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横浜の風に吹かれて⑥

まだまだ続く静岡県の田舎の物語りである。

 人には、転機となる出会いが訪れる。
 担任からも、医学部進学なんて無理だと言われ、自分でもちょっとまずいかな?と思っていた頃であった。
 このころ、一番仲よくしていたのは、栗田君だった。彼は、自衛隊のパイロットになることを夢見ていた。高校2年生の一時期、栗田君は、まるで私の家に下宿しているような生活をしていた。
 学校が終わると、私と一緒に私の家に帰る。「ただ今」と言って。母も何の違和感もなく、「おかえり」と受け入れていた。時には、私が遅くなると先に帰っていて、母とおしゃべりしていたりする。帰ってきた私を、「お帰り」といって迎えてくれたりした。
 
 彼とは、本当によく話をした。政治のこと、勉強のこと、自分の将来のこと、お互いの夢を語り合った。これが面白い。柔道、空手、少林寺拳法有段者の彼は、何に対しても真剣だった。
 私には、いい刺激になった。自然、麻雀などの遊びをしなくなっていった。他校の先輩たちも、「お前、そろそろ俺たちと遊んでばかりいないほうがいいんじゃないか?」、と言って、誘わなくなってきていた。
 
 栗田君とのつきあいは、いい循環を生んだ。
 学校が終わって、まっすぐ家に帰るようになると、家が近い安間君とよく一緒に帰るようになった。彼は、大学は違ったが、結局私と同じ道にすすんだ。この頃は、彼にはそのつもりはなくて、赤門をくぐることを考えていた。
 どうやったらもっと効率よく勉強できるか、どうしたら試験の点数がもっと上がるか、試験の時に、学年で30番くらいまでを理数科で独占するためにはどうしたらいいか、なんてことをいつも話していた。
 これもいい刺激になった。
 
 高校2年の冬、山口百恵は引退し、ジョン・レノンは銃弾に倒れた。将来をまじめに考えるときが来ていた。今まで遊びに費やしていた時間を勉強に使えるようになり、成績は上昇し、実力テストの順位は一桁を維持するようになった。
 
 同じ頃、近くの女子高に通う女性との出会いがあった。
 たくさん恋をした。どうやったらもっともてるか、そればっかり考えていた頃もあった。逃げられれば追いかけ、追いかけられれば逃げたくなる、そんなローティーンの、恋に恋する時代は卒業しなくてはいけなかった。
 
 恋とは感情であり、愛とは意志である。だから、いっぺんにたくさん恋はできるけど、愛せるのは一人だけ。そんな風に考えていたあの頃、どうやったら、憧れのあの子と二人で会えるか、手をつなぐにはどうしたらいいかってそんなことしか考えていなかった私が、意志をもつことになった出会いだった。
 
 当時、周りの大人からは、母や祖母のためにも、家から通える医学部に(もちろん、一つしかない)、浪人しないで入れ、と厳命を受けていた。いう通りにしておけば、あれこれ考えなくていいので、妙に素直に受け入れていた。とにかく高校3年生の一年はまじめに勉強した。

 ところが、共通一次試験当日、なんと39.6℃もの熱をだしてしまった。今思えばインフルエンザだったと思う。追試験は難しくなるので、まぁいいや、と思って、誰にも言わず、そのまま平気な顔をして試験を受けた。ただし、行き帰りは公共交通機関を利用するのには熱が高すぎた。
 行きも帰りも、二日間、彼女の父親、つまり今は義父が、車で送り迎えをしてくれた。今も心から感謝している。母は何をしていたんだろうと思うが、どうもこのあたりの記憶がはっきりしない。
 
 当時は、5教科7科目の1000点満点だった。高熱のあった私は、満点狙いだった数学で約分を忘れる失態を演じてしまった。それでも合計で893点と、まずまずの得点だった。なんとなく息切れして、2次試験の勉強も手につかず、毎日家でごろごろしていた。
 「何もしないでいるんだったら、自動車学校でもいったら?」
と母に言われ、素直に従った。はやく免許を取らせて、足代わりにしようとしていたわけではないと思うが、受験生に自動車学校に行けというのは、今思えばすごいと思う。新しく覚えることができて、また生活が充実してきた。
 
 2次試験はそこそこ無難にこなし、無事、医学部に合格した。
 医学部なんて無理だと言い続けていた担任からは、
「本当によく遊びよく学び、いい高校生活だったな。」
と言われたが、嫌味としか受け取れなかった。
 
 とにかく医学部合格である。正直ホッとした。
 母には「おめでとう」くらいは言われた気がするが、あまり覚えていない。油絵を描くこと、ゴルフに行くことに忙しい母という記憶しかない。
 
 長い長い、6年間の医学生の生活が始まった。


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