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横浜の風に吹かれて⑭

 ボストンでの生活が始まった。子供たちは、まずは英語の学校に通ったのちに、現地の小学校に入学した。ボストンには、通常の日本人学校はなく、少し離れたところに補習校として、土曜日のみの、日本人学校があった。もちろん、我が家の子供たちは、現地校にしかいかなかった。ただ、ボストンと、私たちが暮らしたブルックラインには、日本人が多く、日本の子供はこの学校、という具合に決まっており、その学校に行けば、日本人の職員が数人いたし、日本人の子供がクラスに何人かいた。
 

 次男は、小学一年生だった。もともと日本語もちゃんとしていないうえ、人見知りすることはなかったので、あっという間にアメリカに溶け込んだ。サマータイムは夜9時ころまで明るいので、とにかく一日中走り回って遊んでいた。学校が終わって帰ってから遊び、夕御飯のあとまた遊びという具合である。ボストンのあるマサチューセッツ州では、12歳以下の子供が、子供だけで屋外にいることは、基本的には許されないので、親がついていなければならなかった。誘拐が多いためとは思うが、12歳になった途端、女の子は結婚が許され、14歳になれば、自動車免許もとれるし、男の子も結婚できるというのは、不思議だった。一方で、飲酒や喫煙は21歳からってのも不思議だった。
 アメリカ人の子供とも、Hey!とかYah!とかいいながら、いつの間にか友達になる姿には感心した。英語を覚えるのも早く、発音も我が家では最もアメリカ人に近かった。帰国した後で、一年生はやはり基本であることを痛感もしたが、まぁ、いい経験だった。ただし、文法はもちろん無視である。それでもちゃんと通じるってのは本当だった。英語教育と英会話教育は違うんだと思った。日本に帰って、英語の文法を学んで、「あ~、こういうルールだったんだ。」と、長男と話しているのがおかしかった。
 当時、サッカーのワールドカップを主催したあとで、アメリカでもサッカーが人気のスポーツになっていた。次男は、ここでサッカーをはじめ、休みはいつもサッカーだった。結局、中学3年生までサッカーをやり続けることになったサッカーの原点になった。
 
 
 ボストンの夏には、アイスクリームとレモネードが欠かせない。アイスクリームのお店はたくさんあるが、難しいのはvanillaの注文である。なかなか通じない。bananaが出てきたり、何度も聞きなおされたり。ためしにbananaを注文したら、ちゃんとbananaがでてくる。バニラが欲しいというと、「今日はチョコレートしかないんだって」、などと言ってごまかしていたが、ある日、次男が自分で注文すると、なんとあっさりvanillaがでてきた。こういうことは何度かあった。
 
 学校では、担任のフレン先生が大好きで、とてもかわいがってもらった。クラスでも、いつも気にかけてくれて、いい先生に巡り会えた。1年の滞在を終えるころ、先生にあいさつに行くと、
 「子供たちにとって、クラスメートと別れるのは初めての経験なので、とてもつらい思いで、泣いてしまう子もたくさんいると思う。自分たち教師にとっては、よくあることで、もう慣れてしまったが、一年生の子供にはつらい経験だね。」
と言っていた。たしかにそうだろうな、と思ううちに、次男の学校生活最後の日がやってきた。
 
 一番最初に泣き出したのは、フレン先生だった。大泣きである。話が違う、と思いながら、こちらも泣けてきた。フレン先生は妻のほうに泣きながらやってきて、思い切りハグしながら、二人で泣いていた。次に私のほうに向かってきたので、ドギマギしていたら、握手のみだった。少し寂しかった。
 
 アメリカの教育は4年生くらいから急に難しくなるが、1年生はまったくお遊びで、楽しいばかりの学校だった。この一年が、その後にどう影響したかはわからないが、違う空気の中で生活した一年が与えた影響は少なくないと思う。ただし、本人はこのころの生活を、ほとんど記憶していない。なんとなく場面場面の記憶が残っている程度である。もちろん英単語もすっかり抜けている。発音だけはびっくりするほどボストンではあるが、、、

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