科学的な非科学的なものたち

 お化けだとか幽霊だとか前世だとか、現在の科学と照らし合わせるとおよそ非科学的と呼ばれる類のものを信じるか信じないか論争の中に身を置くことを僕は好まない。

 また、この手の話をするときには僕があまり好きではない表現を用いることが皮肉なほどに便利であったりする。
 例えばこのような論争は「生産的ではない」、「建設的ではない」みたいなことである。特にどうという理由があるわけではないけれど、何か血の通わない表現だなあと常々感じているのだ。

 霊が見えるという人がいるなら、そして霊が居ないことを証明する手段がないのであれば、それはもう論ずる意味すらないのだと僕は思う。ただそれだけでいいと思う。
 たぶん誰も損しないのではないかな。得もしないかもしれないけれど、人によっては、浪漫、みたいな言葉を当てはめてなんだかワクワクしているのも良いものなのではないのかな。

 そしてその、今は非科学と呼ばれているものの中で、存在を確認できるものが将来的に見つかれば、それは一変して科学的なものになるわけで、その瞬間に残念ながら一つの浪漫は終了するのだろう。

 ただ、そんな風に考えれば、真摯に科学に向き合っている科学者ほど、未知なる不確定なものに対して簡単に結論付けたりはしないのではないかと、僕の無責任な憶測が生まれる。おそらく科学はある程度先述のような、浪漫を追いかけて追いついて浪漫の座を引きずり下ろす作業の繰り返しで今日に至っている節があるのだろう。そしてすかさず次の浪漫を見つけるなり作り出すなりしてきたと想像する。

 宇宙人はいるだろうか。僕は割とそのようなことはどうでもいいと思ってしまう。
 どうでもいいという表現はいささか語気が強い気がするので言い訳を添える必要があるが、いるのかな?居ないのかな?どんなんかな?こわいかな?やさしいかな?くらいの思いはあって、でも決してそれ以上の思いはなくて、というような状態であるから、それをきゅっと短くすると「割とどうでもいい」のようなこましゃくれた言い方になるのである。

 未確認のものや未発見のものなどを、その全てをということではないにしてもSFという言葉で括るとして、僕たちが身を置く宇宙について判明していることの方が少ないらしい。
 僕たちはSFの中を生きている。

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