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横浜の風に吹かれて⑮

 アメリカ編は続く。  長男は小学4年生を、アメリカで過ごすことになった。1年生の二男の底抜けの明るさに比べると、長男は少し恥ずかしさもあり、アメリカに溶け込むのには、少し時間がかかった。そのストレスが、弟とのけんかや、同級生とのけんかなど、いろんな形で現れたが、それでもアメリカは彼にはフィットした。  少し?、相当、個性が強く、自己主張が激しく、とにかく人とは少し違うことをしたいというのが、ストレートに伝わってくる性格だった。日本では、なかなか受け入れられなかった。同

    • 横浜の風に吹かれて⑭

       ボストンでの生活が始まった。子供たちは、まずは英語の学校に通ったのちに、現地の小学校に入学した。ボストンには、通常の日本人学校はなく、少し離れたところに補習校として、土曜日のみの、日本人学校があった。もちろん、我が家の子供たちは、現地校にしかいかなかった。ただ、ボストンと、私たちが暮らしたブルックラインには、日本人が多く、日本の子供はこの学校、という具合に決まっており、その学校に行けば、日本人の職員が数人いたし、日本人の子供がクラスに何人かいた。  次男は、小学一年生

      • 横浜の風に吹かれて⑬

         横浜の風に吹かれたのはほんの少しだった。  名古屋、浜松、ボストンへと、大移動が続く。  無事、専門医試験に合格して一息ついた7年目だった。余談ではあるがこの専門医試験。私の頃は、受験するのに5万円を支払った。合格すると、登録料?が7万円かかる。今はきっともっとずっと高い。なんでこんなにかかるのか不思議ではあるが、当時はとにかく受かったのがうれしくて、喜んで支払った。かわいいものである。  この年の秋から、研究者としての一年を、名古屋大学で過ごした。一年間、ひたすら脳腫

        • 横浜の風に吹かれて⑫

           やっと、ほんの少し横浜の風に吹かれることになる。  浜松の病院では、たくさんの手術を経験した。大変貴重な2年間であった。この頃は、通常、2年間勤務すると、別の病院に異動することになっていた。大学医局の関連病院という枠の中での異動である。これはなかなかわかりにくいが、私の頃は、人事権を握っているのは、大学の教授であって、勤務している病院の院長はかかわれなかった。よく、ローンを組んだり、クレジットカードを作ったりするときに、勤務先と同時に勤続年数を書くことがあるが、少し悩む。

        横浜の風に吹かれて⑮

          横浜の風に吹かれて⑪

          話は少し重くなる。  浜松市の隣、I市は、私が生まれ育った町である。その頃は、兄夫婦と母親が暮らしていた。I市には、総合病院があり、そこにも脳神経外科はあった。その日は、穏やかな秋の日だった。I市民病院の脳外科の先生から電話があった。  「先生のお母様が救急車で運ばれました。すぐに頭部CTを施行した結果、くも膜下出血のようです。状態はあまりよくありませんが、先生の病院で治療されますか?」  「先生、お世話になりました。すぐに迎えに行きます。」  上司に報告し、す

          横浜の風に吹かれて⑪

          横浜の風に吹かれて⑩

           横浜の風に吹かれながら書いてはいるが、横浜はまだ遠くにあった。  連休明けの出勤初日、脳神経外科には、私を含めて4人の研修医がいたが、先輩から、当然のように、「じゃ、今日から順番で当直して。」といわれ、初日は私が当直することになった。当直室は、当直料(びっくりするほど安いが)をもらっている上司が使うため、私たちサービス当直の研修医はミーティングルームにおいてあったソファベッドを使って眠るしかなかった。    翌日ももちろんフルに働いて、帰るのはいつも深夜だったが、若さゆ

          横浜の風に吹かれて⑩

          横浜の風に吹かれて⑨

           3年生、生理学、生化学、微生物学、衛生学、薬理学などなど、基礎医学科目の授業と実験の日々。忙しくて、結局大学の近くにアパートを借りた。忙しいのは、アルバイトもそうだった。なんといっても家庭教師が時給がいいので、家庭教師ばかりしていた。  ほかにもいくつかやってみた。友人と塾をつくってみたが、生徒が3人しか集まらずに、半年でやめた。忙しいビジネスマンのために、数多く出版される経済本を要約するサービスを商売にしてみたが、契約が5件しかとれず、3か月でやめた。ビタミンクラブという

          横浜の風に吹かれて⑨

          横浜の風に吹かれて⑧

          「ヒポクラテスたち」への第一歩が始まる  一年生の間は、専門科目は「医学概論」程度で、あとは教養科目だった。二年生になると、「人体解剖学」が始まる。自分が医学を学んでいることを初めて強く感じる学問だった。  私が進学したH医科大学は、医学部だけの小さな大学だったので、2年間の教養、4年間の専門、というのとは少し違っていた。たとえば、人体解剖の授業は、2年生から始まった。楔形カリキュラムと呼んで、単科の大学ではよく取り入れられていた。医学部のカリキュラムでは、医学部学生2人

          横浜の風に吹かれて⑧

          横浜の風に吹かれて⑦

           医学生になった。  予定通り、期待通り?家から通える医学部に入学した。たまたま共通一次試験の会場がこの大学だったので、その時に初めて大学をみた。様々な準備の機会が提供される、今の受験生からは考えられないかもしれないが、私の頃の田舎の高校生は、みんな、こんな程度だった。何しろ、模擬試験代わりに受けたちょっと特殊な、当時の自治省や防衛庁の設置した大学以外は、ここしか受けていなかったので、大学なんてものはほとんど知らなかった。  兄の通う、都内の大学が唯一のイメージで、そこに

          横浜の風に吹かれて⑦

          横浜の風に吹かれて⑥

          まだまだ続く静岡県の田舎の物語りである。  人には、転機となる出会いが訪れる。  担任からも、医学部進学なんて無理だと言われ、自分でもちょっとまずいかな?と思っていた頃であった。  このころ、一番仲よくしていたのは、栗田君だった。彼は、自衛隊のパイロットになることを夢見ていた。高校2年生の一時期、栗田君は、まるで私の家に下宿しているような生活をしていた。  学校が終わると、私と一緒に私の家に帰る。「ただ今」と言って。母も何の違和感もなく、「おかえり」と受け入れていた。時には

          横浜の風に吹かれて⑥

          横浜の風に吹かれて⑤

          まだまだ続く高校生活である。  他校の先輩たちに頼んだことはもう一度あった。同じ高校に通うある女子生徒から、電話があった。下校の時間に待ち伏せをされたり、家までつけられたりして怖いとのことであった。話を聞いていくと、どうやら、商業高校の一年上の生徒らしい。今だったらストーカーというのだと思う。  私は言った。  「わかった、わかった。なんとかしておく。」  私がなんとかできるわけではない。できるのは、電話して頼むくらいである。  これは少し困難だったようだが、なんとかな

          横浜の風に吹かれて⑤

          横浜の風に吹かれて④

           高校での3年間は、今振り返っても、非常に密度の濃い、さまざまな経験をつんだ3年間だった。これほど自由に過ごした3年間はない。この3年間があったから、その後の人生を曲がりなりにも、大きく道を外れることなく過ごせたと思う。周囲の大人たちには、今思えば、ずいぶん心配をかけたものだと思うが、当時はそんなことは全く知らなった。何年もたってから、母が、「あの頃は、ご近所みんな、下のお子さん、大丈夫?」って心配してたんだよ、と教えてくれた。  怒涛の3年間が始まった。  高校一年の春

          横浜の風に吹かれて④

          横浜の風に吹かれて③

           高校受験を目標とした中学校生活は、2学期でほぼすべてを終えることになる。私たちの頃は、3年間の成績の総合判定が、3年生の2学期の成績に反映されることになっていた。内申点である。受験の年だけ頑張ってもダメってことらしい。  国語、数学、英語、理科、社会、技術・家庭、体育、音楽、美術の9科目が、それぞれ10段階で評価され、満点は90点ということになる。私は、なんと88点だった。いくらなんでもよすぎるが、これには理由があった。  私の父方の祖母の弟は、当時の私が住んでいた、静

          横浜の風に吹かれて③

          横浜の風に吹かれて②

           横浜の風に吹かれるまでは、まだ相当かかるが、引き続き中学3年生の私である。  父の葬儀は、現役での、突然の逝去であったためか、田舎にしては随分派手なものだった。自宅の周辺には、50本にも及ぶ花環が並んだ。大人達が、花環を並べる順番を議論しているのが、その頃の私には不思議だった。「そんなの、届いた順でいいんじゃないの?」、という私に、「子供は口をだすな。」と言わんばかりに無視をする、おとなたちがかわいそうに見えた。何本か、「新宿 中田鋭二(仮名)」、「池袋 西園寺 龍(仮名

          横浜の風に吹かれて②

          横浜の風に吹かれて①

           どこかに書いておかなかきゃ、と思うことがあり、少しずつ書いてみる還暦の秋。まずは中学3年生の時の一大事からである。  日差しを遮るものなど何もない広大なグランドを走り回っていたあの頃、怖いものなど何もなく、ただひたすら楽しく過ごすことのみを考えていた。ある時は、まだ中学生なのに生意気な、と言われ、またあるときには、もう中学生なんだからもっとちゃんとしなさい、なんて言われていた。大人たちが自分たちをどう思うかなんて、ちっとも考えていなかったので、何を言われようとその場がしの

          横浜の風に吹かれて①