接をパスした僕は、晴れてドーナツ屋の一員となった。この時から既にミスは始まっていた。

いざ始まると理想と現実との乖離は漫画と実写版映画とのそれに匹敵するものだった。ホーム内の店舗で狭いためワンオペな上、それに伴って従業員も少ない。店長とお局と木村さんでほとんどのシフトを回していた。初回で店長とお局に研修された僕は、お局からの「メモとか取らないんだ」にノックアウトされすでに戦意を失っていた。しかもどうやらお局は北条政子並の政治力を持っており店長は置物状態だった。業務も業務で生地を作り、ドーナツを揚げ、デコレーションをし、レジをこなすところまで1人でやらなければならず、苦痛以外の何物でもなかった。

初日で理想を打ち砕かれ、完全に政子の反感を買った僕は2回目の研修でも政子に虐げられやる気を失いかけていた。しかし3回目の木村さんとの研修は楽しかった。浮気性のバンドマンを養っている話やバイトを掛け持ちしている話もしてくれたし、可愛がりながら色々と教えてくれた。冬だったので一緒にスノーマンをデコレーションしている時には脳内に「雪だるまつくろう」が流れたほどだった。木村さんはきっと誰にでも好かれるしみんなに優しいんだろうな。そんなことを思いつつ3回目の研修は楽しい気分で終わった。帰りに缶コーヒーも奢ってくれたし。

3回の研修を終えワンオペが始まると完全にやる気を失ってしまった。店内は揚げ油の匂いに満ちているし駅内だから急いでいて傲慢な客も多い。10時に終わって余ったドーナツを持ち帰って食べる気にもなるまいし。レジ用の窓がずっと空いてるから寒いし、油は跳ねて火傷しそうだし。社会経験のない僕には文句しか出てこなかった。

辞めるための算段を立て始めるにはそう時間はかからなかった。バイトを1週間で辞めるに足る正当な理由はないか。ドーナツの糖分で頭をフル回転させた僕は閃いた。「そうだ、豆乳アレルギーが発覚したことにしよう。」豆乳とおからを使っているドーナツ屋だからこそ使える秘技を思いつき、すぐさま実行に移した。「なんかバイト後手が痒いなと思い診断を受けると豆乳アレルギーでした。今まで豆乳を飲んだことがないため気付きませんでした。」直接言うには演技力が足りないから店長にLINEをすることにした。

コロンブスもびっくりなこの発想は功を奏し、1週間で誰もが納得する退職を遂げた僕の最終日にはなんと木村さんが来てくれていた。「ほんと頑張ってたのに残念だな」そう言う木村さんに涙しそうになってしまった。本当にすみません木村さん。過度に期待をした上にきついからといってすぐやめて。しかし「アレルギーだけど手袋をして続けます」という言葉は最後まで出てこず、ドーナツ屋を後にしてしまった。

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