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調理器具より材料に問題ー戦時下のアイデア商品

 収蔵品には、一見すると何だかわからないものもあります。その代表的なものがこちら。

正面が蓋で外せます

 この物体はサタケ式最近家庭パン焼料理窯(かろうじて残っていた取扱説明書の原文そのまま)です。長野県木曽郡木曽町の骨董市で購入したもので、そこそこ使い込まれています。日中戦争も泥沼に入ってコメの節約が叫ばれた当時の物らしいですが、どう使う物か、外見からはさっぱり分からないと思いますので、まずは、取扱説明書の写真をお見せします。

使用中の図。七輪の上に置きいてあり、蓋は外して右わきに。

 七輪の上に載せて、この中に物を入れて調理するということは分かります。現物を底から見ますと、穴が2列に並んだ台の底のようなものが見えます。

6個の穴が2列ずつ。全部陶器でできています。

 この穴の開いた部分は、この調理器の材料を置く部分を下から見ている状態です。この台には、両側に上面近くまで伸びる側壁が付いています。残念ながら、左側は壊れています。

調理台の側壁
中央は平で穴が12個並んでいます
左側の側壁は壊れています。残念。奥の穴が空気抜きです。

 ここまでお見せしても内部構造がはっきりわかるとは思えませんので、手描きで申し訳ないのですが、断面図をお示ししますとこんな感じです。

七輪に載せた状態の断面図

 えー、はなはだ分かりにくいでしょうが、矢印は熱の流れです。この窯は熱源がありませんので、先に示した使用中の説明書の写真のように、まずは、七輪やこんろに点火します。その上にこの窯を載せると、矢印のように熱が伝わる。つまり、下からの熱を逃がさず、輻射熱で横から下から、そして上からも熱気で加熱と、熱を余すところなく、かつ、じんわり伝わるように配慮された、意外と合理的な構造となっております。
           ◇
 さて、では、この調理窯の作られた背景は?幸い、説明文が残っていたので、引用いたしますと

「東亜新体制確立のため、わが国においては食料政策上、どうしても節米断行による代用食によらなければなりません」(原文まま)と位置付けます。東亜新体制という表現、コメの節約が叫ばれた時代、ということから、1940(昭和15)ー1941年ごろの品と判明します。太平洋戦争前ですね。
 そして、説明書は代用食としてのパンについて、労働力の不足や加工、配給の手間を考えると、原料による配給が最も良いと指摘。さあ、パン焼き窯の出番、となるわけです。そして、パンを勧める理由として

「パンの原料は粉末でありますから何粉なりとも使用できます。例へば干草の粉、草はもっとも食草が多く(略)草の粉にても充分パンとして製作することは決して困難ではありません」(しつこいですが、原文のまま)

 いや、作った人は真剣だったと思いたい。説明文には、食パン製法が載っています。

「食パンはイースト水種をつくり、食パン種をこねつけます。水種は馬鈴薯イーストを混合いたし、13時間位置き、さらに食パン種を元種として用いまた10時間位置き、早い物にても5、6時間はかかります。只今のところイーストも手に入らず、相当に時間も要する事なればその内良い製法を研究致し御知らせ致します」(しつこく強調しますが、原文のままです)

 どう言っていいのか…パン焼き料理窯といっておきながらパンが作れません(泣)

 そのかわり、いろんなものを直焼きにしたりする方法を紹介しています。余熱を利用すれば燃料費はかからない、と強調。最後に、さまざまな料理方法を今後研究するため、「家庭パン菓子割烹洋食研究会」に30銭を添えて入会をと呼び掛けています。研究会の会長は、この調理器を開発した人らしき人物、顧問は、この調理器を販売している会社の社長らしき人物。

 どなたか、この研究会の成果をご存じの方、情報をいただければ幸いです。実際に使われていたし、詐欺ではないようには思えますが…

 わたしも戦後生まれゆえ、当時のことは推測するしかありませんが、調理器の問題より、調理する物資の不足が大問題だったのでしょう。平和な時代であれば、この発明もそれなりの評価があったかも? こうしたとんでもない戦時中の品をお持ちの方、ご提供、ご連絡いただければ幸いです。

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。