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横浜の風に吹かれて⑫

 やっと、ほんの少し横浜の風に吹かれることになる。

 浜松の病院では、たくさんの手術を経験した。大変貴重な2年間であった。この頃は、通常、2年間勤務すると、別の病院に異動することになっていた。大学医局の関連病院という枠の中での異動である。これはなかなかわかりにくいが、私の頃は、人事権を握っているのは、大学の教授であって、勤務している病院の院長はかかわれなかった。よく、ローンを組んだり、クレジットカードを作ったりするときに、勤務先と同時に勤続年数を書くことがあるが、少し悩む。いろんな人に聞いたところ、医師になってからの年数を書けばいいそうである。そうでないと、勤続年数がすごく短いことになる。
 
 2年間で、たくさんの経験をできた私は、次は少し小さな病院で我慢してくれといわれた。もちろん、意義を申し立てることなど絶対にない。指示されたのは、横浜市金沢区の病院だった。どんなところかも、どんな大きさの病院かもわからなかったが、とにかく行くことにした。長男は、せっかく入園した幼稚園を2ヶ月でやめることになった。
 
 この異動が、私にはまたチャンスだった。何せ、上司は一人しかいない。しかももう何年も上なので、入院患者さんの管理、治療方針の決定など、すべて任せてくれた。医師になって5年目でこういうチャンスはなかなかない。手術も、できるところまで任せてくれて、どうしても無理なときだけ変わってくれた。
 
 ちょうど、みなとみらいが整備され、ランドマークタワーがたった頃である。そしてまもなく、八景島が完成した。思えば、千葉にいた頃は幕張メッセが完成し、こういうめぐり合わせなんだと思って、少しうれしかった。八景島ではその頃よくロケがあって、撮影中の事故など、よく診察したが、あまり有名な人が来ることはなかった。
 
 脳神経外科の場合、6年間の臨床経験をつんだ後、7年目の夏に専門医試験を受ける資格が得られる。なので、6年目から7年目にかけては、非常に貴重な時間になる。ところが、この6年目になるときに、上司がやめてしまった。地元の伊豆に帰らなくてはならなくなったと、、、。代わりの医師が来る余裕は医局にはなく、私はまだ専門医でなかったので、一年過ごした横浜を去る覚悟をした。
 
 ところが、ある日、大学の助教授がわざわざ病院にやってきて、
 「君、もう一年がんばってくれ。浜松からは遠くてなかなか手伝ってあげられないけど、まぁ、一人でがんばってくれ。」
 「え~~~?」
 
 もうやるしかない。しかし、考えてみればチャンスである。近くにあった横浜市の大学病院にでむき、手術の時には手伝ってほしいことなど、さまざまなことを相談して了解してもらった。このときのいろんな先生とのお付き合いが、その後何年もたった今も続いていて、とっても有意義だった。
 
 一人でできる手術は一人でやり、麻酔も術後管理もすべてひとりでした。たくさん汗をかいた。6年目の秋ぐらいから、専門医試験の勉強をはじめるのが一般的だった。とても難しい問題で、何せ、6割しか受からない。が、一人で入院患者さんもいて、外来もあって、もちろん勉強する時間はほとんどない。困り果てたが、年が明ける頃から、寸暇をおしんで勉強した。
 
 人生で一番勉強したときかもしれない。もう二度とあんなに勉強はできないと思う。

 脳神経外科医にとって、専門医試験の受験は、自分のキャリアの大きな節目である。6年の臨床経験が必要なので、医師になって7年目に受験することになる。試験は、毎年夏、東京でのみ行われる。何せ、受験者の6割しか合格しない。受験するのは、脳神経外科を先行してこれからの人生、ずっと脳神経外科医としてやっていこうとする医師である。私の頃は、例年400人くらいが受験して、240人程度の合格が通常だった。今は、脳神経外科は人気がなくて、すごく減っていて、受験者が240人くらいと聞く。
 
 一人で脳神経外科診療をしていた私には、当然勉強する時間はあまりなかった。同級生はみんなで勉強会などといって集まっていたが、私は一人で勉強した。静岡や浜松にいる同級生に合わせるわけにもいかなかった。

 30歳を過ぎていても、学生の頃と同じである。勉強していないと、なにか落ち着かない。何もしないでいるとなんか焦るので、妙に時間をかけて仕事をしたりしていた。何かないかな?と思って立ち寄った東急ハンズで、「パステルで描く」という、教材ビデオ付きのパステルを見つけた。「これだ」と思った。すぐに買って、じっくりビデオをみて描いてみた。
「お~、結構描けるじゃん!」
勉強の時間は減っていった。

 あと1週間で試験という夜。そろそろ救急患者さんは、近くのほかの病院にお願いして、勉強の時間をつくろう、と思っていた。こんなことを思うからいけない。救急車の音。数十分後に病院から電話。当直の先生である。
「先生、お休みのところすみません。くも膜下出血の患者さんが搬送されました。お願いします。」
 すぐに駆け付けた。血圧を下げる処置。追加の検査。ご家族に結果の説明。手術の準備。スタッフの招集。手術の準備。手術。夜が明ける。朝からまた外来。夜は勉強、、、。

 試験は5択の問題が250問出題される。これで、合格が半分くらいである。合格すると、翌日からの3日間のうち、指定された日に、面接試験を受けることになる。ここまで、ずいぶんたくさんの試験を受けてきたが、これほどできた、という実感のない試験は初めてだった。試験会場近くのホテルで、放心状態の時を過ごした。試験の前も緊張で、試験のあとも緊張で、十分に眠れないなんてことは、後にも先にも、この時だけだった。
 
 同級生4人で受験したが、無事、全員が合格だった。
 合格発表の翌日が、面接試験だった。約15分ずつ、3つの部屋を回る。各部屋に試験官の教授がが2人いて、一人が質問する。たとえば、脳腫瘍のMRI
画像を見せる。
「診断は?」
「頭蓋咽頭腫です。」
「OK。じゃ、手術して。」
 頭の形をした人形を渡され、皮膚をどう切開するか、どのように骨を外すか、腫瘍を摘出するにあたって、どんなことに気を付けるか?などなど。
 
 あるいは、血管の検査の写真を見せられて。
「じゃ、手術記録書いて。」
といって、白い紙を渡される。これは得意なので、簡単。
「お~、君、いいセンスしてるね~」
 
 頭蓋顔面の奇形の手術など、普通はなかなか経験しないが、浜松の病院でたくさん見ていたので、この面接はなんてことなかった。
 
 数週間後、無事、合格の通知が来て、無事専門医として認定された。
2年間を、比較的小さな病院で過ごし、2年目の1年は、専門医でもないのに、ひとりで脳神経外科の診療を行った。
 
 次の1年は、少しわがままを聞いてもらうことにした。少し基礎的な研究がしたかった。

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