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横浜の風に吹かれて⑮

 アメリカ編は続く。

 長男は小学4年生を、アメリカで過ごすことになった。1年生の二男の底抜けの明るさに比べると、長男は少し恥ずかしさもあり、アメリカに溶け込むのには、少し時間がかかった。そのストレスが、弟とのけんかや、同級生とのけんかなど、いろんな形で現れたが、それでもアメリカは彼にはフィットした。
 
 少し?、相当、個性が強く、自己主張が激しく、とにかく人とは少し違うことをしたいというのが、ストレートに伝わってくる性格だった。日本では、なかなか受け入れられなかった。同級生から疎まれ、嫌われる程度のことは、どこにもあったかもしれないが、教師からもあまりよくは思われないことがあった。
 
 たとえば、テストの時に、習ってない漢字を使って解答したからといって×にされたり、なんてことはよくあった。それでも子供は素直なもので、理由がよくわからなくても、先生に怒られれば反省する。親に怒られると反抗するのに、である。
 
 ところが、アメリカにきたとたん、個性は尊重され、自己を主張することは、美徳になる。教師はほめることが上手で、それでいてちゃんと重要なことは教育する。体罰はない。ここで、彼は良くも悪くも自信をもった。今までの自分が正しかったことを確信していた。

 
 地理や歴史に興味のある長男は、あっという間にアメリカのすべての州の位地や、州都を記憶した。ボストンのあるマサチューセッツは、その周囲の州とともに、ニューイングランドと言われるが、アメリカの成り立ちの歴史と共に記憶して、アメリカの授業にも積極的に参加した。ニューイングランド6州の質問では、手を挙げて答えたが、Connecticutがどうしてもうまく発音できない。日本人の耳には、「カネタカ」としかl聞こえなかった。
 
 アメリカでたくさんの言葉を覚えた次男と違って、すでにたくさんの日本語を知っている長男は、次男とは比較にならないくらい、たくさんの英語を覚えたが、その発音は、とても日本人らしいものだった。今では、TOEIC 900点で、そろそろ追い越された感がある。
 
 ところで、人の脳、水分比率など、その解剖学的な構成が完成するのは、概ね4歳ころとされる。利き腕、言語中枢の場所など、様々な機能が確定するのは、8-9歳である。通常の日本人は、日本語のみしゃべり、言語中枢が確定したのちに、英語の勉強を始める。なので、英語などの外国語を使うためには、日本語を理解する言語中枢とは別の領域が必要になる。英語を聴くと、まず頭の中で日本語に訳して理解し、なんて答えるか日本語で考え、それを頭の中で英語に訳して答える。こんなことをしないと話せないのである。
 
 一方、小さなうちに複数の言語を使うことが普通のヨーロッパの子供たちは、一つの言語中枢が、複数の言語を理解できる。上記のような翻訳作業は不要なわけである。小さなうちに英語浴びせかけることは、大脳生理学的には有用なはずである。もちろん、子供が小さい時は、こんなことは考えもしなかった。
 

 この長男が、学校からの帰りのバスを待って並んでいるときに、クラスメートと取っ組み合いのけんかをした。アメリカの学校には、スクールポリスがいて、登下校時の安全を確保してくれるが、喧嘩を止めに入ったポリスの腕にかみついてしまった。この後の反応が驚きだった。長男が、HIVに感染していないことを証明しろと言われた。学校職員の日本人が間に入ってくれて、どうにか収まったが、2週間のスクールバス乗車禁止処分になった。本当なら停学なはずなので、寛大な処置だった。本人は何が悪いのかピンと来ていなかったので、自家用車での送り迎えを喜んでいた。
 
 そんな長男の送別会。厳しいことで有名なTieman 先生が、アメリカの地図帳をくれて、長男は感激していた。クラスメートからも、たくさんのコメントをもらって、大泣きだった。
 
 私も、Tieman先生のことはとても信頼していたので、学校での会合にはよく参加した。といっても、日本のPTAとは随分違って、パーティーって感じで、保護者が先生とフランクに接する会だった。parentsということはなく、guardianというのが普通だった。両親とも同性だったり、黒人の子供の両親が白人だったり、アジア人の子供の両親が白人だったり、そういうことでは驚いてはいけないと思うことにしていた。
 

 ともあれ、無事一年を過ごし、子供たちは大きく成長した。何より、外国人をみても構えないのはうらやましい。六本木で道を聴かれて、なんてことなく英語で教えている子供をみて、ちょっとうらやましかったことがあった。
 
 親もずいぶんいろんなことを学んだ。違う考え方を学ぶことは時に重要だと思った。ほめ上手になろうと、この時は思った。でもなかなか難しかった。

 経済の都ニューヨーク、政治の都ワシントンDC、そして学問の都ボストン。ボストンでの生活はとても刺激的だった。 父親の振る舞い、家族のありかた、仕事に対する姿勢。さまざまなことが刺激になった。
 
 楽しい一年であったことは間違いないが、すでに専門医を取得して、医学博士も取得していたので、仕事に関しては、高いモチベーションを維持するのが難しかった。それでも一年間、それまでとは全く違う環境に身をおくことは、いろんな意味でその後の人生のために意義あることだったように思う。
 
 このボストンという街、とにかく好きだった。もう一度、海外に暮らせるチャンスがあって、土地を選べるとしたら、やはりボストンを選ぶ気がする。-15度にもなる厳しい冬も、機関銃のように速い、イギリス人のようなボストン英語も、少し荒い運転も、すべてが好きだった。

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