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横浜の風に吹かれて②

 横浜の風に吹かれるまでは、まだ相当かかるが、引き続き中学3年生の私である。

 父の葬儀は、現役での、突然の逝去であったためか、田舎にしては随分派手なものだった。自宅の周辺には、50本にも及ぶ花環が並んだ。大人達が、花環を並べる順番を議論しているのが、その頃の私には不思議だった。「そんなの、届いた順でいいんじゃないの?」、という私に、「子供は口をだすな。」と言わんばかりに無視をする、おとなたちがかわいそうに見えた。何本か、「新宿 中田鋭二(仮名)」、「池袋 西園寺 龍(仮名)」などという、ちょっと変わったのがあって、「これは?」と聞いたら、「しっ」と言われて聞けなかった。
 
 親しい肉親や、大切な人を失った時に、改めて気づくことがある。どんなに悲しくて、もう二度と楽しく過ごしたりはできないと思っていても、面白いことがあると、思わず笑ってしまうのである。そして、時間が来れば、必ずお腹は空くということにも気づく。何か、少し後ろめたいような気持ちになったのを覚えている。
 
 時間というのは大きな力を持っている。どんなに大きな傷も、時間がたつと少しずつ癒えてくるのである。日常を取り戻しつつあった中学3年の秋、父を喪った私には、悲しんでばかりはいられない、重要なことが二つあった。
 
 当時、生徒会長だった私は、秋の生徒会長改選のための準備をしなければいけなかった。こちらは、他の生徒会役員さんたちが、いろいろ動いてくれるので、あまり私は大変ではなかった。せいぜい、引き継ぎの挨拶を、格好よく感動的にするために、どんな言葉を並べようかと悩むことくらいだった。小学校では児童会長、中学では生徒会長で、ステージに立って話しをすることは、何とも思わなかった。むしろ、自分の言葉で何かを伝えられることは、うれしく思っていた。
 
 私の3年上の兄も同じ中学の生徒会長だった。この中学では、毎週月曜日の全校集会で、生徒会長が5分くらいの話しをすることになっていた。生真面目な兄は、毎回、話す内容を下書きし、日曜日の夜はいつもそれを読みあげて練習していた。私はといえば、一度も原稿など書いたことはない。朝、朝礼が始まると同時に、今日は何にしようと、その時のひらめきをネタに話した。つい熱くなって、長く話すこともあったが、それはそれで楽しんでもらえていたと思っていた。
 
 何を話そうかと深く考えたことが2度あった。一度は、転勤になる先生がたを送る会でのあいさつだった。私は「会者定離」という言葉を使って、この別れの日の持つ意味を語った。これは先生方におおいにうけた。
 
 もう一度は、新入生を迎える、父兄の方々がたくさん来られる会でのことである。こういう時は、いいところを見せるチャンスであった。中学生という、もちろん大人でもない、そして子供というにはいろんなことがわかり始める、微妙な年齢をどう過ごすか、という話しをした。これも先生方にはとてもうけた。ご父兄がどう感じたかはわからないが、自立への道を歩もうとする私たちを、どうか暖かく見守ってほしい、というような内容で、簡単にいえば、もう少しほっといてくれっていうのを、言葉を飾って語ったに過ぎない。
 
 重要なことのもうひとつは、英語の弁論大会だった。毎年、地域の中学生の英語弁論大会には参加していたが、この年は、中学校生活最後の年でもあり、全国区に挑戦してみようということになっていた。
 自分で書いた文章を英語に直し、静岡大学のアメリカ人講師に来てもらって英語を直し、発音、話し方、態度など、練習に練習を重ねた。これは楽しかった。私は、"On our learning English"という題で、自分の英語とふれあった様々な体験、特にアメリカから来た中学生とのキャンプでの出来事を話した。
 
 地区の大会は、練習不足で散々だった。何度かつまずいて、大幅に時間もオーバーしていた。30秒以上のオーバーは失格になるはずだったが、時計係は「たまたま」自分の学校の先生だった。先生が言うのには、「ついうっかり」時計を測り間違えて、30秒ずれたので、失格にならなかったらしい。随分都合のいい「ついうっかり」である。子供ながらに、絶対嘘だと思ったが、先生の気持ちを踏みにじるわけにもいかず、黙っていた。
 
 静岡県西部大会で優勝した私は、静岡県大会へと進み、西部大会で2位だった他校生徒が優勝し、私は準優勝だった。各県の上位3名が全国へとすすんだ。母親、先生と、有楽町を歩きながら、将来はこの東京で仕事をしたいと思っていたが、自分の道はもう決めた、というようなことを話したことを覚えている。
 
 全国から集まった中学生は同じところに宿泊する。JNSA(Japan National Student Association)という組織の大学生が、私たちのためにいろいろ企画してくれる。そろいの青いブレザーをきた大学生のお兄さんお姉さんが、流ちょうな英語で話すのが、なんと格好良く見えたことか。ちなみに、上智大学のお姉さん方が、中学生の私には、一番きれいに見えた。それから、国際基督教大学のお兄さんが、宇宙戦艦大和をアカペラで歌ってくれた。あまりにも上手で聞き惚れたのを覚えている。自分もいつか、このブレザーを着てこの会に来ようと思ったものである。
 
 全国大会は150名の生徒がブロック予選を行い、最終的に15名で本選が行われる。ブロック予選は、今はもうない有楽町西武の中にある、よみうりホールで行われた。7-8名の、アメリカ人を含む審査員と、会場をうめる聴衆に、さすがに緊張したが、なんとか今までで一番の出来で終了できた。敢え無くブロック予選敗退となったが、とてもいい経験だった。
 
 決勝が終わった日の夜は、なんと帝国ホテルでパーティーだった。これは田舎の中学生にはまぶしすぎた。どうしていたらいいのか分からず、ただひたすら食べていた。総勢750人が迎えたのは、学習院大学の吹奏楽団だった。その中には、もちろん、浩宮様が演奏しているのであった。
 
 この大切な、記念すべきパーティーに、母は遅刻してやってきた。どうやら、伯父と神田で飲んでいたらしい。当然、父兄席の一番後ろの席に座っていた。宴もたけなわになったころ、新たな曲目の演奏とともに、後方からおみえになったのは、当時の皇太子ご夫妻のお出ましであった。
 
 強運の持ち主であった母は、遅刻したおかげで、お二人を迎える花道の最前列になった。どういうわけか、美智子さまは、母のところに歩み寄り、お言葉をおかけになった。その瞬間を、主催する読売新聞のカメラマンがきれいに写真に収め、数週間後、額装したうえで自宅に郵送してくれた。母は舞いあがり、訪れるひとごとに美智子さまと言葉を交わしたといっては自慢していた。
 
  中学3年生の秋であった。このあと間もなく、高校受験の冬を迎えることになる。

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