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横浜の風に吹かれて⑦

 医学生になった。

 予定通り、期待通り?家から通える医学部に入学した。たまたま共通一次試験の会場がこの大学だったので、その時に初めて大学をみた。様々な準備の機会が提供される、今の受験生からは考えられないかもしれないが、私の頃の田舎の高校生は、みんな、こんな程度だった。何しろ、模擬試験代わりに受けたちょっと特殊な、当時の自治省や防衛庁の設置した大学以外は、ここしか受けていなかったので、大学なんてものはほとんど知らなかった。

 兄の通う、都内の大学が唯一のイメージで、そこには行き交うおしゃれな学生の華やかなイメージしかなかったが、医科大学は少し違った。おしゃれとは程遠い雰囲気、そして大学は田畑の広がる郊外にあった。
 
 4月中には自動車免許を取得した。やっぱり。母は、自分が必要な時にいつでも送り迎えをし、それを優先することを条件に、私が通学にも使う車を買ってくれた。トヨタのコロナという車だった。少し贅沢かな?とは思ったが、これは助かった。入学間もないころから車で通えるのはよかった。田舎の大学なので駐車場は広く、当時は無料だった。
 
 あこがれの大学生生活と思ったのもつかのま。医学部のカリキュラムは驚きだった。新設の(昭和49年開学)、地方の単科大学は、他の大学との差別化、単科であることを利用などの考えのもと、教養と専門がくさび型に組み合わされるカリキュラムで、ほぼ、学生側に選択の余地はなく、朝から晩まで、高校生の時と変わらぬ感じの時間割が組まれていた。
 
 おまけに、広大な土地は、病院とその駐車場に使われ、キャンパスはどこ?って感じだった。
 
 よく、医者になるにはお金かかるでしょ?なんてことを言われるが、そんなことはない。私の頃の国立の授業料は、年間216,000円。入学金、設備整備費等を入れても、6年間で150万円くらいだった。当時は、2年ごとに学費が改定され、入学時の学費が卒業まで変わらないので、上級生の学費はもっとずっと安かった。物価は好景気で年々上昇していった時代だったので、それを反映して入学金も改定の度に大幅上昇だった。それでもこれである。つまり、相当の国家予算によって医者は育てられるということである。
 
 高校生レベルなのは、カリキュラムだけではない。何せ一学年100人で、他の学部のない大学である。学生は600人くらいしかいない。入学後の研修でバスに乗って、遠足のように、大学からそれほど遠くない、蜆塚遺跡というところに行った。一通り見学したあと、7~8人のグループに分かれて、ディスカッション。大学生活の抱負を語り合った。
 
 医学部の半数以上は浪人生で、クラス最高齢は、入学時35歳だった。2年や3年の浪人は当たり前で、私たち現役組はむしろ子供扱いされた。研修用の小さな部屋で、ひとりずつ話し始める。同じグループの学生が言うことは、がっかりだった。
 
 「大学生になれたので、彼女がほしい。」
 「麻雀を覚えたい。」
 「高校では部活動とかやりたかったんだけど、受験のために我慢していたので、大学では運動部に入りたい。」
 
 医学部は普通、卒業したら医者か医学研究者になるのが通常で、就職活動はない。他の学部よりずっと職業に直結する学部である。目標はわかりやすく、医師国家試験に受かることだった、はずである。医学部の学生として抱負を語るんだと思っていたので、正直、拍子抜けした。
 
 彼女はいたし、麻雀はもうやめようと思っていたし、運動部はもう十分やったのでもういいかなと思っていたし、、、なので、まじめに勉強していた。
 
 「お前、勉強ばっかりしてんな。」
 「もっと遊べば?」
 「つまんねえやつだな。」
 なんてことを最初はよく言われた。お前らに言われる理由はないよって思っていたが、ひとまず、「そうだね」と言っておいた。彼らが、勉強しなきゃって気づくまで。そして、一緒にカラオケに行ったりするまで。
 
 このころは、ちょうどレーザーディスクカラオケが出始めて、「カラオケあります」ってのが宣伝になった時代から、「レーザーディスクカラオケあります」って時代に変わったころである。もちろんカラオケボックスなんてのはないので、同じ店で、全く知らない人が歌うのを聞いて拍手したり、「お上手ですね。」なんて言ってみたりする。
 カラオケは、入学前によく行った自宅近くの和風スナックで覚えた。母が留守の時など、面倒くさいので、そこにご飯を食べに行った。おおらかな時代で、中学の先生に会ったりしたが、まったく普通に話しながらご飯を食べた。ほろ酔いの先生に、「歌え~」なんて言われて、石原裕次郎やフランク永井を歌った。
 
 その頃のカラオケは、歌詞集みたいなのがあって、そこに載っている曲のみ8mmのカセットの伴奏で歌うことができた。(前奏 20秒)とか、(間奏 22秒)とか書いてあるが、歌いだしがよくわからない。お店のお嬢さん?お姉さん?お母さん?が、歌いだすところに合わせて、指を広げた右手を私のほうに差し出して、「どうぞ」って感じで手を差し出す。うまく歌いだせないと、たいていはもう一本あるマイクでリードしてくれる。
 
 同級生には、カラオケのお店や、マハラジャ(懐かしいでしょ)、それから麻雀などを教えてあげて、それからはうるさいことを言われなくなった。


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