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横浜の風に吹かれて⑪

話は少し重くなる。

 浜松市の隣、I市は、私が生まれ育った町である。その頃は、兄夫婦と母親が暮らしていた。I市には、総合病院があり、そこにも脳神経外科はあった。その日は、穏やかな秋の日だった。I市民病院の脳外科の先生から電話があった。
 
 「先生のお母様が救急車で運ばれました。すぐに頭部CTを施行した結果、くも膜下出血のようです。状態はあまりよくありませんが、先生の病院で治療されますか?」
 
 「先生、お世話になりました。すぐに迎えに行きます。」
 
 上司に報告し、すぐに車で迎えに行った。帰りはもちろん救急車である。眼は開けているものの、コミュニケーションはとれず、声は出るが唸り声のみ、救急車内で何度も吐いていた。くも膜下出血は、脳の血管にできた瘤が破裂して起きる病気である。激しい頭痛、意識消失、嘔吐などが主な症状である。
 
 病院に到着すると、すぐに検査ができる体制を整えていてくれた。すぐに脳の血管の検査、左の脳の血管に瘤があった。脳の中に出血もしている。
 
 上司に相談すると、
「先生が決めればいいよ、脳神経外科医として。先生が手術と決めれば全力でやろう。私に執刀を、と先生が決めれば私がやる。先生がやると決めれば私が助手をする。今日が良ければ今日やろう。明日がよければ明日でもいい。状態はよくはないので、先生がやらないと決めれば、それも一つの方法だと思うよ。」と。
 
 別の上司は、
「親孝行のお手伝いするよ。何時まででも最後まで付き合うよ。」と。
 
 兄に病状を説明した。患者さんの家族に説明するように丁寧に説明したが、あとからこう言われた。
「聞いているときは、よくわかった気がするけど、頭はパニックで、あとから思いだすのは無理だな。説明書みたいなのがないと難しいよ。それから、質問あるかって言われたって、なかなか質問なんかできるもんじゃないよ。」
普通の感覚を忘れかけていたので、こういう声は、その後の勉強になった。
 
 私が執刀した。脳神経外科の上司も、麻酔科の先生も、看護師さんたちにも、みんなに手伝ってもらって、手術はどうにか終わった。最初にメスを入れるまでは、何とも不安定な精神状態だったが、始まってしまえば、いつも通りのことを、冷静にできた気がする。
 
 くも膜下出血は、手術のあとも、様々な病状の変化があり、いわゆるヤマと言われる時期は、病気が起きてから2週間と言われる。まさに2週間目の夜、母は亡くなった。ついに一度も意識がはっきりすることはなかった。父親の死に目には会えなかった私が、母の死亡を宣告した。
 
 山、絵画、自分でも油絵を描いた。ゴルフ、写真など、たくさんの趣味をもち、人がうらやむほどの人生を楽しんでいた母は、54年の人生を、11月3日、文化の日に終えた。

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