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横浜の風に吹かれて⑤

まだまだ続く高校生活である。

 他校の先輩たちに頼んだことはもう一度あった。同じ高校に通うある女子生徒から、電話があった。下校の時間に待ち伏せをされたり、家までつけられたりして怖いとのことであった。話を聞いていくと、どうやら、商業高校の一年上の生徒らしい。今だったらストーカーというのだと思う。
 私は言った。
 「わかった、わかった。なんとかしておく。」
 私がなんとかできるわけではない。できるのは、電話して頼むくらいである。
 
 これは少し困難だったようだが、なんとかなった。ある日、同級生から、校門で渡してくれるように頼まれたといって、メモを渡された。「もう二度としないので、今回は勘弁してほしい」、と書かれていた。先輩に聞くと、「あの進学校はなんてことないけど、あいつだけは気を付けといたほうがいいぞって脅しといたよ」、と。全く勝手な方便である。本当に姿をみたらどう思うか考えてほしかったが、どうにか彼女には平穏が訪れて感謝された。もちろん、何があったのか、詳細は伝えていない。

 こんなことが続いたためか、校内での居心地はとてもよくなった。あまりスマートなやり方ではないが、学年を超えて、学校を超えて、仲間が増えたような気がしていた。
 
 少し目立ちすぎたかもしれなかった。ある日、自宅に小さな子供が書いたような字であて名書きされた封書が届いた。中には、新聞の文字を切り抜いて張った手紙が入っていた。
 「お前の秘密は知っている。大人しくしていないと殺すぞ。」
と。
 さすがの母もあわてて、ひとまず学校に持ってきた。担任に呼ばれた私は、相手がわからないし、ばらされて困る秘密もないし、どうしようもないと思っていたが、担任の口からでたのは、私に対する批判ばかりだった。 お前の態度が悪いからこういうことが起きる。何かあれば自分が困る、、、と。
 
 結局、担任は何も対応しなかった。二度と何も相談するまいと思った。担任からは、一度失った信用は二度と戻らないこと、ただそれだけを教わった。今もその気持ちには変わりがない。
 
 ほぼ見当は付いていたが、何もしなかった。学力・体力・人間性のあらゆる面で圧倒する力をつけるしかないと思っていた。

 私が進学した理数科は、今思えば、徹底した受験対策クラスであった。国語、社会はのんびりしたもので、3年間かけて授業がされた。少し不満があるとすれば、社会は地理、世界史など、科目を選択できるはずであったが、それができなかったことぐらいであった。面白いのは他の3科目である。

 数学は、当時は数Ⅰ、数ⅡA、ⅡB、数Ⅲとあったが、そのすべてを、2年の年末までに終えるカリキュラムであった。そのあとは、受験対策の練習問題や応用編になる。ところが、このクラスの生徒には、授業を聞く気などほぼない。半数以上の生徒は、授業よりずっと速いスピードで教科書を読みすすめ、1年生の終わりころには、数Ⅲまで終わらせていた。
 英語も同じようなものであり、理科にいたっては、物理、生物、化学、地学のすべてを履修する必要があった。

 授業の時間は自習の時間の生徒が多かったが、私は、授業以外の時間が忙しくて、授業時間は静かに先生の話を聞く時間に充てていた。生徒が授業を聴かなくてイライラしている先生にとっては、いい生徒だったかもしれない。とにかく、この時間を無駄にするわけにはいかなかった。
 
 生物の藤田先生は、非常に高いレベルの授業をしてくれた。教科書とは離れて、シュレージンガーの「生命とは何か」など、興味深い話ばかりだった。当然、この授業は生徒みんなが先生の話に耳を傾けるようになった。
 
 理数科には、実は文系志望ではいってくる生徒がいる。カリキュラムの魅力、受験に有利なことなどが理由らしい。私にはまったく理解できなかった。中村君はそんな生徒の一人で、隣の浜松市から磐田市の高校に通っていた。私立文系志望の中村君にとって、もちろん生物は退屈だった。
 
 ある日の生物の授業中、中村君はいつも通り文庫本を読んでいた。突然、藤田先生が中村君に向かってチョークを投げた。つかつかと中村君のところに行き、文庫本を取り上げると、思い切り頭にたたきつけた。ボシュッという音がした。そのまま何もなかったかのように授業は続いた。授業が終わると、藤田先生は、中村君を廊下に連れて行き、バシッ、ボシュ、ドスン。殴る蹴るの暴行である。メガネはとばされ、顔は腫れた。誰も何も言えなかった。中村君はうつむいてひたすら耐えていた。
 今だったら、大変な大問題である。当時は当たり前とは言わないが、こういうこともあった。
 
 この中村君、麻雀や花札が大好きだった。ただし、とっても弱かった。時々学校を休んでバイトをしていたという噂もあったが、本当のところは知らない。

 この頃はどこも3学期制で、1,2学期は、中間テスト、期末テストがそれぞれ一回ずつあり、3学期に学年末テストがあった。こちらは、範囲も決まっており、成績には反映されるかもしれないが、面白みのない試験で、ほとんど勉強はしなかった。

 面白いのは、一年生では年に3回実施される実力テストという試験だった。こちらは範囲の指定がない。そしてその結果、上位約30人が、点数とともに校内に掲示されるのであった。
 
 これは面白くて好きだった。範囲の指定がないので、どんな問題がでるのかわからない。こういうのは出題者との駆け引き、戦いだと思って楽しんでいた。
 
 私は、最初の試験の時、学年で23番で張り出された。420人くらいの中で23番である。満足していた。ところが、担任に呼び出され、「もっとまじめにやれ」と、ひどく怒られた。一気に敗北感を味わわされて参った。何せいろいろ忙しくて勉強する時間などないので、毎回賭けだった。一度は70番くらいまで下がって、その時は、進路相談の場で医学部希望と言ったら、「いつまで夢みたいなこと言っているのだ。」と笑われた。もちろん、夢ではなく、大真面目な目標だった。
 理数科の生徒に許される、唯一の選択は芸術だった。音楽、美術、書道から一つを選択できた。私は迷うことなく音楽を選択した。準備・片付けは他の2教科に比べて楽であったこと、担当の先生が、音大を出たばかりのきれいな先生だったことが主な理由だった。
 この先生には癒された。つかの間の休息を楽しむ時間、それが音楽だった。
 
 音楽にも試験がある。クラッシックの歴史のような問題で、勉強する必要もないような内容だった。後半は譜面を読むのが問題だった。譜面を見て何拍子か答えなさいと。あまりにも簡単なので、ちょっといたずらしたくなった。八分の六拍子と書くところだったが、三三七拍子と書いてみたら、このきれいな先生から、泣きながらひどく怒られた。担任にまで呼び出されて怒られた。あのかわいい先生を傷つけたといって、同級生にまで怒られた。
 
  よく遊び、また遊び、しつこく遊び、少し勉強していた。受験を意識するのには、まだもう少し時間があった。


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