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横浜の風に吹かれて⑩

 横浜の風に吹かれながら書いてはいるが、横浜はまだ遠くにあった。
 
 連休明けの出勤初日、脳神経外科には、私を含めて4人の研修医がいたが、先輩から、当然のように、「じゃ、今日から順番で当直して。」といわれ、初日は私が当直することになった。当直室は、当直料(びっくりするほど安いが)をもらっている上司が使うため、私たちサービス当直の研修医はミーティングルームにおいてあったソファベッドを使って眠るしかなかった。
 
 翌日ももちろんフルに働いて、帰るのはいつも深夜だったが、若さゆえ、なんとも思わずに働いていた。今では不思議にも思うが、当時はどこもそんなものだったはずである。なんてひどい生活だろうと思うが、当時は知識・技術を身につけることばかり考えていた。もう一度戻りたくはないが、医療を、そして人生を学ぶ大切な時期だった。あのときがあったから、今も頑張り続けられると思う。こういうことは、同世代の誰もが言う。今の世代がこれからどうなっていくのか、やや不安に思う。
 
 とにかく一年間、馬車馬のように働いた。

 医師になって最初の2年間は、初期研修医と言われる。この間に、必要があれば、関連する診療科での研修が実施されることになる。私が所属した脳神経外科では、2年目の一定期間を、麻酔科で研修することになっていた。外科系の診療科では一般的なことであった。今では、麻酔は麻酔科の先生が行うのが当たり前になったが、以前は、自分で麻酔をかけて自分で手術することも当たり前のように行われていたためでもある。

 1年目の終わりころになると、来年どうする?って話になる。私たちに与えられた選択肢は、大学に残って麻酔科研修を半年と半年を大学病院、新宿の東京K年金病院で麻酔科と外科の研修を6か月ずつ、そして千●県Q医療センターの麻酔科・集中治療科で一年間の研修、であった。

 すでに結婚して長男が生まれていた私は、3か月~6か月での異動は避けたかったので、一年間の研修が可能なところを希望した。幸い、そこを希望したのは私だけだったので、すんなり決まった。自分が生まれた地元で育ち、大学も地元だった私にとっては、初めて知らない土地で過ごす一年だった。千●の街は、稲毛の浜という海が近くて、とてもいいところだった。
 
 救急専門の病院では、土曜日も日曜日も関係ないので、働くほうも4週6休で、休みはきっちり休むことができた。子供も小さくて、あまり遠出もできないので、平日に休んで、ディズニーランドに行ったりしていた。車で15分程度の近さだった。丁度、幕張メッセができ始めたころで、マリンスタジアムが完成したときは、マドンナがコンサートにきたり、メッセが完成したときは、ジャズコンサートがあったりした。
 
 この一年はとても勉強になった。全身を管理することの重要性を学び、その方法を知った。救急専門の病院の集中治療室(ICU)には、実に様々な患者さんが搬送されてきた。フグ中毒、破傷風、自殺企図による全身熱傷、農薬(パラコート)中毒、飛び降り自殺などなど、今でも、ここでしか見たことのない患者さんがたくさんいた。
 
 大学で研修医とはいうものの、脳神経外科で何にもの患者さんがなくなる瞬間に立ち会ってきたが、脳神経外科の患者さんは、最後は意識がなくなって、痛みも感じなくなっていることが多かった。ところが、ここでは、心臓病など、ぎりぎりまで意識があって、息を引き取っていくのが、どうにも納得がいかなくて、最初は無力感ばかりを感じていた。
 
 一年の研修が終わるころには、いろんな知識や技術を身につけて、今度は少し、あとから思えば天狗になっていた。「ここに来れば何でも助けてあげる。ここで助からなければ、どこに行っても助からない。」と、本気で思っていた。
 
 一年の研修が終わって、また浜松に戻ることになった。医師になって3年目、ここからやっと脳神経外科医として働き始めることになる。天狗の鼻は、いとも簡単にへし折られる。

 浜松に戻り、地元では大きな、700床以上ある病院に、脳神経外科医として勤務することになった。医師になって3年目である。
 
 2年間の初期研修を終え、なんとなく医師として少し成長したような気になっていた。特に、2年目の一年間、麻酔科・集中治療科で学んだ全身管理の知識や技術が、自分を誤解させていた。今思えば、いつも高い緊張感を維持しようとして、周りにも同じことを求めていた。
 
 ある日、手術後の傷口を消毒したあと、介助してくれていた新人の看護師が聞いた。
 「ガーゼ何枚必要ですか?」
 「それくらい、傷見て、自分で考えろよ。」と私。
そりゃないよ、と今は思う。新人の彼女は、回診に入る前に、「よろしくお願いします。」と。おそらく、相当の緊張感であったはずである。
 
 彼女たちにとって、3年目の医師も、10年目の医師も、同じ医師であり、同じ緊張感で接してくれていたはずであった。ガーゼは、2枚ずつ、5枚ずつなど、滅菌と言って、医学的に清潔な包装がされているので、無駄なく準備をするように、何枚必要かを聞いてくれたはずであった。が、そこには気づいていなかった。
 
 人がいらっとして、冷たい返事をしたり、怒り出したりするとき、ほとんどは、自分が知らないことや、即答できないことを聞かれたときである。このときの私がそうだった。何枚必要かなんて考えたこともなく、答えられなかっただけだと思う。
 
 ガーゼをあてて、次の処置に移ろうとして、大粒の涙を流しながら次の処置の準備をしている彼女に気が付いた。私はうろたえた。こんなに傷つるとは、、、
 
 こんなことが何度もあった。みんなよく我慢してくれたと思う。ここには2年間務めたが、当時の主任クラスの看護師たちが、「先生が来たころは、大変だったんだよ、随分フォローしたんだから」と、教えてくれた。
 
 医師になって3年目、「研修医」と呼ばれなくなり、そしてそれは同時に、一人の医師としての適切、的確な判断・決断を求められることでもあった。日々、外来、救急、手術、検査と、忙しく、とにかく働き続けた。いわゆる残業、時間外手当はもちろんつくが、上限40時間でカットされていた。40時間は軽く超えていた。おそらく100時間も超えていた。
 
 この現実は、たぶん今もそうだと思う。病院で働く医師のほとんどは、相当の時間外労働をしている、サービス残業で。当時はそんなことは考えもしないで、夜中の手術も経験だと思って苦とは思わなかった。
 
 たくさんの手術を覚えた1年でもあった。この病院での1年間の、脳神経外科の手術件数は、約300件だった。そのうち100件は私が執刀した。およそ100件は助手をした。この経験は貴重であった。脳出血、くも膜下出血、脳腫瘍、脳挫傷など、たくさんの経験をした。

 もちろん、まだ20代である。寸暇を惜しんで遊んだ。子供も小さくて手がかかる頃だし、妻には随分迷惑をかけた。当時は携帯もないので、常にポケベルを持ち、病院からの呼び出しも頻繁だった。バブルの終わりころで、タクシーもつかまらないことがよくあった。いつ仕事しているのか、いつどこで遊んでいるのか、まったく理解不能の夫の生活に、何も言わずに、、、少ししか不平を漏らさずに、家庭を守ってくれた妻には、ひたすら感謝である。
 
 最初の一年は、ひたすら働いて、あまり深く考えることもなかった。医師のキャリアの中で、こういう時期は必要だと思う。ただひたすら、目の前の仕事をこなす。ひたすら経験する。必ず自分の糧になる。
 
 どうにか一年が終わり、いろんな手術も覚え、2年目を迎えた。ますますいろんな手術にチャレンジしていった。

 忙しい脳神経外科医としての生活も2年目になって、少し慣れてきていた。日中の仕事が終わる頃、救急車が来て外来へ。そのまま検査、入院、手術、気が付いたら日付が変わって、なんてことは日常だった。この忙しい病院には、2年間勤務したが、病院に連続して滞在する時間が、60時間を超えることが2度あった。20代で体力もあったし、精神力もあった。少しナルシストでないと務まらない。

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