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横浜の風に吹かれて⑬

 横浜の風に吹かれたのはほんの少しだった。
 名古屋、浜松、ボストンへと、大移動が続く。

 無事、専門医試験に合格して一息ついた7年目だった。余談ではあるがこの専門医試験。私の頃は、受験するのに5万円を支払った。合格すると、登録料?が7万円かかる。今はきっともっとずっと高い。なんでこんなにかかるのか不思議ではあるが、当時はとにかく受かったのがうれしくて、喜んで支払った。かわいいものである。

 この年の秋から、研究者としての一年を、名古屋大学で過ごした。一年間、ひたすら脳腫瘍の浸潤のメカニズムと脳腫瘍の遺伝子治療について研究した。一年間の研究で、英語論文2編と日本語論文1編が書けて、のちに医学雑誌に掲載されたので、なかなかの成果だった。この一年間はとても多くの先生方のお世話になり、最も有意義で密度の高い一年だった。
 
 地方の小さな医科大学出身の私にとっては、大きな大学の雰囲気はとても新鮮だった。著名な先生の講演など、浜松にいたら東京、横浜、名古屋などに出かけていかなくてはならないが、名古屋大学にいると、向こうが来てくれる。わざわざ研究会に行かなくても、大学にいればたくさんの有意義な講演に出会える。
 
 一年の予定が終わる頃、ボスに呼ばれて、このまま名古屋大大学に籍をうつさないか?と誘ってもらった。とてもありがたいことではあったが、ここで学んだことを、母校でいかして発展させたいという気持ちが強かった。もともと無理を言って国内留学させてもらったことに対する感謝もあった。
 
 出身大学に戻って、助手として臨床に研究に教育に励む日々を過ごし、3年が経過する頃、アメリカに留学することができることになった。文部科学省在外研究員という制度であり、大学に籍を残したままの、長期出張であった。この留学、事前に相手先の研究室に受け入れ可能の証明をしてもらわないといけない。これには、名古屋大学の先生方が、助けてくれた。名古屋大学でお世話になった先生が、かつてニューヨークのロックフェラー大学に留学中、同僚であった研究者が、その頃ハーバードで教授になっていた。私の申し出を、快く受け入れてくれた。
 
 名古屋大学での仕事で、すでに学位をもらっていたので、なんとなく余裕の留学だった。そして、長期出張ということは、給与は全額出るということで、かつ、日当が1日あたり13,000円くらいでた。ところが、ボストンという街、すごく家賃が高い。当時は1ドルが130円台であったが、2LDKに駐車場がついて、ほぼ2,000ドルだった。日当分は、これで終了だった。
 
 とにかく何とか留学準備を整えて、家族で引っ越しした。長男は小学4年、次男は1年生を、アメリカで過ごすことになった。

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