風呂上がりの汗ばんだ時間に

 極力何も起こらない。なるべく少ない変化であってほしい。
 無意識にそんな風に考えていることが多いように思う。
 
 表現が極端になったせいで誤解を招くのは良くないから付け加えると、急激な変化の中に野蛮味を感じることが多くあるのだ。
 もちろん何も起こらない人生など面白くもないものだろうという程度の感覚は存分に持ち合わせている。けれど変化に伴って生じる摩擦のようなものに少しだけ胸が騒いでしまうのである。

 思考を文字に起こすという作業は、その輪郭がはっきりとしてくるという利点が、そのまま欠点にもなるのだということをこのようなテーマを記事にしてみると痛感する。
 つまりここで編まれた言葉ほどの強烈な思いではないものが輪郭が太すぎる表現になってしまっているのだ。
 ただ、日本語は世界の言語と比べて表現のレパートリーが豊富であるということなのでそのあたりは極力言い訳せずに言葉を尽くすべきなのかもしれないと、少し僕自身を律することにした方がよい。

 僕のこの変化に対する不安、というものは多分とてもほのかなもので、僕以外の多くの人ももしかすると割と似たようなことを考えているのかもしれないけれど、ただ、僕にとっては感じる程度が低いからと言って看過できない程度には重要な感覚であると思うのである。

 変化することで摩擦が生まれるような変化ならいっそ変化なんてなければいいと、少し心が疲れているときなどはそんな風に思うこともある。ただ、変化を恐れることで澱むもの、鬱積する社会のストレスなんてものもおそらくあって、ああもうどうすりゃいいんだ、などと思いながら若い頃を過ごすことも大事なのではないかとも思っている。

 今日は取り留めもないことをつらつらと書き綴るようなつもりでパソコンを開いて、思惑通り取り留めのない記事に仕上がったようで、満足してきている。

 僕は凪を望まない。
 僕は時化を望まない。

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