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横浜の風に吹かれて①

 どこかに書いておかなかきゃ、と思うことがあり、少しずつ書いてみる還暦の秋。まずは中学3年生の時の一大事からである。

 日差しを遮るものなど何もない広大なグランドを走り回っていたあの頃、怖いものなど何もなく、ただひたすら楽しく過ごすことのみを考えていた。ある時は、まだ中学生なのに生意気な、と言われ、またあるときには、もう中学生なんだからもっとちゃんとしなさい、なんて言われていた。大人たちが自分たちをどう思うかなんて、ちっとも考えていなかったので、何を言われようとその場がしのげればどうでもよかった。
 
 中学生活最後の夏休みも終わって2学期が始まったものの、静岡県の田舎では高校受験といっても選択肢が豊富にあるわけではなく、上から順番に行く高校が決まっていくだけだった。
 
 私は、父も兄も通った地元の県立の進学校に入学するつもりだった。当時の高校受験は、内申書と言われる、つまり通常の学業成績や生活態度によって事前調整がなされ、入学試験の比重は低いものだった。私は、なんら受験のプレッシャーもなく、おそらく同じ高校に進むであろう仲間たちと、日々楽しく過ごしていたのであった。
 
 所属していたバスケットボール部はすでに夏の大会を終え、静岡県西部地区大会のベスト16で敗退した私たちの夏は終わっていた。大会が最も遅い陸上部は部員不足で、顧問教諭が学内から助っ人を選び、大会に向けて練習をしていた。私は110メートルハードルの選手として助っ人を頼まれ、練習に参加していた。
 
 その日も、授業が終わって、練習に参加するため部室で着替えていた。遠くで救急車の音がしていた。いつもは気にならない音が、その日はやけに大きく聞こえて、いやな音だなって思ったのを今も覚えている。
 
 グランドに向かうために部室を出たところで、数学教師の伊藤先生が走ってくるのが見えた。
「大変だよ。お父さんが倒れて病院に運ばれた。すぐに帰ってきてって電話だよ。」
と叫んだ。
「最近、調子悪そうにしていたんだ。俺、帰るよ。」
そう、友人に伝えて急いで病院に向かった。
 
 私を迎えたのは、泣き崩れる母と、無言で立ち尽くす病院関係者、そして何も言わず横たわる父の亡骸であった。余りにも突然の死であった。心筋梗塞だった。人がこんなに簡単に、事故でもないのに何も言い残すこともなく死んでしまうことが私には理解ができなかった。
 
 家族の誰かが、その生を終えた後、残された家族にはすさまじく忙しい数日間が待っている。悲しんでいる暇はないほど、次から次へといろんなことを決めていかなくてはならない。きっと、死を受け入れるのに要する時間を与えられているんだと思った。悲しみは忙しさでほんの少し忘れられるのかもしれない。
 
 人は、悲しみが大きすぎると、それを受けいられるまで相当の時間を要すること、そしてその間は涙すら流すことを忘れてしまうものであることを知ったのはこの時であった。
 今は、葬儀場での半通夜が当たり前になったが、当時の田舎では、自宅でまさに夜通しで弔問客を迎えるのが当然だった。蝋燭の灯りを絶やすことなく、一晩を過ごした。
 
 小学校からの友人の福原君と、その頃とても仲良くしてた由美子ちゃんが来てくれた。もちろん、父親にも何度も会っていろんな話をした友人たちである。
「親父、死んじゃったよ。」
微笑む私に、福原君は、
「本当に死んじゃったのかよ。お前なんで笑ってんだよ。」
と言いながら、泣きじゃくっていた。
由美子ちゃんは、私の顔を見ることもできず、ただうつむいていた。私は、感情を失い、泣き方を忘れてしまったように、ただ立ち尽くしていた。
 
 大切な人を失った悲しみは、あとからじわじわと押し寄せてくる。税理士だった父は、自宅に事務所を併設していた。この前の日までは、帰宅すると必ず父親がいた。学校から帰ってカバンを置き、冷蔵庫を開けて何か飲み物を探す。いつも通りのことをしていると、父親を失ったことも忘れてしまう。家にいるはずの父親がいない事に気づくと、つい、
「あれ、親父は?」
と言いそうになって、母親の伏し目がちの顔をみて、言葉を飲み込んだ。そんなことが何日も続いた。
 
 過ぎたことはみな美しくなって、いい思い出だけが残る。父は亡くなって、私にとって決して超えることのできない存在になった。たばこが好きで、一日に何箱も吸い続けていたことも、80kgを超える体重なのに、一向に気にせず、レアのステーキと甘い饅頭が大好きだったことも、なんでもない日常がすべて素敵なことだったかのように感じてしまうのであった。いくつになっても、次男坊の私のことは子供扱いで、最後まで「せ~ちゃ」と呼び続け、叱られたことは一度もなかった。
 
 診療してくれた医師になんら不信を抱いたわけではない。彼らは一生懸命、父の命を救おうとてくれたに違いない。しかし、子供ながらに、こんな死に方はあってはいけないと思った。
 まだ職業観というものはなくて、たくさんのあこがれの職業を夢に抱いていた。建築家、弁護士、裁判官、パイロットなどなど、、、。
 夢に見た職業ではなかったが、自分は将来、医師になろうと決めた。

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