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横浜の風に吹かれて⑧

「ヒポクラテスたち」への第一歩が始まる

 一年生の間は、専門科目は「医学概論」程度で、あとは教養科目だった。二年生になると、「人体解剖学」が始まる。自分が医学を学んでいることを初めて強く感じる学問だった。

 私が進学したH医科大学は、医学部だけの小さな大学だったので、2年間の教養、4年間の専門、というのとは少し違っていた。たとえば、人体解剖の授業は、2年生から始まった。楔形カリキュラムと呼んで、単科の大学ではよく取り入れられていた。医学部のカリキュラムでは、医学部学生2人に1体の解剖学実習を義務付けていた。なので、私たちは、4人で一体の解剖を2回行った。医師になることを志して、初めて本当の医学に触れるときであった
 
 医学部のキャンパスには、600床以上の入院ベッド、外来、手術室等からなる、地上10階、地下一階の医学部付属病院があった。入学したばかりの学生にとっては、病院はまだ全然関係なくて、誰が医師で誰が技師で、誰が学生なのか、まったくわからない。
 
 病院から渡り廊下でつながって研究棟があった。地上9階地下5階のこの建物には、医学部の講座といわれる、整形外科、内科学第一、眼科などの臨床各講座。臨床とはつまり、患者さんとかかわって診療に携わる診療科のことである。臨床のほかには、生理学、生化学、薬理学など、基礎講座といわれるたくさんの講座の研究室があった。この建物内には、いつも何かしらの試薬の香りがした。
 そこからさらに渡り廊下でつながって、教育棟という、学生が授業を受ける教室が並ぶ棟があった。地上4階地下一階のこの建物の地下に解剖室はあった。解剖は、警察の要請による司法解剖も、基本的にこの建物の地下で行われていた。警察車両がたくさん停まっているときもあった。
 
 解剖学実習室の広い教室には、大きな解剖台が約50あり、私たちの解剖が始まる日には、そこに25体のご遺体が並ぶ。よく子供のころ、ホルマリンにつけられているご遺体のことを聞いたりしたが、25ものご遺体がどういうふうに保存されているのかを、私は知らない。解剖室に並べられた時には、確かにホルマリンの刺激臭が鼻をついて、マスクをしていても少しばかりの息苦しさを感じた。
 
 私たち学生は、誰もがとても厳粛な気持ちで解剖初日を迎えた。帽子、マスク、白衣、手袋をつけて解剖室での授業が始まる。このご遺体は、白菊会という、ご献体登録してくださる方々のご協力によって、私たちの教育のために提供されていた。

 ご遺体を目にして、また、解剖を始めて、気分が悪くなったり、卒倒してしまう学生は100人のクラスで、例年2~3人はいるとのことだったが、私たちのクラスは、なぜか全員平気だった。担当教官の簡単な説明を聞いた後、「人体解剖学手引書」にしたがって、体表の観察から順番にメスをいれて解剖を進めていく。
 
 初日に何をしたかなど、緊張していたのか、ほとんど覚えていない。およそ2カ月くらいをかけて、解剖を進めていく。体の大きさや性別に違いはあるものの、肺、心臓、肝臓などの臓器、また神経、血管などが、あまりにも教科書通りに、整然と人体に配置されていることに感動した。そして、細い神経や血管の一本一本にもそれぞれ名前がつけられ、この人体の中で役割を果たしていたことを認識した。
 
 この解剖で培った知識や経験が、のちにどんな所で役に立つかなど、このころは全く知らない。ただひたすら、教科書に見えると書いてあるものを、確実にみる努力をしていた。
 
 2週間もすると、体についたであろう、ホルマリンの匂いも、手袋や白衣の隙間から入り込んだであろう、小さな組織片の体への付着も、ほぼ気にならなくなる。解剖の実習の途中で昼食のために休憩し、食後にすぐにまた解剖に取り掛かるなど、今考えると、少し不思議な気がする。
 
 解剖学の教授は、とても厳しくて、毎年たくさんの留年者を出していた。この厳しさは、ついつい慣れてしまって、ご遺体に対する畏敬の念がおろそかになりがちな学生には、とてもいいことだったと思う。何せ、ついこの間までまだ高校生だった、20歳程度の若者たちである。何らかの強制力は常に必要だった。
 
 このころはまだ、自分が将来どんな診療をする医師を目指すかなど、ほとんどの学生は考えていない。解剖中、ご遺体といえども、メスを体に入れることによって、ぼんやりと外科系に行こうか、内科系に行こうか、または基礎医学の学者になろうかなどを考えることがあった。
 
 解剖学の授業には、骨学という、体中の骨を学ぶ学問や、組織学という、顕微鏡レベルの実習があった。組織学は、染色という方法で何ミクロンかの単位でうすく標本にされた組織が、細胞によって赤や青などに染まっているのを観察した。解剖に比べてダイナミックな部分がなく、妙に難しく感じたが、試験は標本のスケッチなので、不得意な感じはなかった。スケッチは幸い、いつも教授にほめてもらっていた。
 
 医学部6年の学生生活は、まだ始まったばかりであった。さまざまな基礎実習をしたのち、臨床科目の授業を一通り受けていくことになる。まだ医師になる実感がわかない頃であった。

 医学部学生は、今では、その4割程度が女性になったが、私の頃は、2割には満たないのが普通だった。私たちの学年は多いほうで、100人のうち、20人程度だった。年齢は様々で、多分平均年齢は、他の学部よりは高いと思う。かつてともに働いた同僚で、みんなから、「ごろうちゃん」と呼ばれている医師がいた。てっきり五郎だと思ったら、5浪しているから「ごろう」だった。私の同級生でも、入学時の最高齢者は35歳の妻子持ちだった。そんな人はたくさんいて、なんとなく現役組は子ども扱いされていた。今思えば、医学部で学ぶ膨大な量を、記憶して行くのは大変だったろうな、と思う。
 
 解剖実習が終わると、ひとまず一段落するが、ここで単位を落として留年する同級生は少なくない。100人の定員で入学するが、一緒に6年で卒業するのは、おおむね70人くらいだった。もちろん、落ちていくのと同じくらい、上から落ちてくるので、卒業するのは毎年100人くらいだった。


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