たようせいのひつようせい

 カテゴライズということにとても無機質で寂しい印象を受けるときがある。
 また一方でカテゴライズすることの便利さとパズルのピースがうまくはまった時のような気持ちよさを感じることもある。
 
 多様性について考えるとき、差別や区別の前に必ずカテゴライズの作業が意識的、無意識的に行われている。改めてそのことを認識するのは一つとても大切なことであると僕は思っている。

 そこには、異なるもの、という考え方が存在している。女性でいることというのは男性とは異なるものであること、のような具合に、人種にしても宗教にしても、間違い探しの要領で異なる部分同士を探す。そのあとはカードゲームの神経衰弱のように共通するもの同士をセットにして集めていく。

 こんな風にカテゴライズということを分解して考えていくと、多様性などという言葉が何とも大仰な感じに思えてくる。
 どこに着目して分けるか、という問題に過ぎないのである。
 ただ、おそらく残念なことに、という言い方が当てはまるのだと思うが、人間には進歩のための本能があり、その本能にのっとって優劣をつけたがる癖があるようだ。
 そのあたりがただのカテゴライズを差別だのいじめだのというネガティブな意味に置き換えてしまう理由なのであろう。

 このように振り返ってみると、きっと多様性を考える作業というものは今まで人類が歩んできた道の中で後ろめたい部分に対する禊のような意味になるのではないのかとすら感じる。

 しかし、誤解を恐れずに言えば、もう少し素直に前を向く作業、即ち未来に目をやる作業にこそ注意を向ければ、多様性を考える、ということの中に何か濁ったものを見出せるのではないかと感じるところである。

 確かに異なる個体として存在しているもの同士、ただただ愛だの思いやりだのに葛藤するだけで世の理は満足するのかもしれない。

 

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